アパートにはすでに誰も居なくなっていた。
「キャンディにいきなりひっぱたかれて起こされて、そのあとは爆睡している残りのオカマたちを叩き起して、みんなでこの部屋片付けて……」
自分が居ない間大変だったとアクセルは言う。
ジョジョの姿もバスタブから消えていて、おかげでシャワーを浴びる事が出来た。
考えてみればワシントンを発つ朝以来、シャワーを浴びてなかったのだ。シャワーどころか顔も洗わず歯も磨いていない。着替えてもいなかった。
やっと生き返った気分で風呂場から出ると、アクセルがキッチンでコーヒーを淹れていた。
「ソファに座ってて。今、持ってってあげるから」
言われた通りソファに腰を下ろし、煙草に火を点けてアクセルを眺めた。
「コーヒーメーカーもあるんだけど、あんたに飲ませる最初の一杯だから手で淹れるよ」
大きな図体を屈めて慎重に湯を注ぐ。大雑把そうでいてこいつの動作は繊細だ。店でもコーヒーを淹れているらしい。
「あのカフェと同じ豆だけど、絶対こっちの方が美味いから」
顔を上げてこっちを見て嬉しそうに笑った。
屈託ない笑顔――。何が嬉しいんだかわからないが、この男はいつも子供のような素直な笑顔を見せる。自分には出来ない事……。
「ハリー、灰落ちるよ?」
アクセルは数ヶ月前までヤクの売人だった。
死の粉をばら撒いて、銃を街に流して、裏社会にどっぷり首まで浸かって、死神とダンスしていたような男。10年もの間そんな生き方をしていた。
今の奴の居場所であるバーも夜の仕事だ。こいつは夜の住人だ。
だが、この男から陽だまりを感じるのはなぜだろう――。

「おーい、灰!」

ハッと我に返って咥えていた煙草に気が付いた。
落ちる寸前に手のひらで灰をキャッチする。間一髪……。
「なぁに俺に見惚れてンの?」
それに対してはノーコメントで、ヘラヘラ笑いのアクセルからコーヒーを受け取る。
一口飲んで驚いた。
「カフェの味と全然違う……!」
「でしょ!?あんたのために愛を込めて淹れたんだから」

そんな目で見るな。そんな言葉も言うな。
そうでなくてもさっきからお前の声が聞こえる。
自意識過剰でも自惚れでもない。
声に出さずとも、アクセルは俺に語りかけてくる。

(あんたが好きで堪んない)

そんな事はとうに知っているというのに……。


「それじゃあ今朝の反省会を始めようか」
アクセルが隣に腰を下ろし、唐突にそんな事を言った。
「朝っぱらから俺の目の前で男にナンパされてるって、どーゆー事よ」
「は?知らん。私に言ったってしょうがないだろ」
「おまけに『私と寝たいのか?』なんて、俺だって言われてぇよ!」
「面白がって暫く見物してたくせに何言ってんだ」
「だって、俺が間に入って行かなくても、あんたがどうにかなっちゃう心配なんかないし」
「じゃあどうして現れた?」
「あのままいくとしまいにあの男、あんたにボコられるでしょーが」
「お前、どっちの心配してるんだ……?」
「あの男の方」
「……」
こいつは嫉妬しているんだか単に因縁をつけたいのか、わからない。もしかしたら構って欲しいだけかもしれない。
「それより、3Pだなんてアブナイ事言うな。向こうがその気だったらどうするんだ?」
顔を赤らめていた事から察するに、そういうタイプではなさそうだったが。
「その時は……あんたがそうしたいって言うんなら……」
「誰が言うか!」
つい声を荒げると、アクセルが覆い被さるようにずいっと顔を近づけてきた。
「3人でかぁ……。目の前であんたが他の奴に抱かれたら……俺、嫉妬で頭がおかしくなりそうだな」
後退ったがまた距離を詰められる。
「それとも、そういうのって興奮するのかなぁ。ね、どう思う?」
ソファの背もたれとアクセルの身体に挟まれてもう逃げ場がない。
どういうつもりで奴はこんな事を言うのか、訳が分からず言葉が出てこない。
「二人がかりでいろんなコトされちゃったら……あんた、正気保っていられる?」
一瞬――。この時迂闊にもほんの一瞬、そんな情景を想像してしまった。
めまいがして軽くパニクった。
そんな動揺はどうやら顔に出ていたらしい。
アクセルの鳶色の瞳が悪戯っぽく細められ、口元が歪み、肩が小刻みに震えていた。
この時、ようやく自分はこの男にまんまとからかわれたのだと気が付いた。
「あははは!」
……くそっ!
「今、自分が二人がかりでヤラれているシーン想像して興奮しちゃっただろ?」
「馬鹿、するわけないだろ」
悔しい気持ち半分、恥ずかしい気持ち半分。それ以上にこいつの話術に簡単に嵌められた自分の情けなさに腹が立った。
「俺は喋っていて興奮したよ」
アクセルはもう笑っていなかった。
「3Pは冗談だけど、ベッドでのあんたを想像した」
奴の手が伸びてきて、そっと髪を梳いた。まるで壊れ物を扱うように酷く丁寧な手つきで。
こんなボサボサな髪なんてどう触ったっていいだろうに。

