「あれ?ハリー、どーしたの?」
店のドアを開けると、そんなアクセルの素っ頓狂な声に迎えられた。
他のスタッフは居ない。それもそのはずだ、もう閉店時間はとうに過ぎている。
「お前に仕事させてやるよ」
「一杯飲んでく?」
「10杯ぐらい飲んでやるよ」
そう言ってやれば奴は目を丸くして、本当にどうしちゃったの?と本気で心配してくる。
「どうもしない。お前が作る美味い酒が飲みたくなっただけだ」
「……それって、バーテンダーに対するすげー殺し文句!」
奥からレディ・ジョーが笑いながら出てきた。
「よかったじゃないか。あんたのVIP客にいいとこ見せてやるチャンスだろう?」
店主はこれから帰宅するらしい。
「あたしは帰るからゆっくりしていきなよ」
そう言って俺の肩を軽く抱いて出て行った。
振り向けばアクセルは一度片付けたカウンター内でスタンバイを始めている。
「一日の仕事が終わったなど思ったら大間違いだ。これからが本番だぞ?覚悟はいいか?」
「どっからでもかかって来いっつーの!」
俺の挑発にこいつは目を輝かせる。
アクセルが腕まくりをし、俺はスツールに腰を下ろした。


ご注文は?と訊かれてマティーニをと答えた。
マティーニは、言うなれば思い出のカクテルだ。アクセルと知り合って、初めて奴が俺に作ったカクテルがマティーニだった。
だが、今センチメンタルな想いで注文したのではない。
「比率を10対1で」
「はあっ?」
ジンが10、ベルモットが1の究極の辛口。いや、究極にはまだ上がある。
ジンにベルモットをスプレーしただけのものとか、もっと酷いのはベルモットのボトルを眺めながらジンを飲むという飲み方だ。もちろん、ここまでくればジョークの領域だ。
とりあえず、マティーニと呼べる限界が10対1の比率だろう。
「のっけから飛ばすねー」
甘い思い出を超辛口にアレンジした俺の注文に、アクセルは面白そうに笑った。
そして、目の前に置かれた透明な液体に口を付ける。
「どうよ?」
「きく」
「だろうさ」
アクセルが笑い出してこっちもついつられる。
こんな飲み方すると胃がやられるな、と思いつつ一気に飲み干して「次!」と言った。
「ギムレット」
「了解!あんたに似合いの男っぽい酒が続くね」
奴がジンと共にシェーカーに入れたのはライムジュース。
「どこのメーカーだ?」
「ローズ社さ」
「名探偵を気取ってか?」
「フィリップ・マーロウ?あんたも知ってんだ。読書家で飲兵衛だねえ。何か嬉しい」
アクセルはそう言ってシェーカーを構えた。
そうだ、これが見たかったのだ。
肩の下辺りでシェーカーを水平にし、シェイクする。
力まず、一定の力でリズミカルに。こんな時、奴のでかい手は利点となる。長い指はしっかりストレーナーとトップを押さえ安定させる。決して手のひらでボディを温めてしまう事はない。
手や腕の動きだけではない。姿勢からしてアクセルのシェイクする姿は美しいと思った。
バーテンダーとして真摯に仕事に取り組む時のアクセルは、本当に魅力的だ。
くせのない、カラスの羽のような黒髪が揺れて目元に陰影を作る。
ハンサムな顔立ち、少年っぽい笑顔、スラリと長い手足、優しくて陽気な性格。
女はみんなこんな男に抱かれたいと思うだろう。こいつは女が求めるような要素をすべて持っているのだ。そんな男がどうして自分のような年のいった男を気に入るのか……。
「あんまり見惚れないでよ、恥ずかしいじゃん」
俺は見惚れていたらしい……。アクセルは笑いながらギムレットを差し出す。
きりっと引き締まったギムレットを舌の上で堪能し、すぐに次を注文する。
「よし。次、プース・カフェ」
「はいぃ!?」
「何だ、作れないのか?」
「作れるけどさ、不思議なモン注文するね。飲み方知ってんだろうな……?」
リキュールの比重を利用したプース・カフェは、数色を幾層にも重ねて注がれた虹のように美しいカクテルだ。味などどうでもいいが、アクセルが比重を理解していて綺麗に作れるかが見たかった。
真剣な眼差しでリキュールを計るアクセルにここで声をかける。
「明日は何か予定があるか?」
「明日?俺、明日から休暇に入るよ?何しようか?どこか行きたい所ある?」
「海に行くか?」
そう言えば、奴は弾かれたように顔を上げ、大きく目を見開いて俺を見た。
「ホント……?」
「約束したろう?5日間くらいだが、いいか?」
「俺、本当にあんたと海に行けるの……?本当にほんと?」
あまりにもアクセルが信じられないという顔をするから、俺は叔父から預かった別荘の鍵を掲げて見せた。
「ブルターニュの方にある叔父の別荘を借りた。旅行者があまり寄り付かないから静かだが、その分何もないただの海だぞ?お前は退屈するかもしれないが……」
アクセルがカウンターから飛び出してきて俺の身体をスツールごとぐるりと回し、喋っている途中で力いっぱい抱き締められた。
「それでいい!その方がいい!約束覚えててくれて、すげー嬉しい!」
長い腕にぎゅうぎゅう締められ、俺は窒息しそうになりながら呻いた。
「げほっ、わかったから離せ馬鹿……殺す気かっ」
「ありがとうな!ハリー」
「感謝してるならさっさと仕事に戻れ。出来が悪いと海の話は中止だ」
「ええーっ!ひとでなし!」
出来上がったプース・カフェは、濁りもなく色の境界もくっきりとした綺麗な出来だった。
ストローを使ってそれを飲む俺をニヤニヤ見ながら「口元が可愛い」と言うアクセルに「次!」と怒鳴る。
「フローズン・バナナ・ダイキリ!」
「え〜……ミキサー使うと後片付けが面倒なんスけど……」
「つべこべ言うな。嫌なら明日は……」
「わーった!作るって!ねえ、もしかしてこれって俺の腕を試してんの?」
「今頃気付いたか?」
そう言ってやれば、アクセルは途端に目を悪戯っぽく細めて、そりゃ大変!と笑った。
「いつか店を任される事になっているんだろう?」
「え……何で知ってんの?って、レディ・ジョーか……」
あのお喋りめ余計な事を、と呟く。どうやら俺にはまだ内緒にしておきたかったようだ。
「よかったじゃないか」
「まだまだ先の話だよ」
ミキサーを回す間、その騒音の中で二人ともしばし黙る。
混ぜ合わせた液体をグラスに移しながら、アクセルはぽつりと言った。

