夜と呼べる時間も通り越し、けど朝と言うにはまだ早過ぎる――。 部屋の中はマンデリンの芳しい香りで満ちていく。 その人の、人生最後の一杯を提供するくらいに心を込めて、丁寧にコーヒーを淹れた。 彼はしばらく漆黒の液体を眺め、香りを嗅ぎ、そっと一口飲んで目を細めた。 美味いという言葉はない。代わりに微かに口元を綻ばせて俺を見る。 それだけで堪らなく嬉しかった。 彼は――ハリー・ブライアント少佐は、つい先々週まで砂漠の街に居たという。 中東にあるその国は、毎週のように外国人が誘拐され、自爆テロが起こり、米兵が命を落としている。テレビのニュースで毎度お馴染みの事件の舞台。 そんな、この世の地獄みたいな国に、この人は4ヶ月間居た――。 始まって間もなく開戦理由が曖昧になった戦争だった。 大義名分が揺らいでも、始まってしまった殺戮を誰も止められない。 両者が自分の神を信じ、自分の理想を掲げ、自国の自由と平和のために戦う。 だが、情勢は次第に混沌としてきた。 同じ神に祈りを捧げながらも宗派の違いによる対立が生まれ、中東のその国は内戦状態に入る。敵国と戦いながら、同時に国内が分裂して、同じ民族同士で殺し合うようになった。 その結果、さらに多くの人間が巻き込まれて殺されていく。もう敵も味方も関係ない。 宗教を背景とした民族の紛争は根が深い。 尤も、こんな考え方自体がキリスト教圏的な発想なのだろう。 アメリカがやっている事は間違っているかもしれない。この侵攻はどんどん状況を複雑にしていく。自分がやっている事に矛盾を感じてはいるのだ、とハリーは言う。 だが、毎日多くの人間が死んでいる事は事実だ。立ち止まっている暇はない。 自分がした事はコソ泥みたいなものだ、とハリーは笑った。 部下と二人だけの敵陣潜入。今後の行動計画を含めた敵のデータを丸ごと盗み出し、最後にオンラインシステムにトラップを仕掛けてきたという。 「昔ならいざ知らず、今のあんたは特殊部隊じゃないだろ。いつもはスーツ姿で仕事しているあんたが、そんな危険な命令、従うしかないのかよ……」 釈然としない俺の呟きに、ハリーは呆れ顔で笑った。 「少佐ってのは管理職で、これでも一応私は責任者だ。この作戦を企てて命令を下したのは私自身だ。確かに無謀だと上層部から文句は出たな。極秘だから他の専門部隊にはやらせられない。すべての責任は自分が取ると言ってようやく作戦の承認が下りたんだ」 現代の戦争は情報戦だとテレビで観た事がある。最新兵器も優秀な兵士の働きも、すべてはいかに正確な情報をいち早く得る事が出来るかで生かされてくるのだと聞いた。 アメリカ国防総省という巨大な組織で、要である情報を司る部署の中心にこの人が居る。 「もしかして、ハリーってエライ人だったの?」 俺がそう言うと彼は、お前が言う“エライ”の定義がわからん、と言って笑った。 つい数分前、俺が唇を奪った愛しい想い人――。 俺と会っていない時のハリーは鉄のカーテンの中で生きている。 完全武装した屈強な兵士たちを従えた、高貴な身分の麗人を想像した。 そもそも、俺みたいなチンピラがよくこの人に触れる事が出来たな、と思える。 「首尾よく目的を遂げた後、撤退する時に敵に見つかって銃撃戦になった。背中の傷はその時受けたものだ。」 包囲網は狭まり退路を断たれ、仲間との無線も途切れ弾も残り少ない。そんな窮地にありながら生還出来たのは、部下を信頼していたからだ、と彼が言う。 「それに、こんな所で死ぬつもりはさらさらなかったからな」 「敵を、たくさん殺した……?」 「マシンガンの弾が尽きる程度にな」 そう言って、彼はマルボロを一本咥えた。 戦争映画はたくさん観た。 登場する武器や戦車をカッコいいと思い、戦闘シーンでは手に汗を握った。 実際にあった紛争を描いたハリウッド映画も観た。 