「抱きたい……」

ぽつり、とアクセルは呟いた。
要求するような言い方ではなく、跪いて赦しを請うような、そんな痛々しい言い方をこいつはする。
俺の答えは決まっていた。

「……だめだ」

酷く掠れた声だった。それでもしっかり意思を込めて伝えられたと思う。
俺の返事がわかっていたように、アクセルは顔色を変えなかった。静かに髪を梳きながら「うん」とだけ言った。
ついさっきまでの、自信たっぷりに人をからかう小憎らしいガキはどこにも居ない。
だが、それでもアクセルは躊躇いがちに唇を寄せてきた。
重なる寸前で顔を背ける。
「……キスもだめ?」
困ったように苦笑して見つめてくる奴の顔を、俺はただ黙って見つめ返すしかなかった。


8ヶ月前、一度だけアクセルとセックスをした。
俺たちは迫りくる最後の時間に怯え、追い詰められ、滅茶苦茶に身体を繋いだ。
男とのセックスは決して生ぬるいものではなかった。
羞恥、苦痛、恐怖、そして気も狂わんばかりの快楽……。
遠慮も手加減もなく本気で愛された。
真っ直ぐ自分にぶつけられるアクセルの剥き身の「想い」に、ガラクタみたいなこの身体を、奴が欲しがるままに全部差し出した。堪えきれず上がってしまう女みたいな喘ぎ声も、はしたなく強請る言葉も、涙すらくれてやった。
引き換えにアクセルから贈られたものは、奴のたったひとつの愛とたくさんの痛み――。
それがアクセルの持つ最も価値のあるもので、そしてすべて。
それだけで充分だった……。
おそらく、その夜は俺の人生の中で一番幸せな時間だったと思う。
だが、思い出だけを持って静かに消えるはずだった俺は、自分を追って来たあいつの姿を見て思わず呼んでしまったのだ。
『アクセル!』と――。
終止符を打てなかった自分が次に考えるべき事……。
これからも共に歩むなら、そんな関係では二人ともだめになると思った。
なぜなら、アクセルは男で自分も男で、それ以外ではいられない。
俺たちはお互いのために新たな関係を築かなければならないのだ。

だけど……。


やがて、アクセルは俺の身体に腕を回して胸に頭をあずけてきた。子供が母親に甘えるように頬をすり寄せる。
「大丈夫だよ、ハリー。俺、あんたが嫌がる事しないから。だから、そんな泣きそうな顔しないで。お願いだから……」
泣きそうな顔を……俺はしていたらしい……。

馬鹿な奴――。
お前は少しもわかってはいない。
俺はお前を恐れているわけじゃない。
泣きそうな顔なのだとしたら、今のお前を抱き返してもやれない己の弱さを知ったからだ。
馬鹿アクセル――。
俺のために優しく笑ってみせるお前。
けど、泣いているのはお前の方じゃないか。
声なき声で俺の名を何度も呼びながら……。

(好きだよ、ハリー……あんたが大好き)

だけど……。


抱きたいと言われた時――。
黙って目を閉じる事が出来たら、どんなによかっただろう……。




「いらっしゃい!」
店の扉を開けると、真っ先にアクセルの笑顔に迎えられた。
「一番奥の席に座ってて。今、来るはずだから」
奴がカウンターの中から身を乗り出しながら指差す。
指定された席に腰を下ろして人を待つ。
本格的にバカンスシーズンに入り『ネオ・トリアノン』も暇そうだ。ましてや今の時刻は午後9時半。つまり、まだ外は明るい。酒を飲む気分にはなかなかなれない。
おそらくどこのバーも同じだろう。
それでも何組か客が入っている。マリーをはじめ店のホステスたちは、接客中席を立つついでに俺のテーブルに顔を出し挨拶していった。

