『バカンスシーズンもいよいよ本番。移動中の車でこれを聴いてくれてる人も多いんじゃないかな?パリ市内の主要道路はあちこちで渋滞しているぜ。シャルル・ド・ゴール空港に向かうハイウエイA1は海外逃亡組の車がぎっしりだ。気になる天気、あいにく今朝から小雨が降っているけど夕方には晴れるそうだよ。ハンドルを握っているキミはくれぐれも安全運転で頼むぜ!ダニエルがお届けする“ソウル・ステーション”。古いけどゴキゲンなR&Rをかけよう。クリームの“White Room”』

カーラジオから重厚なハードロックが流れてきた。 DJのダニエルの言葉通り、俺たちは西に向かう車の中でこのラジオ番組を聴いている。 安全運転のハンドルを握るのはハリー。つい数時間前に強いカクテルを10杯も飲んでいた男だ。 二日酔いどころか、ハリーからは酒の匂いがまったくしなかった。 朝方の4時半まで酒を飲み、帰ってすぐ寝て8時には起きてきて、シャワーから上がった頃には酒の名残は微塵もなくなっていた。 短時間にあれだけ大量のアルコールを分解処理した彼の肝臓は相当高性能らしい。 海に行くか?――と、昨夜彼は俺に言った。 海を見た事がない俺に、そのうち見せてやると交わしてくれた小さな約束。 信じられなくて何度も「本当?」と繰り返す俺の目の前に別荘の鍵を掲げて笑うハリー。 デートやドライブじゃなく生まれて初めての旅行だ。しかも最愛の人と二人きり。 嬉しくないわけがない。 だが本当に嬉しいのは、俺のために行動してくれたハリーの気持ちだ。 別荘を借りるにあたり、叔父さんに俺の事を簡単に紹介してくれたという。自分の身内に、身分違いともいえるチンピラもどきの友人の事を、ハリーはどんな顔で話したのだろう。 彼は俺とのたわいもないちっぽけな約束を大切に取り扱ってくれたのだ。 「すげーっ!ランクルだー!」 市内の駐車場から引き出されアパートの前に横付けされた車を見るなり、俺は叫んだ。 綺麗にワックスがかけられたシルバーボディのRV車。運転席から咥え煙草のハリーが降りてくる。 「しかも新車だよな。うわ、クラスも一番上のやつじゃね?」 「叔父の遊び用の車だ」 車に貼り付いて離れない俺にハリーは苦笑していた。 しゃがみ込んでフロントの足回りなんぞ調べてみたりする。 「タイヤもいいの履いてるわー!いいなあ、俺も車欲しいよー」 2年前、一大決心で免許を取った。今にして思えば無理をしてでも取ってよかったと思う。目下の愛車はレディ・ジョーからの借り物プジョーだが、いつかは中古でもいいから自分の車が欲しい。 「なあなあ、あんたは金持ちだと思うんだけど、叔父さんはもっと金持ちなの?」 「あほ、当たり前だ」 思い切り呆れられた。 日常生活に必要な物はほとんど別荘に揃っているという。俺たちが積み込む物は着替えの入ったバッグ一つだ。 別荘がある海は風が強い所だという。パリ市内と違って朝晩は冷え込むらしい。ハリーに長袖と上着を持って行くように言われた。 今朝から霧雨が降っている。大気もひんやりしている。決してドライブ日和とは言い難い天気だが、そんな事はまったく気にならない。 これから海へ――。生まれて初めて、しかもハリーと二人で海での休暇を過ごす。 俺は遠足に行く子供のようにはしゃいでいた。 フロントガラスの水滴をワイパーが静かに拭っていく。 鉛色の空からどんなに冷たい雨が落ちようとも、車の中は妙に浮かれた雰囲気だった。いい年した男二人を乗せたゴツイ車は、ピクニック気分で爽快にひた走る。 車の中での会話というのはどうしてこうも弾むのだろう。食事での会話や酒の席以上だ。話をする以外にする事がないからかもしれない。 俺たちはいろんな話をした。 車の話、音楽の話、食べ物の話。ハリーはこんなに話し上手だったろうか、と思うほど彼の話は面白かった。出張先での失敗談や世界各地で出会った面白人間たち。最後にはオチが付いていて、俺は腹を抱えて笑った。 「はー、おっかしい!あんたって結構ドジなんだな」 「スーパーマンじゃないんだ。