「うおーっ!すげーっ!」 「うっ……!耳元ででかい声出すな、馬鹿!」 家の中に入るなり雄叫びを上げたらハリーに睨まれた。 「だあって、めちゃめちゃカッコいい家じゃん!」 この家は一般の住宅というよりも、お洒落なレストランか雑誌に紹介されているリゾートホテルというような趣きだった。 白い板張りの外壁に茶色の屋根、大きなバルコニーに格子の入った窓。このまま映画のロケに使われても何ら不思議じゃない、つまり“絵になる家”だ。 ただ木造なのはどうなんだろうな、とハリーは言う。ここは風が強い所だし、潮風のせいで外壁のメンテナンスが大変だろうとの事だ。 車から荷物を全部運び入れた後、ハリーが家の中を案内してくれた。 1階は居間とキッチンと食堂、2階はバスルームと寝室。寝室は3部屋あった。主寝室とゲスト用が2部屋。外観は小さな家と思ったが中は意外に広い。 「おおっ!暖炉がある!ロマンチックー!」 「風呂でけェ!」 「窓からの眺め、超オーシャンビューだ!」 「このベッド、5人ぐらい寝れそうじゃねぇ?」 一部屋ずつドアを開けるたび、俺はいちいち感嘆の声を張り上げていた。 「ガキみたいに廊下を走るな!」 俺の背中に向かってハリーが叱る。 「だって俺、こんな家初めてだからさー」 俺たちは主寝室のバルコニーに出た。 西向きのバルコニーから見えるのは海だけ。紺碧の海とはこの事だ。なんて贅沢な眺望。 「今、この海は俺らだけのものだね!」 「気に入ったか?」 うんうん!と何度も頷く。そんな俺にハリーは嬉しそうに笑った。 「いいなぁ、ここに住みてえなぁ。あんたの叔父さん、この家売ってくれないかな」 「買えばいいじゃないか。だけど都会育ちのお前はこんなド田舎、死ぬほど退屈だぞ?」 「そんなこたないよ。もう隠居してここで余生送るの、どうよ?」 「で、カモメ相手にカクテル作るのか?」 そう言われて想像した。 砂浜のバーカウンター。首から上がカモメ、身体は人間という奇妙なお客が、カウンターにずらりと座っている。俺はシェーカーを振りながらそいつらの恋愛相談や仕事の愚痴を聞いているのだ。実にシュールな光景だ。 くっくっく……。何だか馬鹿馬鹿しいけど面白い。 ハリーも同じような想像をしていたようだ。ニヤニヤ笑っていた。 「店の名前は『バー・ニシンの魚群』ってのはどうだ?カモメにウケるぞ」 「あっはっは!なんつーネーミング!」 可笑し過ぎて目尻に涙が滲む。 「まあ、カモメはともかく、ここでハリーと一緒に暮らしたいなあ」 ゆったりと二人で住むにはちょうどいい広さなのだ、ここは。 「家事はさ、俺に任せてよ。料理も掃除も……。こう見えても結構家庭的なのよ?俺」 さっき見た贅沢なキッチンを思い出す。キッチンカウンターは何と大理石だった。 「ハリーはさ、パリ支局に転勤しなよ。で、在宅で書類作りとかやんの。パリの職場には月1回顔を出すだけでよくってさ。その時は俺も付いて行く」 アパートではなく、賃貸じゃなく、財産としての一軒家に住む。そんな根を下ろしたような、変わらぬ居場所がある人生。待つ人が居る生活。 「毎日一緒に飯を食うんだ。夜寝て朝起きる普通の生活。昼間は手を繋いで海岸を散歩して、夜はバルコニーで酒を酌み交わして、そしてあのでかいベッドであんたを抱き……」 ここまで言って、はっと我に返った。 「あ……ごめん……」 何て事言ってるんだ、俺は。 友達の範疇を超えた未来設計……俺のくだらない妄想。 調子にのって……。 ついうかれて……。 ハリーにとって不快になるような事は言うまいと決めたのに。 「――なぁんて、冗談。悪ィ、忘れて?」 明るく言って、そして俯いた。 