「待たせちまって悪いね――」

そう言いながら外から駆け込むように入ってきたのはこの店の経営者だ。
「こっちも今来たとこだ。――久しぶりだ、レディ・ジョー」
「ハリー、よくここに帰ってきてくれたね」
差し伸ばされた手のひらを握る。肉厚で力強い手。
「このビルのオーナーに挨拶しないとな。……いや、本当はあなたと一度一緒に飲みたかったんだ」
「あたしの方こそあんたと飲みたいと思ってたよ。今夜は水いらずで飲もうじゃないの」
何を飲むかと訊かれてバーボンをロックで、と答えた。注文がアクセルに伝えられる。
「忙しいんだろ?聞いたよ」
「実は仕事を丸投げしてきた」
「おやおや、いいのかい?」
「段取りは済ませてある。大丈夫だ」
アクセルに言った休暇を取る際に管理部と喧嘩したという話は本当だが、部下たちに涙目で止められたというのは嘘だ。連中はあれでみな自分のすべき事を心得ている。
アクセルがふたつのバーボンを運んできた。
「俺も混ぜてほしいよー」と文句を言う。
レディ・ジョーは、さっさと仕事しろ!と言って奴を追い払った。
「休暇の目的はあいつかい?」
「ああ……」
取り繕っても仕方ないので肯定した。
「レディ・ジョー……フランスに来る直前、私は4ヶ月間砂漠の戦場に居たんだ」
そう言うと驚いた顔で見つめられた。
「銃声も爆音もまだ耳の奥に残っている。今回はかなり危険な任務だった。生きて帰れたらアクセルに会いに行こうと最初から思っていた。やっと生還した時、頭をよぎったのは、『どうやって休暇を奪取しよう』だったよ。次の瞬間、ワシントンに電話していた」
小さく笑ってバーボンをひと口飲む。強い酒は食道を焼きながら胃に落ちていった。
「大人げない行動だったかもしれない……」
その呟きにレディ・ジョーは呆れた顔で笑いかけたが、俺の表情を見て笑うのをやめた。
「あいつが望む事を知っていながら、それに応えられないのに来てしまったんだ」
「でも、本心では応えたいんだろう?」
「……男同士なんだぞ?」
「あんたはストレートだから躊躇うのも無理ないけど、フランスではわりと普通の事だよ」
「どうする事が正解なのか、自分はどうしたいのか、正直言ってわからないんだ」
我ながら、らしくないと思いつつもため息が出た。
「それに、私は迷いもすれば間違いも犯す普通の男だ。奴が思っているような天使じゃない。それどころか血で汚れた人殺しだ。私という存在はいつか酷くあいつを傷付けるかもしれない。あいつの未来を血生臭いものにしてしまうかもしれない……」
「……あんた、以前大切なものを失くした事があるだろ?」
唐突に言われて一瞬息が止まった。
「人はみんな何かを失いながら生きている。あなたもそうじゃないのか?」
そう答えるとレディ・ジョーは俯き、「そうだね」と笑ってバーボンをあおった。
ふいにカウンターの方が賑やかになった。
アクセルと同じくらいの年頃の若い女二人と、中年の女性が来店したところだ。
中年女性は馴染み客らしく、アクセルの両頬にキスをしている。
三人とも美しい女たちだった。おそらく業界の人間だろう。
「CM制作会社の敏腕女社長が若手モデルを連れてきたんだよ。あの子たちもあいつのファンになるだろうね」
アクセルは人から愛されるタイプだ。長身でハンサム、センスもいい。だが、見た目ばかりではない。陽気で優しくて人懐こい。その上、人に合わせた接し方が出来る奴だ。ここに来る客が老若男女さまざまなのは、きっとそんな理由だからだ。
アクセルはよく俺の事を綺麗だと言うが、俺はあいつのように人から好かれはしない。外見を言うなら、あいつこそファッションモデルでも通用しそうだ。
「ああしているアクセルをどう思う?」
「いいバーテンダーだと思う」
即答した。本当にそう思う。カウンターの客の顔がみな幸せそうなのが何よりの証だろう。
「あんたの目は確かだよ……大きくなったもんさ」
もともとあいつはゴミ捨て場で拾った野良犬だった、とレディ・ジョーは話し出した。
「大人のチンピラ連中に殴られて、この店のゴミ捨て場で怪我して倒れてたところをあたしが拾ったんだよ。アクセルはまだ13歳の、ほんの子供だった」
カウンターで客と笑っているアクセルを、レディ・ジョーは親の目で見つめていた。
「チビのくせに凶暴なガキだったよ。唸って噛み付こうとしたら容赦なくぶん殴ったね。でも怪我の手当てをして食事を与えた事がきっかけで、それからあいつはたまにフラリと来るようになった。色とりどりのリキュール瓶を何時間でも飽きずに眺めてたっけね。これがアクセルのスピリッツやリキュールとの出会いさ。あたしが教えた事はほんのさわりだ。あいつは自分で本を買って、他のバーに飲みに行って……ガキに酒を飲ませるような店はロクでもない店なんだけどね、とにかく奴は独学でスピリッツという物を学んだのさ。まだ本当の酒の味も知らないような子供だ」
「そんな子供をよく雇う気になったな……」
「雇う気なんざまったくなかったよ。……あいつのスピリッツに対する情熱はますます深くなっていった。給料はいらないから店で酒を作らせてほしいと頼みこむんだ、あの馬鹿は。何百回お願いされたかわからないよ。売人をやっているのは承知だったけど、ついに根負けして最初は見習いとして店に出してやった。……あいつが17歳の時だ」
カウンターの方からカチャカチャという規則正しい音が聞こえてきて顔を向けた。
アクセルがシェーカーを振っていた。
正直、驚いた――。
普段のガキっぽさも馬鹿っぽさも全部帳消しになるほどの流麗な動作が美しくて、思わず目を見張ってしまう。
「ハリー、あんたと出会ってアクセルは変わったよ」
レディ・ジョーの意外な言葉に視線を戻される。
「アクセルが売人を辞められたのはあんたのおかげだ。それからのあいつは、今までみたいに好きという気持ちだけじゃなく、バーテンダーの真髄を探るようになった。経営とはどういう事なのか考えるようにもなった。客層が増えたのには驚いたね。若い女ばかりじゃなく、ビジネスマンや年配者が増えたんだよ」
「そうなっていったのは奴の資質だ。私は関係ない」
「あいつは言うんだよ、『ハリーの背中に追いつきたいんだ』って……」
「……」
「……感謝する」
そうやって、あいつは背伸びして手を伸ばす。掴みたいものは何なのか――。
「いずれアクセルには店を任せようと思っている」
レディ・ジョーは経営者の顔で言う。この厳しい経営者の心眼に映るアクセルの本質をあらためて想った。
「アクセルはまだほんの若造だ。だけどあいつはやがてこの仕事を通して多くの人間を幸せにすると思う。たかが酒一杯だ。けどね、グラス一杯のカクテルの中に入れた1ダッシュ(5〜6滴)のオレンジビターズが女の涙を止める事もあるんだよ。一人のガキをそんな酒を作るバーテンダーに変えたのは、たった一人の男の背中だったんだ――」
レディ・ジョーは顔を上げ、真っ直ぐ俺を見据えた。
「……わかってるだろ?あんたの事だよ、ハリー。血生臭いどころか、あんたは光なんだ」