「居なくならないよな……?」

その寂しそうな声色に一瞬息が止まる。
「ねえ、ハリー……居て俺を見届けてくれるよな?」

アクセルは不幸な生い立ちをした男だ。
売春婦の母親から生まれ父親を知らない。当然温かい家庭というものも知らない。幼くしてその母親とも死に別れ、施設で育った。その後は子供でありながらも暴力と犯罪に明け暮れ、とうとう売人にまで堕ちて行った。今まで警察に捕まらなかったのが不思議だ。
今も育ての親が、ドレスを纏った男の母親とマフィアのボスだ。普通の環境ではない。
なのに、よくぞここまで真っ直ぐな青年になったものだと思う。
汚いものをたくさん目にし、理不尽な暴力も山ほど受けただろう。
そんな目に遭いながらも心が捩れてないのはなぜか。
陽だまりのような暖かさを感じるのはなぜか。
不幸だった少年は、身体に蓄積された痛みをぬくもりに変化させ人々に分け与える。
この不思議な化学変化に、自分をはじめ多くの男女が引き寄せられるのだ。
そんな男が捨てられる子犬のような目で俺を見る。それでいて無理に笑おうとしている。
そんな痛々しい笑顔を見るのはつらかった。

昨夜の出来事を、俺たちはどちらも口にしなかった。
酔いに任せて俺を抱こうとした事も、背中の傷の事も、悪夢にうなされて俺の名を呼んだ事も。まるで何もなかったかのように、昨日の夜の闇に閉じ込めたまま……。
アクセルの笑顔の裏側で何かが軋み始めている。こいつは酷く何かを恐れている。
このままでいいはずはないのに、奴を救うべきはずの俺自身も迷い怯えているのだ。

「居るさ」

言葉など……。

「見届けるから、頑張れよ」

俺の言葉などどれだけの力を持つ?

この男の心に巣食ったどす黒い恐れをかき消すような魔法の力は、俺の言葉にはない。
それでもアクセルは「うん!」と嬉しそうに笑った。


目の前のマルガリータがもう半分ほどになった。
さすがの俺もだいぶ酔いが回ってる。時間の感覚がよくわからなくなってきた。
「これで何杯目だっけな……」
「9杯目だよ。本当に10杯いくつもりなんだな」
俺は最後の注文をする。
「10杯目はお前に任せる。何かお勧めを作ってくれ」
そう言われてアクセルは俯いて考え込んでいた。
「幸せそうなカップルがやって来て、何か私たちに作ってと言われたら?もしくは寂しそうな女が一人で来て、元気になれるものをと言われたら?そんな風に私に何か作れよ」
ややしばらく考え込んでいたアクセルが「よし」と言って顔を上げた。
「あんたに俺のとっておきを作るよ……。覚悟は出来てる?」
その顔は笑ってはいなかった。
そんなピンと張りつめたような眼差しに思わず無言で頷いた。


ベースにはウオッカを使うようだ。ホワイトキュラソーとライムジュースも少々。
アクセルは一言も口をきかない。
こんな顔もするんだ、というような真剣な面持ちでシェーカーを振る様は大人の男の顔で、その端正さに驚いた。
最後にブルーキュラソーをそっと注いで俺の前にグラスを滑らせる。
「どうかな?口に合えばいいんだけど」
それは実に美しいカクテルだった。
少しの曇りもない華奢なクリスタルに満たされた、あくまで透明な液体。その水底に静かに沈むブルーキュラソーの青。透明から氷のようなブルーへのグラデーションが見事だ。
凛とした静寂すら感じるその色彩を、目で堪能してから一口含む。
ほんのりとした甘さが舌に広がる。だが、飲み込むと強い酒は身体の中で炎を上げた。
目を閉じて力強い余韻に浸る……。
「俺の生まれて初めての創作なんだ、それ」
驚いた。これがこいつのオリジナルとは……。
「名前は?」
「“愛している”」
唐突に告げられた言葉に顔を上げた。
「そのカクテルの名前……。“JE T’AIME”(愛している)さ」
そう言ってアクセルは蕩けるような甘い笑顔を見せて、そして……。
泣き出しそうな顔をした――。
「俺の気持ち……少しも変わらないから」
奴は無理に笑った。

優しく不器用な男が酒に託した言葉に出せない想い……。
俺は舌の上でそれを確かに受け取った――。
告白は、甘さの中に苦味が含まれていて、その強さは俺の胃を熱く焼く。

『覚悟は出来てる?』

もう迷いはしない。