不快そうに歪むハリーの顔を見るのが怖かった。 出来れば笑い飛ばしてほしい。馬鹿と一喝されてもいい。ただこの沈黙が居たたまれない。 背後に居たハリーが隣に並んだ。 彼は手摺に手を掛け身を乗り出して水平線の彼方を見ている。 「……普通の生活か。……それもいいかもな」 えっ? 「毎日ちゃんと家に帰って、夜寝て朝起きる。誰かと一緒に食事する。壁のペンキ塗りを業者に任せるか自分でやるかで口論する。水道代の値上げを相手に愚痴る。今夜の献立に悩む。生活を維持するための小さな喧嘩……誰かと共に在る生活」 俺にではなく、自分に言い聞かせるような呟きに、俺は驚いておそるおそる隣を見る。 「それがどんなに幸せかという事に、気付かないほど当たり前の生活。本当の幸せとは普通の生活の中にこそあるのかもな……。考えた事などなかったが……」 ハリーの横顔は悲しいくらいに優しくて……。 「そしてその時気付くんだろう……。生きていてよかったんだ、とな」 ふと、この人はあまり幸せではないのかもしれない、と突然思った……。 「まあ、転勤も在宅勤務も無茶な話だがな」 ハリーはそう言うと笑って俺の頭をくしゃっとかき混ぜ、部屋の中に戻って行った。 「そろそろ階下に降りよう。料理、頼むぞ?」 ハリーに促されてバルコニーのガラス戸を閉める。 つい口走ってしまった馬鹿げた妄想に、ハリーは怒りも笑い飛ばしもしなかった。 だからといって俺と暮らす事に同意したわけではない。そんな事はわかっている。 ハリーは、自分の失言にうろたえる俺を憐れんで話を合わせてくれたのだ。 だが、幸せについて語る彼の横顔は何かを愛おしむ透明な優しさがあった。 その時、なぜか俺は確信した。 この人は本当にひとりぼっちなのだと。 夕食にパエリアを作る。 簡単だが少々時間がかかる。一人の時はまず作らない物だ。 誰かのために料理するなんて何年ぶりだろう。こんな事に幸せを感じるなんて、俺は本当に家庭的な男なのかもしれない。 俺がメシを作っている間、ハリーは掃除に取り掛かっていた。 綺麗にしてあったとはいえ、一年も人が入っていなかったためにどうしても埃は積もる。 ハリーは各部屋に掃除機を掛け、雑巾で辺りを拭いた。 掃除機をかける“らしくない”姿にちょっと笑ってしまう。 たぶん、めったにやらない事だろう。だがこの人は、料理以外は何でもこなせるらしい。 自宅では管理人が雑用のいっさいをやっているという。いつか聞いた、昔から通いで屋敷を管理している老夫婦だ。 掃除が終わり、切れていた2階の電球を替えに行き、戻ってきた時ハリーの手に握られていた物に驚いた。 「そんな物騒な物、どっから持ってきたの!?」 銃のバイヤーだった俺にとって、馴染みが深いというか見慣れた売れ筋商品。 ワルサーPPK――。護身用の銃として最も人気が高かったのを覚えている。 「主寝室のナイトテーブルに入っていた。たぶん叔父が護身用として用意したんだろう。誰も居ない家に一年も置きっ放しなのは感心しないけどな」 犯罪に縁が無さそうなこんな人里離れた場所なのに護身用?と思ったが、人里離れているという事は、万が一強盗に押し入られても助けに来る人が居ないという事だ。 ハリーの手の中のワルサーはオモチャに見えた。ハリーの手は決してゴツくなく、むしろ華奢な方だ。だが、彼の手にかかって見劣りしてしまうのは、彼の愛銃ブローニング・ハイパワーがあまりにも強烈な印象だったからだろう。 「どうすんの?それ」 「分解掃除だけしておく。たぶん一度もやった事はないんだろう」 そして彼は手の中のワルサーを見つめて、そっと笑った。 