暑い……。 地下鉄駅から地上に上がると太陽光線が容赦なく照り付けた。 まして、今は一日のうちで一番暑い時間帯だ。思わず空を仰いで忌々しい太陽に舌打ちした。 叔父、ステファン・モンティエの屋敷はパリ16区、いわゆる高級住宅街にある。 今回の渡仏を事前に知らせていなかったのは会う予定がなかったからだ。だが、やはり一度くらい顔を出しておこうと、今朝電話をしておいた。 叔父は大層驚き喜んで、ぜひ屋敷で昼食を共にしようと強く言ってきたのだ。 叔父と会えるのは嬉しいが、この暑さのため足取りはどうしても重くなる。 タクシーに乗るまでもない道のりを、俺は仕方なく歩いた。 朝方、アクセルがうなされていた。 寝言で俺の名を呼ぶあいつを、何度起してやろうと思ったかわからない。だが寝たふりを続けた。どんな悪夢も覚めない夢はないのだ。 背中の傷を見られたのはまずかった。 今の部署に就いてから、迷彩服を着て戦場に赴くなどまれにしかない事だ。アクセルに乞われるまま、仕方なく戦場の話をしてやった。嘘は言えなかった。 あいつは怯えているのだと思う。生々しい戦争の話にではない。 俺が消えてしまう事にか。この心の行方にか。それとも壊れそうな自分にか……。 結局、その後は一睡も出来ず、適当な時間を見計らって起き出した。 今日叔父の家を訪ねると話すと、アクセルは何事もなかったように笑顔で同意した。 「これ、ハリーにあげる」 部屋を出る前に呼び止められて奴が差し出す物は――。 「何だ、これは」 「何って……ペッツ知らねえの?」 「ペッツは知っている。この妙な生き物みたいのは何だ?」 長方形の筒の上にオレンジ色の変なキャラクターがくっ付いている。 「ガーフィールド知らない?あんたの国で生まれたネコの漫画でしょうが」 手に取ってじっくり見る。可愛いのか?これが?このふてぶてしい顔が? 「見れば見るほど腹が立ってくる顔だ」 「ええー!愛嬌あるじゃん!俺のコレクションの中で一番のお気に入りなのにィ」 コレクション……。ガキに加えてオタクか?こいつは……。 「で、なぜ私が子供のお前から菓子を貰わなきゃならないんだ?」 「子供って、アンタね……。道中のおやつでしょ。はい、あーん」 奴はネコの頭を仰け反らせて、首の付け根から吐き出されたタブレットを一個取り言った。口元に突き付けられたのでついうっかり口を開けてしまう。しまった、と思った時にはすでに遅く、口の中に甘いタブレットをころんと入れられてしまった。 不本意ながら菓子を食べさせられて睨んでみたが、アクセルは幸せそうな顔で笑っていた。 「ガーフィーがあんたのポケットに入りたいって」 と言うなり、奴は俺のシャツのポケットに勝手にそれを入れてしまう。 「気を付けて行っておいで」 急に大人の顔で優しく言われてちょっと驚く――。 呆気にとられてアクセルの顔を見上げていると頭を撫でられてしまった。 ふざけて、じゃれて、甘えてくるいつも通りのアクセル。 いつも通り……。だが、何か違う気がする。 いつも通りに見えて、いつも通りだからこそ、それでは良くない何かが……。 本当は二人とも逃げずに話をするべきなのだろう。 こいつは、蕩けるような笑顔の内側に一体何を抱え込んだのか――。 「ハリー!一体どういう風の吹きまわしだい!?」 叔父は開口一番こう叫んで抱き締めてきた。 「ちょっと特別休暇さ。元気そうだね、ステファン」 50代半ばの叔父は母の弟だ。昔から俺の事を我が子のように可愛がってくれていた。 3人の娘を持つ叔父は、一人くらい息子が欲しかったのかもしれない。 「こう暑くなければ庭で食べるのも良かったんだがね」 と言われて案内された食堂は、丁度いいくらいの冷房が効いていた。 「生憎、ナタリーは留守でね。知り合いに不幸があって葬儀に行っている。家内の手料理ではないがガルシアさんの作る料理は美味いぞ」 家政婦のガルシア夫人が、丁度飲み物を運んで来て「ありがとうございます」と微笑んだ。 