動物園は観光客と親子連れでごった返していた。 うんと小さい頃、自分も両親に連れられて来た記憶がある。尤も、あの頃とはだいぶ様変わりしたようだが。 切符を買って園内に入り、すぐ売店で新聞とコーヒーを買う。そして案内板で目的場所の位置を確認し、そこを目指して歩き出した。 こう暑くては動物たちも客にサービスなどしない。どの動物も昼寝をしているか、ぼんやり突っ立っているだけだ。つまりあまり動かない。 目の前のトラも、コンクリートの塀の中でだらしなく寝そべっているだけだ。トラの寝姿など興味ない俺は傍らのベンチに腰を下ろし、トラには目もくれず新聞を広げた。 このベンチは木陰になっているため比較的涼しい。入園客のざわめきもあまり届かない。 だが、堪らなく居心地が悪い――。 複数の視線を感じる。興味本位の視線でも好色な視線でもない。殺意は感じないが張りつめた緊張感が漂っている。 ベンチの真後ろの小高い丘に一人、左側の数メートル離れた木の陰に一人、トラの塀を挟んで斜め向かいに一人……。 勘弁しろよ……とため息をついてコーヒーを一口飲み、再び新聞に目を落とした。 その時、誰かがこちらに向かって歩いて来た。 顔を上げなくても気配で老人だという事がわかる。大きな紙袋を抱えているようだ。 ガサガサと音をたてて老人は隣に腰を下ろし、自分と俺の間に紙袋を置くとスナック菓子を取り出し無言で食べ始めた。 少し風が出てきた。木の葉を揺らすほどでもない緩やかな風は、遠くの喧噪を一瞬運んで来てはまた連れ去って行く。 静けさの中で菓子を食べる音がやたら大きく響いた。 「――トラとライオン、戦えばどっちが強いと思う?」 老人が唐突に話しかけてきた。 「知らんな」 活字から目を離す事なく俺は答える。 「わしも知らん」 何だそりゃ……。 「だが、どっちが好きかと訊かれたら、わしはトラだな」 理由は訊かない。訊かなくてもどうせ勝手に喋ると思うからだ。 「まず毛皮が美しい。それに身体が大きい。そして獰猛だ。だが一番の理由は、ライオンは群れをなして依存し合っているが、トラは基本的に単独で孤高の動物だからだ」 案の定、老人は勝手に喋り続けている。 「ひとりぼっちだから強くなったのか、強いからひとりぼっちになってしまったのか……。おそらくトラ自身にもわかってないだろう。……まるで誰かさんみたいだと思わんかね?」 挑発するような含み笑いに俺はため息をつきながら新聞を畳んだ。 「私みたいだと言いたいのか?」 「ご名答。――元気そうだな、少佐」 サングラスを外して振り向くと細められた猛禽の眼差しとかち合った。 「あんたもな、白ふくろう」 パリを牛耳るフレンチマフィアの大ボス、ゾーイ――別名“白ふくろう”。 おそらくトラの比ではない獰猛なこの猛禽は、相変わらず何を考えているかわからない微笑みを湛えていた。 「膝の調子はいいのか?」 そう訊ねてやれば老人はますます笑みを深くした。 「少佐に心配してもらうとは光栄だな。わしはいつだってタンゴも踊れるさ。この杖はただのファッションだ。汚いジジイも少しは紳士に見えるだろう?」 汚いどころか極上の麻のサマースーツに身を包んだ老人はそううそぶいた。 ゾーイの膝が年々悪くなっている事は知っている。それはこの老人にとっては取るに足らない事実ではあるが。 「それより部下たちを何とかしろ。鬱陶しくてかなわん」 「気配に敏感だな。そんな恰好をしていると少佐もただの若い兄ちゃんだが、何を着ていても中身は相変わらずナイフみたいな男だ」 ゾーイは何の躊躇もなく周囲に向かって指先をしっしっ、と振った。 途端に不快な視線と緊張感はかき消える。 「いいのか?これで敵に狙われても誰もあんたを守れない」 意地悪く笑ってやればゾーイは飄々と微笑んだ。 「お前さんが居ればボディガードなんぞいらんだろう」 「私は丸腰だぞ」 「銃がなくたってブライアント少佐である事には違いあるまい?」 何はともあれ、ゾーイが他のシマの同業者にいつ狙われてもおかしくない裏社会の大物だという事は、残念ながら現実だ。 買い被るな、と内心で舌打ちをしながらも周囲をリサーチする。不穏な気配はない。 「こんな所に呼び出して……そろそろ用件を言え」 「用件など別にない。少佐と動物を見たかっただけだ。いわゆるデートってやつだ」 「ふざけるな」 いたってのんきな口ぶりについイラつく。だが危険に晒されている当の本人は、お構いなしに菓子を食べ続けていた。 真意がわからぬ老人はそれきり黙ってひたすら菓子を貪る。また訪れた静かな空気の中でトラのいびきが聞こえていた。 この時俺は、自分の方こそ言うべき事があったのだと、ふと思い出した。 