私だって人並みに失敗の100や200はあるさ」 「それじゃ人並み以上だっつーの!」 真面目な顔をしてボケるハリーに、俺はまた笑い転げる。 こんなハリーを何人の人が知っているだろうか。演じているわけではないだろう。こんな一面を持っているのは確かなのだろうが、彼に関わるすべての人がそれを知っているとは思えない。選ばれた者だけが見る事の出来るハリーのもうひとつの素顔。たぶん彼は俺に心を許してくれているのだと思う。それを当然とは思わない。凄く幸せな事だ。 今日のハリーはやけに男っぽかった。 相変わらず極上美人である事には変わりない。だが今日は“美しい”というより“カッコいい”という感じだ。 今回は俺をエスコートしているからだろうか。それとも骨太なRV車を運転しているからだろうか。いや、この服装のせいかもしれない。いつものような品のいいカジュアルではなく、カーキ色のワークジャケット。まるで休日の兵士みたいにワイルドで男臭い格好。 「何をじっと見てる?」 そんな風に声をかけられて我に返る。 「いや、あんたの運転する姿がめずらしくて」 カッコ良さに見惚れてましたとは言えない俺は、そう誤魔化した。 「ワシントンでは毎日嫌になるほど運転しているさ。運転歴はお前より5〜6倍長いぞ」 前を向いたままハリーは苦笑まじりに言う。どうやらうまく誤魔化せたらしい。 ふと、なぜこの人はフリーなんだろうという疑問が浮かんだ。 社会的地位が高くておそらく高給取りで、独身でユーモアのセンスもあって、その上美人でハンサムだ。 「なあ……あんた本当に国にいい人居ないの?」 「ああ!?」 思わず口に出た疑問にハリーは驚いてこちらを向いた。 「何を言い出すかと思ったら……。居ないって言ったろう?」 「外見も内面も魅力あるしさ……、モテないわけないだろ……」 ハリーは黙ってポケットを探り、煙草を一本咥え、歌うような調子で言った。 「来る者を拒み、去る者も追わない――」 ジッポで火を点ける間沈黙し、一口吸って再び口を開いた。 「モテるどころか、怖がられ避けられ愛想も尽かされて、誰もこんな男に近寄らんよ。欲しがる物好きなんて居ないさ、こんな空っぽの人間なんか」 ――えっ? 言わせてはいけない事を、俺はこの人に言わせてしまったような気がする。 空っぽとはどういう事なのか――。 「アクセル、少し眠れよ。お前、眠そうだぞ?」 よく回らない頭で今の言葉をよく考えようとしたら、ハリーにそう言われた。 「え、大丈夫だよ。それにあんたにばっか運転させて……悪い」 「馬鹿だな、それは無用の気遣いってもんだ。お前は朝まで仕事してたんだ。寝ておけ。着くまでまだ3時間はある」 呆れた事にその言葉を聞いた途端、俺はがくりと意識を失くした。 ひゅう――と、風が鳴る。 立ち込めていた硝煙が徐々に晴れ、白一色だった視界に瓦礫の街が現れた。 俺はまたここに戻ってきてしまった。 立て続けに見るあの夢だ。 どこかでエルビスのラブソングが聞こえている。 ダニエルが選曲する「R&Rのルーツを旅する」というコーナーだろう。 車の振動も感じる。昼間の浅い眠りに見る夢は、現実と溶け合っていやにはっきりしている。こんなうたた寝なのに、俺に取り付いた夢魔はこんな所まで俺を追ってきやがった。 意識が再び瓦礫の街に戻った。 俺はあてもなく歩いている。 この先に行ってはいけないとわかっているのに、足が言う事をきかない。 やがて武装したハリーの姿が現れた。 そして俺に向かって彼の口が“逃げろ”と動く。 俺なんかどうでもいいんだよ。あんたが逃げてくれ! タタタン! そしてハリーが地に倒れる。 俺はまたハリーを助けられなかった。 エルビスが甘く切なく「恋に堕ちるのをどうする事も出来ない」と歌う。 それを聴きながら俺は血まみれのハリーを抱いていた。 流れる血を何とか止めなければ。 今度こそ! 「今度こそ」 ああ、止まらない……どうすればいいんだ。 「どうすれば……」 いやだ! 「いやだ」 あんたを失うのはいやだ! 「いや……だ」 死ぬな!ハリー! 