(俺、9年後はあんたみたいになりてェ……)

客がもう一組入ってきた。店内が賑やかになる。
独占していた店の主をそろそろ解放しなければならない。
「ありがとう、レディ・ジョー。あなたと話が出来てよかった」
俺は席を立って心から礼を言った。
「ハリー」
呼び止められ振り返る。
「誰のためでなく、あんたにとって本当に大切なものは何なのかを自分でよく考えてごらん。その上でこれから進むあんたの道に、もしもアクセルが妨げになるようだったら……その時はあいつを突き離しなさい。大丈夫だよ。あんたの幸せがあいつの幸せなんだ」
その言葉に動きも声も封じられた――。
「間違いなんか最初からないんだよ。あんたが自分で選びとった事が正解になるのさ」
胸の中でレモン味の炭酸が、甘く静かに俺を包んでいく。不思議な懐かしさが弾けた。
「たとえそれが愛でもだ」
「レディ・ジョー……」
俺よりも一瞬早く大きな身体が駆け寄って――抱き締められた。
華やかなドレスを纏って、綺麗に髪を結いあげて、だが、逞しい胸の中に閉じ込められてこの人が男である事を思い出す。
別れの挨拶にしては力強く抱き締めてくる相手の身体を、俺も抱き返した。
耳元でレディ・ジョーが子供をあやすように優しく囁く。

「不器用な子たちだねえ……」

俺は、唇をきつく噛んで目を閉じた――。