「……あんたに礼を言う」 「アクセルの事か?」 8ヶ月前、自分は帰国する前にこの老人にアクセルの事を託したのだ。売人を辞める事を承諾させ、自分の代わりにアクセルの面倒を頼んだ。 血も涙もない残忍な白ふくろうを知る人間がこの話を聞いたら、さぞ肝を冷やすだろう。 それほど俺の要求は本来命知らずなのだ。しかも半分は脅迫だった。 だが、ゾーイは要求をすべて飲んでくれた。口先だけでなく、本当にアクセルに目を配ってくれていたらしい。 「あいつ、お前さんが来て喜んでいるだろう」 「まあな。あんたの話もしていた。コーヒーを飲みに来てくれるんだと嬉しそうにな」 「でっかい犬っころみたいな奴だ。手ェやいてるだろう?少佐」 「誰のせいか知らないが躾の悪い犬そのものだな」 ゾーイには言えないが、酔って自分に不埒を働いた昨夜のアクセルを思い出し、俺は顔をしかめた。 俺の顔から苦労を読み取ったのか、ゾーイは愉快そうに笑い出した。 「好きでしょい込んだんだ。振り回されてもっと苦労したらいい」 その言い方に思わず行儀悪くケッと苦笑した。 そして、憎まれ口の仕返しにこっちも文句を言いたくなった。 「あんた、長年子供に汚い仕事させてきたんだろう?たまには遊びに連れて行ってやればいいだろうが」 「何の話だ?」 「あいつ、今まで一度も海を見た事がないと言っていた。今どきそんな奴居ないぞ」 こんなバカンスの季節でも裏の仕事が忙しくてどこにも行けなかったんだと、アクセルは笑いながら言っていたのだ。つまりゾーイにも大いに責任があるわけだ。 それに対してゾーイは肩を震わせて笑った。 「わしが『海に連れて行ってやる』なんて言ってみろ。あいつ、重りを付けて沈められると思ってビビるぞ」 まったくその通りだと自分も思う。絵に描いたようなマフィアの処刑シーン。笑い事ではないのだが、それでも可笑しくて声を上げて笑ってしまった。 「これからはお前さんが連れて行ってやればいいじゃないか」 「言われなくても明日連れて行くさ。仕方ない」 まだ当のアクセルには言ってないが。 「どっちだ?」 「ブルターニュ方面だ。別荘がある」 「岬にも行くのか?」 「かもな」 「アクセルにあの事件の話をしたのか……?」 その言葉に驚いてゾーイを見る。 「いいや……」 俺はコーヒーを飲み干し、ポケットの煙草に手を伸ばした。煙草と一緒にペッツが指先に触れた……。 「新聞のトップを飾る記事だった……。わしじゃなくてもフランス人は誰もが知っている事件だ。だが、当時のアクセルは生き延びるのに必死の野良犬だったから、新聞なんざ読んではいないだろう。たとえ知っていたとしても他人の生き死になんてものを気に留める余裕もないだろうがな」 フィガロやルモンドばかりではない。ワシントン・ポストでもニューヨーク・タイムズでも一面を賑わせた悲劇について、俺はゾーイと話をした事はない。 この老人の情報ネットワークはCIA並だ。俺と事件の関連性を知った上で、当然のようにこんな話を振って来る。それに対して驚きはしない。 「フランスに来るたびに岬に行ってるんだろう?」 「……あんたには関係ない話だ」 「少佐には何の落ち度もないだろうに」 「……わかっている」 少し強くなった風を避けながら煙草に火を点ける間、ゾーイは何も言わなかった。 一本くれと言われてアメリカ煙草でよけりゃ、とマルボロを差し出した。 暫くの間二人とも黙って紫煙を燻らせていたが、やがてゾーイが妙に清々しい声色で言った。 「なあ少佐。アクセルに出会えてよかったな」 「ああ?」 からかいではないらしい老人の横顔。 「レディ・ジョーはアクセルに『ハリーに会えてあんたは幸せだ』と言ってたが、わしにしてみれば、少佐こそあのボウズに出会えて幸運だったと思う」 「何でそう思う」 「お前さん、あんな風に笑えるんだな……」 呟かれた言葉に驚いて思わず老人を見た。 「笑う事を覚えて、誰かと共に居る幸せを知って、そうやってお前さんはますます強くなっていくんだろうよ……」 「強く?人は大切なものを得ると同時に、失う恐怖に怯えて弱くもなるぜ?」 「わしには大切な家族が居る。女房一人、息子が二人、娘が一人、孫が5人だ。特に孫は可愛いぞ。こんなわしは弱いかね?」 返す言葉がない。 「お前さんは失う恐怖を嫌というほど知っている。その上でアクセルの傍に居る。弱いどころか、あいつの存在がお前さんの力になっているだろうが。あいつを守る時の少佐の気迫にはおっかなくて手が出せねぇ」 「つまらん事をいつまでも覚えてるんだな……」 アクセルを売人稼業から解放しろとゾーイを脅迫した以外に、あいつをリンチしていたゾーイの二人の部下を病院送りにしてやった事がある。 