「ハリー……」 俺を置いて逝かないで……。 「逝か……ないで……」 その時、頭に温かい手が触れた。 そっと、ではない。しっかりした重みで頭の横を手のひらで覆われる。 ハリーの手? その手に頭を引き寄せられた。横倒しに頭が辿り着いたのは男の肩。 ごわついた荒い綿素材が頬に当たる。大きく息を吸い込むと洗濯したてのような清潔な生地の匂いと煙草の匂い。 俺の頭を肩に導いた後も手は離れなかった。その手は撫でるというより擦るように動く。 何だか気持ちイイ……。 ハリーの顔を見たかったが、どうしても目が開かない。 気が付けば瓦礫の山も血まみれのハリーの姿も消えていた。 俺を悪夢から引っ張り上げた、父親のように力強い手。 安堵のため息をつき、ハリーの肩に甘える自分を自覚しながら、俺は今度こそ平和な眠りに落ちた。 「――アクセル……おい、アクセル」 俺を呼ぶ声に意識が浮上する。 「はい……?」 隣を見れば、ドアを開けてハリーが外から俺の方に身を乗り出している。 車はどこかの駐車場に停まっていた。 あの後、俺は夢も見ずぐっすり寝込んでいたらしい。 「もう着いたの……?」 「まだだ。これから買い出しをする。お前も来いよ……大丈夫か?」 「あー……大丈夫。行く行く」 俺は慌てて車から降りた。 辺りを見渡すとそこは大きなショッピングセンターだった。食品ばかりではなく様々な物を売っているようだ。バカンスシーズンのせいだろう、店内は結構な数の買い物客で賑わっていた。 「ところで、ここってどこ?」 「ブレストだ。ここから先は大きな店がないからここで買い物をして行く」 ブレストはブルターニュ最大の港町で、もちろん俺には初めての街だ。 ハリーがカートを押し、俺たちは肩を並べて店内を歩いた。 何を買うのかと訊けば、食品がほとんどだという。それと、買っておいてくれと叔父さんに頼まれたこまごまとした備品。 真っ先に向かったのは酒売り場。 「ビールはこの銘柄でいいか?」 「ウイスキーはバーボン?スコッチ?……面倒だ、両方買おう」 「量、足りるかな。あ、つまみもいるか?」 ハリーは問いかけるくせに俺の返事を待たず、手当たり次第酒のボトルをカートに放り込んでいく。 あんた、どんだけ飲む気!?とツッコミを入れる。 たぶん、きっと、間違いなく、ハリーははしゃいでいた。めずらしい事だ。しかも、買物は嫌いではなかっただろうか。 笑顔も見せず、むしろ無愛想な顔で、だが俺との買い物をこんなに楽しんでいる。それが何とも嬉しくて俺は自然と笑ってしまう。 「なにニヤニヤ笑ってんだよ」 ニヤける俺に気が付いてハリーが不機嫌そうに睨んでくる。 「イイ男はスーパーでカート押していてもイイ男だなあと思って」 咄嗟にそう誤魔化したが本音でもある。 「じゃあお前もイイ男っぷりを証明して見せるんだな」 と、体良くカートを押し付けられてしまった。 とりあえず清算し、酒だけをまず車に積んでしまう。量が多すぎるからだ。もう一度スーパーに戻ってデリカテッセンのコーナーに向かった。 「あ、ねえ。メシは俺が作ろうか?」 ふと思いついて提案すれば、ハリーが驚いた顔で振り向いた。 「お前、料理出来るのか?」 「うん、得意だよ。そういや今まであんたに作ってあげた事なかったっけ。いつもは惣菜買って食う事が多いんだけどさ、夜は仕事があるから。でも時間がある時は料理するよ?」 「へえ……偉いじゃないか」 これまためずらしい褒め言葉。 「あんたは料理出来んの?」 「全然」 「何ひとつ?」 「だめだな」 だろうな、と大笑いしたら足を思い切り引っ掛けられた。 俺たちは回れ右でデリカテッセンを後にし、食材売り場に向かった。 「何食べたい?」 「何でもいい。何が作れる?」 「何でも作れるよ。でも、あのシーフードレストランみたいなやつを期待しないでね?」 主婦ばかりの買い物客に混ざって、ガタイのでかい男二人が野菜やら肉やらを物色して歩く。ああだこうだと言い合いしながらの買い物は楽しかった。 俺、あんたのいい嫁さんになれるよ――。 そう言おうとしたが思いとどまった。 