目を背けたくなるような悲惨なシーンもあったが、観終わった後俺が思うのは「ああ面白かった」だ。 その戦争映画がどんなに悲惨な実話でも、俺にとっては暇つぶしのビデオ観賞に他ならない。自分には関係ない出来事だ。 ここに――今まさに目の前に、一人の現実が座っている。 硝煙立ち込める瓦礫の街を駆けるハリーを想像した。 部下と二人、お互い援護し合いながら建物の陰から陰へと走る。 タタタン、と妙に軽い銃声はリアリティを感じない――。 もしかしたら現実の死とは、軽い音で軽い感触で、そして拍子抜けするほどあっけないものかもしれない。 俺には想像でしかないそんな「感触」を、この人は身体全部で知っているのだろう。 10日前、俺は何をしていただろう。 思い出せないのはいつもと変わらない日常だったからだ。 その日、この人は戦場を走って人を撃って、自らも血を流していた。 もし、背後の爆撃にあと1メートル近かったら? もし、伏せるのが一瞬遅かったら? ざわり――。 言いようのない悪寒が走った。 全身総毛立つのを感じる。 指先から徐々に冷たくなっていく。 身体が震えた。 どうして?どうしてだよ、ハリー……。 「何であんたなの……?」 思いはそのまま口から吐き出される。 「そんなヤバい国に行くのが何であんたなんだよ。そんな危ねぇ仕事……。命を懸けたその先に何があるってんだよ!」 気持ちを抑えきれなくて声を荒げる。 「間違えるなよ?アクセル」 それに答えるハリーは静かで、だが冷たく厳しかった。 「私はアメリカ合衆国の軍人だ。自国を守る、それ以外に理由も目的も何もない。そのために爆撃に遭って死ぬかもしれなくても、それが私の職業なんだ」 頭をハンマーで殴られたみたいだった――。 今までこの人の何をわかったつもりでいたのだろう……。 自分はいかに浮ついていたか、己の甘さを思い知った。 「お前の知らないハリー・ブライアントのほんの一部分だ。どうだ?聞けてよかったか?」 優しい、というより悲しい顔でハリーは俺に微笑む。 そんな顔をしたハリーに、俺が今出来る事はひとつしか思い付かなかった。 「お願いがあるんだ、ハリー……」 「何だ?」 「背中の怪我……手当てさせて?」 綺麗な筋肉の付き方をした背中。 服を着ていても裸でも、この人の背中の美しさは印象的だ。 最後に見た時よりまた絞られた背中をしている。肉体的に苛酷な日々だった事が窺えた。 俺の憧れ、俺の目標。この背中に追いつきたくて、追いつきたくて……。 でも、遠すぎて手が届かない。 その背中は今こんなにも傷だらけだ。 「あーあ、もったいねーなー。せっかく綺麗な肌なのに」 「馬鹿、モデルやってるわけじゃないんだ。男の肌なんかどうでもいいんだよ」 「痕にならなきゃいいな、これ」 「なるわけないだろ、こんなつまらん傷。ネコの引っ掻き傷程度だ」 「これ以外の傷、痛い?」 「いや、全然」 「この深いやつは?」 「強く擦らないかぎり大丈夫だ」 血を拭きとって丁寧に消毒する。深くても縫うほどではなかったようだ。 前にもこの部屋で、こんな風にハリーが俺の額の怪我を手当てしてくれた事があった。 数分前に銃を握っていた同じ手で薬を塗ってくれた、その手の優しさに驚いた。 「もう血は止まっているみたい。でも一晩は念のため絆創膏貼っておいた方がいいね」 「……すまん」 「悪いのは俺だから。ごめん……痛い思いさせて」 俺が手当てをしてもらったあの時も、俺はこの人に謝っていたなと思い出した。 同じ馬鹿を繰り返す自分……。 「フランスとだけは戦争したくないな……」 唐突にハリーがぽつりと呟いた。 「そういう可能性あるの?」 「友好国だから今はないが、世界情勢なんていつどうなるかわからないさ」 「あんたと敵同士なんてヤダ」 「戦争になったら絶対軍隊に入るなよ?