「少佐、お前さんは人間だ。トラじゃない。ひとりぼっちになるなよ?強さがあるならなおさら他者に依存する事も覚えるべきだ。自分が潰れる前に。アクセルのためにもだ」 どこまでも人を見透かすこの老人に、俺は俯いて苦笑した。 「あんたも年をとって寂しがり屋になったか?ずいぶん口数が多くなったもんだ」 「笑うがいいさ、若者よ。いずれお前さんもこんなジジイになるんだ。ざまあみろだな」 声高らかに笑った老人は、笑いをやめ言った。 「ひとつなぞなぞだ。少佐ともあろう人物があんなガキの傍に居るのはなぜだ?」 まいった……。 答えられなかった。 結局、俺はこんな単純そうな謎がわからないのだ。 「“叩けよ、さらば開かれん”だ。まあ、ゆっくり考えるこった。……そろそろ時間だな」 ゾーイは最初から俺から答えを引き出そうとは思ってないらしい。 「土産だ」と言って傍らの紙袋を俺の膝の上に置いた。大きな紙袋の中は菓子が山のように入っていた。 「いらん!」 「ばぁか、お前さんじゃない。アクセルにだ。あいつ、こういう物が大好きだからな」 ゾーイの言葉に思い出し、ポケットの中で握りしめていた手を出して開いた。 手のひらの中のふてぶてしい顔をしたネコ――。 「これ、何だか知っているか?」 「……ガーフィールドか?さてはアクセルに押し付けられたな?」 「あんたでも知っているんだな……」 「少佐よ」 とゾーイは肩を揺らして笑う。 「お前さんは案外世間知らずだな。アクセルはもっと深刻な世間知らずだが、真逆のジャンルでお前さんも負けてないぞ?二人はいいコンビだ、仲良く教えっこするんだな」 そして笑いをやめ、真顔で言った。 「少佐の好物も中に入っている」 言われて中を覗き込むと白い封筒が入っていた。 中には写真が5枚。数人の男たちの食事風景。 「わしの隣に居るのがハサン、その隣がムフタールだ。禿の白人はバラスコ。そいつにも用心しろ、政府高官と繋がっている」 正直言って恐れ入った。好物なんてもんじゃない。喉から手が出るほど欲しかった情報だ。 「初公開。お前さんが追っかけている組織の幹部の連中だ。これで顔がわかったろう?」 「……よく撮ったな、こんな写真」 「わしを誰だと思っている」 写真と一緒に何枚かの紙切れが入っていた。レストランやキャバレーの領収書だ。 「何だこの額は!」 顎が落っこちそうになった。 「でっかい情報の必要経費だ。安いもんだろう?どうせ大金持ちのアメリカの膨大な国防費から落とすんだ。潔く払えよ?」 これには盛大に舌打ちをした。予算委員に責められるのは俺なんだぞ! 「おい、パリ市警とはうまくやれるんだろうな。警察といざこざだけはごめんだぞ」 俺にとって警察はマフィアよりタチが悪いのだ。 「心配しなさんな、今夜はそいつらと楽しいディナーだ」 「誰だ?」 「ポール・ベネックス」 呆れた!パリ市警どころか、その男はフランス警察の重鎮だ。 この力――。これが“白ふくろう”なのだ。 「嫌でも近いうちにまた来る事になるんだろう?その時また会おう」 言いながら老人は立ち上がった。 「白ふくろう、あんたはやり方がまわりくどいぜ!」 ゾーイの背中にそう声をかければ、食えない老人は振り返って飄々と笑って見せた。 「何の話だ?そんな写真はついでだ。言ったろう、これはデートだよ。愛してるぜ?少佐」 「言ってろ」 ゾーイは背を向けたままヒラヒラと手を振って去って行った。 怪しい男たちの気配も老人と共に消え、今度こそ穏やかな空気が戻ってきた。 さんざん言いたい事言って行きやがった――と、苦々しくひとりごちる。 ついでにするにはあまりにも重要な情報が入った封筒を摘み上げた。 こいつのせいでワシントンに帰ったら忙しくなりそうだ。だが、今は――。 『少佐ともあろう人物があんなガキの傍に居るのはなぜだ?』 実は、問われずとも何度か自問してきた。 愛だとか、情だとか、答えらしきものはいくつも頭に浮かんだ。 だが、何か違う。そんな既製品みたいな言葉ではなく、自分が気付いていない、自分にしかない理由があるような気がする。 今、自分の頭を占めているのは、ついに手に入れた重要情報ではなくゾーイに投げかけられた“なぞなぞ”だ。 手を開いて握ったままだったペッツを眺めた。あいつのお気に入りのガーフィールド……。 ガキが……。 上下に振ると中身がだいぶ減っていた。いつの間にか自分は結構食べていたらしい。 キオスクに詰め替えのタブレットは売っているだろうか……。そんな事を考えている自分に気が付いて苦笑った。 「ガキなのは俺も一緒か……」 なぜ自分はアクセルの傍に居るのかを、そろそろ本気で考えるべきだと思った。