「マリーには連絡したのかい?ハリー」 「いや。母はどうせ学会でジュネーブだろ?」 「自由奔放に研究だけしているのかと思ったら……。ソルボンヌはもっと、あんな引き籠り学者を外に引っ張り出せばいいんだがね」 父が死んでフランスに戻った母は博士号を持ったソルボンヌの教授だ。凄い肩書に聞こえるが、実際は研究室に閉じ籠って“地球を救う植物と昆虫”の研究に夢中の、傍から見ればただの研究馬鹿だ。だが母はその研究に誇りを持っている。優しく愛情深い母親というだけでなく自由でひたむきな生き方をする、そんな母の姿が俺は好きだった。 「それより、あなたこそ会社の方はどうなんだ?社長が自宅でのんびり昼飯食べてていいのか?」 叔父はヨーロッパでも大きな食品卸売会社を営んでいる。忙しい身体のはずだ。 「今日の午後は来客も外出の予定もないからね。何もない時はよく家にいったん帰って昼食を摂っているよ。今日はタイミングが良かったんだ」 叔父は笑って冷たいアペリティフを飲み干した。 食卓には野菜がたっぷり使われた料理が並んだ。特別に手が込んだ料理というわけではない。だがシンプルながらどれも味が良く、栄養のバランスが考えられている。特にこんな暑い日に、涼しい部屋で食べる温かいミネストローネは格別だ。 「食を楽しむ人は生活自体を楽しんでいるんだろうな」 「どうしたんだいハリー、もしかして私を褒めてくれているのかい?」 「そうだよ、あなたが羨ましいんだ。俺は楽しむ事が下手だから」 楽しむ以前の問題だ。自分はまともに私生活を送っていない。仕事が忙し過ぎてあまり自宅に帰ってないのだ。自分の家で寝るよりどこかのホテルで寝ている方が多いだろう。毎日知らない誰かが作った物を食べ、自分の事をよく知らない人間と会話をしている。 「提案があるんだけどね」 と、妙にあらたまった声色で話しかけられた。 「来週家内とブルターニュの別荘に行くんだが、君も一緒に行かないか?」 突然の話で返事が出来ない。 「仕事中毒の君がバカンスシーズンのフランスに来るなんて、めったにある事じゃないだろう?こんな中年の夫婦と一緒では楽しくないかもしれないが、海辺でのんびり過ごすのはいいもんだぞ?」 言葉を選んでさりげなく誘う叔父の胸の内は、こんな甥っ子を酷く心配しているという事を、俺はわかっている。 あらためて問われはしないが、俺がどんな仕事をしているか、そのためにどんな生活スタイルで日々過ごしているか、叔父は知っている。加えて、俺の人付き合いの下手さ加減も心配のタネになっているのだろう。 「ありがとうステファン。でも夫婦水入らずの休暇を邪魔したくはないよ」 心配してくれる身内の存在を、素直に嬉しいと思う。それでも何か言おうとする叔父に言葉を付け足した。 「それに、残念ながらそこまで休暇は長くないんだ……」 その時――頭に突然その思いは浮かんだ。 「そのかわりと言っては何だけど、頼みがあるんだ」 その思い付きを、次の瞬間には言葉に出している自分に驚く。 「あなたがナタリーと行く前にその別荘を貸して欲しい」 俺の頼みに心底びっくりしたらしい。叔父は目を丸くして俺を見つめた。 「君が?驚いたな……。もちろん、そりゃ全然構わないよ。でも、一人じゃないだろう?」 「パリの友達と一緒だ。もちろん掃除しておく。それから必要な備品の買い出しも……」 「そんな事はいいよ。それよりハリー」 叔父はいったん言葉を切って、そして穏やかに微笑んで言った。 「好きな人が出来たんだね」 「……」 叔父の一言に呆気に取られて妙な間を作ってしまった。だが、急いで笑いながら否定する。 「違うよ、ステファン。そいつは男だ」 数日間、家を一軒借りるのだ。叔父にしてみればどこの馬の骨とも知れない連れの男の事を、きちんと話しておく必要があるだろう。 「名前はアクセル。レ・アールのバーに勤める腕のいいバーテンダーだ。まだ23歳で、年よりも子供っぽくて派手な外見だけど、根は真面目で優しい奴だよ。