彼はそんなジョークを好まないだろう。普通の友達、それがハリーの望むものだ。どんなにふざけ合っていても、彼が不快になるであろう冗談を俺は極力慎んでいた。もちろん、ハリーにむやみに触れる事も、昨夜は海行きの話が嬉しくて、つい抱き付いてしまったが――あの夜以来自分に禁じた。 気持ちは変わらない、と昨夜最後の告白をした。 それでもう充分だ。 その家は海に面した小高い丘の中腹にあった。 遮るものが何もない三方から海を臨み、緑濃い木々を背にした小さな白い木造の家。 ささやかな庭に車を停め、外に降り立った。 海の匂いが――! 海がどんなものかはテレビで知っている。青くて大きな水たまり。波の音も知っている。 ただ、匂いだけはテレビは教えてくれなかった。 大きく息を吸い込んで海の匂いを肺いっぱいに取り込む。 それは自分の知らない、一度も嗅いだ事のない匂いだった。 「ねえ、ちょっとだけ……少しだけいい?」 荷物をさっさと家の中に運び入れるべきだろうが、俺はどうしても今海を間近で見たくて堪らなかったのだ。 それだけの言葉でハリーは察してくれた。 彼は柔らかく微笑むと俺の前に立って歩き出した。 車でやってきた道とは逆方向の、下りの細い砂利道を下りて行く。 下りきるとそこはもう砂浜だった。 風が強い。耳元で風が唸りを上げ、シャツの裾をはためかせる。 風の音以上に波が荒々しく轟く。 「今日は波が高いな」 波打ち際ぎりぎりまで歩いて行ってハリーがそう言う。 こっちも朝から雨だったようだ。だが夕方になって雨は上がり、遠ざかりつつある雨雲の切れ間から陽が差していた。悪天候の名残の高波は明日には穏やかになるらしい。 服の中を通って肌を嬲る風の冷たさが心地良い。 鼻腔に満ちる海の匂い。水っぽい匂いだ。ただの水ではない。ミントのようにスキッとして、でもどこか甘い――旨味のある塩の匂い。 その場にしゃがみ込んで足元に寄せてきた波に手を入れる。 初めて触れる海の水。水道水とは全然違う。握るとぎしっとべたつくような手触り。 濡れた指を口に含む。話に聞いていたとおりしょっぱい……。 「どうだ?初めて自分の目で見る海は」 俺の隣で水平線に目を向けたままのハリーが問う。 「テレビが伝えられる事ってちっぽけなんだな……。海って見て聞くものじゃなくて身体で感じるものなんだ……。何にも知らなかったんだ、俺。匂いも、手触りも……」 やはり水平線に目を向けて俺は答えた。 奇妙な懐かしさと切なさが込み上げてくるのはどうしてだろう。 ここに居ると自分が何者でもないような気持ちになる。 パリという大都会で、オカマや犯罪者や夜行性人間たちに囲まれ、夜の片隅にひっそり生きるアクセルというバーテンダーは別の男のような気がする。 そんな真新しい「名も無きただの男」で、ハリーを抱き締めたいと思った。 本当に、今ふとそう思った――。 綺麗なものを大切な人と共に見て綺麗だと言い合える幸せを、頭ではずっとわかっているつもりだった。 今こそそれを痛いほど実感する。 生まれて初めて見て感じるこの光景のすべてを、一人ではなく一番大切な人と共有する。 幸せだと思うこの感情をどうしたらいいのだろう。 正面から強い風を受けて、日差しの中いっそう黄金を深くした金色の髪をなびかせ、端正な横顔がゆっくりこちらを向く。 目が眩むほどの美人だ、と思った。 あんたを抱き締めたいよ――。 細い身体を腕の中に閉じ込めて、冷たい風の中でその体温を感じていたい。 そうすればきっとキスしたくなる。潮風の中でするキスはやはり海の味がするのだろうか。 あんたにキスしたい――。 だが許されないのだ。 そんな事をしたらこの人を傷付ける。この人に嫌われる。 ハリーを……失う。 それだけは嫌だ! 「ありがとうな、ハリー」 ハリーを失わずにすむためなら、俺は一生この人に指一本触れはしない。 「連れて来てくれて、ここに一緒に居てくれて。たぶん俺、今日の海を死ぬまで忘れない」 俺は叫びたい想いをすべて飲みこんで、愛おしい“友達”にこう告げるのが精一杯だった。