徴兵されそうになったら逃げろ」 ハリーが言うと妙に現実味を帯びてくる。 「――もしも、だよ?もしも、戦場で俺たちが逢ってしまったら……どうする?」 そんな事をこの人に訊く俺は本当に愚かだ。 ハリーは黙ったままだった。 背中を向けたままのハリーが今どんな顔をしているのかわからない。 長い沈黙の後、僅かに顔をこちらに向けて、だが表情は見えぬまま彼が言った。 「その時は……お前が先に撃てばいい」 ハリーが考えた挙句選んだ言葉――。 こんな悲しい言葉しか選べなかった彼の心を想うと切なくなる。 背後から、両腕ごとハリーの背中をそっと抱いた。 「何でそんな事言うのさ」 肩に額を乗せて呟く。 「俺があんたを撃てるわけないじゃん……!」 どうかこのまま振り返らずに、どうかもう少しこのままで――。 「……ハリーはずるいよ……」 ハリーは何も言わず、俺の腕も振り払わなかった。 濃い霧の中を走っていた。 ここがどこなのかはわからない。だが、俺はハリーを探していた。 遠くで爆音が聞こえる。 それで初めてこれは霧ではなく、硝煙だと知った。 立ち込める硝煙の濃さに、ここでいかに多くの火薬が発火したか窺い知れる。 その時風が吹き、ようやく視界が開けてきた。 前方に人影が見える。 ハリー! 彼は戦闘服を着て銃を抱えてこっちを見ていた。 俺に向かって何かを叫んでいる。 声は聞こえない。だが、口の動きが……。 『逃 げ ろ !』 その時。 タタタン!オモチャみたいな軽い銃声がした。 ハリーが大きく仰け反り、身を捩じらせてその場に崩れ落ちる。 俺は悲鳴を上げた。 気が付くと、俺はハリーを組み敷いてその身体を突き上げていた。 さっきと同じ場所。 瓦礫と化した建物の陰にハリーを引っ張り込んだらしい。 よかった!死んだと思っていた。 失われたと思っていた愛しい命を胸に抱いた時、安堵感は激しい情欲に変わった。 もう離さない! こんな所で……と、ハリーが喘ぎながらも抗議する。 汚れるからやめろ、と言う。 今さら泥や埃なんて気にならない。あんたの精液なら舐め取ってやるさ、と答えた。 だが、ハリーは言葉を続けた。 血で――と。 顔を上げて自分の両手を見た。 べっとりと、手を染めている真っ赤なそれは……。 思わずハリーに視線を戻す! 俺の身体の下で、ハリーは血まみれだった。 茫然としている間にも彼の身体からどんどん血が流れていく。 閉じられた目、青白くなっていく顔。 彼の名を叫ぼうとしても喉が凍り付いたように声が出ない。 こんなに多くの血が流れ出てしまったらとても生きてはいられない。 止めないと! でも、どこから出血しているのかわからない! 地面に流れ広がっていく血は、大きな血だまりになり、やがて赤い沼になった。 ハリーの身体が血の沼に沈み始める。 待て! ハリーの身体から流れた血の中に、彼自身が沈んでいく。 やがて足元から沈み、ゆっくり腰が、そして胸が……。 待ってくれ! ハリーの腕を掴んで引っ張った。 だが、ぬるぬると血で滑って引き上げられない。 そして、とうとう顔までも血の中に飲み込まれようとしていた。 行くな!ハリー! 目が覚めた――。 飛び起きるとまだ辺りは暗かった。 自分の荒い息使いと心臓の音以外は何も聞こえない。 ドアの向こうの居間は静まり返っている。ハリーはぐっすり眠っているはずだ。 俺は全身汗だくだった。 恐ろしい夢を見た――。 とろりとした質感、ぬるぬるした感触、鼻腔に残る生臭さ。 そんな血だまりの中でハリーが死んでいく……。 彼の生々しい傷を見てしまって、彼の背後に常にある“死”というものを意識した。 だからあんな夢を……。 両手で汗まみれの顔を擦る。 「大丈夫だ、ただの夢なんだよ……。しっかりしろよ!俺……」 声に出して自分を叱った。 俺は生れて初めて「失う」という恐怖を知った――。