実は今回そいつのアパートに泊めてもらっているんだ。海を見た事がないらしい。だから……」 決して怪しい人物ではないと、叔父を安心させようと必死になっている自分に気が付いた。 そんな必死な俺の語りをどう思っているのか、叔父は嬉しそうな顔で頷きながら聞いている。 「君はその青年が好きなんだね?」 やっぱり……。 「いや、だからそいつは男だって」 「でも、大切な人なんだろう?」 そう言われて、今度こそ俺は言葉を失った。 大切な人なんだろう? 叔父の質問はこれ以上ないくらいにシンプルなもので、そして重くて、なぜか痛い――。 「君はそのアクセル君が大切じゃないのかい?」 畳み掛けるように問われて自分の中から何かが込み上げてくる。その正体はわからない。 「……そうだよ、大切だ。きっと、凄く……」 答えはそれしかない。単純な答えだ。だが、自分の声がこうまで震えているのは、その大切度合がとてつもなく大きいと気付いたからだ。そして自分はその意味をとっくに知っている。 だからといってどうすべきなのかわからない。答えが見つからないまま8ヶ月間、自分は考える事をやめていたのだ。それ以来、俺はずっと迷路の中に居る。 「そうかい、よかった。私は嬉しいよ」 叔父の思わぬ安堵の言葉に顔を上げた。 「君が自分の友達の話をするなんて初めてだね。まして人を褒めるなんて。それより一番驚いたのは、君が誰かのために私に頼み事をしたって事だよ。自分のためでさえも私を頼ってなどくれない君がだ」 「ステファン、それは……」 「気付いてないだろう?その友達の話をする時の君は、びっくりするくらい優しい顔をしていたよ」 絶句してしまった。自分は本当にそんな顔をしていたのだろうか。 「深く詮索するつもりはないよ。性別なんかどうでもいいさ。年齢も職業も関係ない。自分にすら執着しないハリーにあんな顔をさせる人は、きっと君にとってかけがえのない存在なんだろうね」 気難しく人付き合いが下手な甥っ子を変えたアクセルという存在を、この叔父は喜んでくれている。そして、この友情に愛情が絡んでいる事を、たぶん叔父は感付いているだろう。それでもなお、嬉しいと思ってくれるのだろうか。 それでも、俺は――。 「どんなに大切でかけがえのない存在でも、自分にはどうする事も出来ない」 「ハリー……」 「逃げるつもりはない。ただ、どうしたらいいのかわからない」 「それは君のプライドのせいかい?それとも自分への戒めのせいかい?」 そう言う叔父の顔は悲しそうだった。 「ハリー、君はまだ自分を赦してないんだね……」 叔父の言葉を認めるわけではないが、返す言葉が見つからなくて押し黙った。 「君はこれからもすべてを一人で抱えて生きていくのかい……?」 過去の悲劇は未だこんな風に周囲の人間を悲しませる。 「そんなんじゃないよ、ステファン。そんなんじゃない……」 そんな言葉で安心させようとも、俺に対する叔父の憐憫の情は消せない。 「どうか、怖がらずにまた誰かを愛するようになって欲しい」 昔のように……と言う叔父に、俺は微笑む事しか出来なかった。 昼食後、会社に戻る叔父と一緒に屋敷を出た。 叔父は車を一台貸してくれた。思えば別荘までの移動手段を考えていなかった。列車という手もあるが、それでは途中で備品や食料の買い出しは無理だ。 甘えていい時は素直に甘えるべきだろう。身内だから許される事に違いない。 叔父の申し出に遠慮する事なく、俺は買ったばかりだというRV車を指差した。 買ってからどのくらい乗った車かわからないが、車内は新車特有のビニール臭がした。おそらくこれはレジャー用だろう。あの叔父は用途ごとに何台も車を所有しているのだ。 備え付けの灰皿を開けると使った形跡があったので、安心して煙草に火を付ける。 ギアを入れようとしたその時、ポケットで携帯が鳴った。 発信相手は未登録の見知らぬ番号。だが、相手の声はよく知った人物のものだった。 相手の短い話を黙って聞き、「わかった」と一言了承して電話を切った。