「あの叔父の事だ……、メンテナンスどころか、撃った事もないかもしれないな」 それから、ソファに座って銃のクリーニングを始めたハリーを、俺はキッチンから盗み見た。 分解する速さ、ばらしたパーツを布で磨く手際の良さに驚いた。 ワルサーを、彼は愛用しているわけではあるまい。アメリカ軍の正式採用銃もベレッタだ。 どの銃も基本構造は変わらないとはいえ、この様子だと、たとえ目隠しされていても、分解・組み立てくらい手探りでやってしまうにちがいない。 プロ、なんだよな……。 盗み見のつもりがいつしか堂々とした見物になる。 没頭して見ているとハリーが顔を上げた。 「おい、鍋焦げるぞ?」 「え?……うあああ!やべぇ!」 鍋に飛びついて火を止める。何とか焦げ付きは免れてほっと胸を撫で下ろした。 テラスに面した窓際の食卓テーブルに料理を並べる頃には、銃のメンテナンスも終わっていた。 いただきます、と言ってスプーンを手に取りひと匙すくって口に入れるハリーの様子を、俺は緊張して見守った。 「……どう?」 「美味い」 「本当に?」 「スペインで何度か食べて美味いと思っていたが、こっちの方が口に合う」 「よかったー!」 素直にハリーの言葉を受ける。不味くても不味いという言葉で切り捨てはしないだろうが、わざわざ美味いと嘘を言う人ではないはずだ。 料理は任せろと言った手前、俺は心底ほっとした。 自分も一口食う。サフランの量も塩加減もちょうどいい。 「こういう料理は大勢で食べた方が美味しいんだろうけどね」 「二人だけだって美味いものは美味いさ」 そんな嬉しい事を言ってくれる人のグラスに、ピッチャーにたっぷり作ったサングリアを注いでやる。 「あんたの部下になる条件は料理上手である事も必須とか?」 は?と一瞬動きが止まったハリーは次の瞬間「何でだよ」と笑い出した。 「上司の苦手を埋めるのは部下の勤め」 「だからって何で私があいつらに食わせてもらわなきゃならないんだ?」 お前らしい発想だ、と呆れられた。 「部下の人事はあんたに任されてるの?」 「本来、人事の事は人事部だが、私が他の部署からさらってきた奴も居るし拾って来た奴も居るからな……」 拾う?さらう?ナニそれ! 「連れてこられた奴は茫然自失だ。私はひとでなしだそうだ」 「……そうまでしてあんたが欲しいと思う部下の条件は?」 俺もあんたにさらわれてェという言葉は、もちろん飲み込む。 「とにかく健康で丈夫である事。コンピューターや兵器の知識等で、何かずば抜けた才能がある事。英語以外に最低でもフランス語、アラブ語、ドイツ語、ロシア語が完璧に話せる事。私に怒鳴られてもくじけない精神力である事」 「ハードル高ぇ!俺には無理な事ばっか……」 「お前が部下になったら絶対私が嫌いになるぞ」 ハリーはそう言い、パエリアのおかわりを求めた。 こんな風に、少しずつ少しずつ、さし障りのない範囲でハリーが自分の事を話して聞かせてくれる。それをとても嬉しいと感じる。 彼の事を何でも知りたいからではない。話して聞かせるに値する人間だ、と許されるのが嬉しいのだ。 こうして向かい合って手料理食って、たわいもないお喋りで笑って、何の予定も決まり事もない二人だけの時間。 心の底から幸せだ、と思う。だが――。 なあ、いつまでそうして俺の前で笑ってくれる? いつまで俺が傍に居る事を許してくれる? 「何て顔してる」 「え?」 唐突に言われて何の事だと訊き返すがハリーは小さく笑うだけだった。 微笑みの中に一瞬見えた困惑。 「馬鹿だな、お前は」 「だ・か・ら!何がだっての!」 この幸せを失うのが怖い……。 「……メシが終わったら少し浜辺を歩くか?」 ハリーの言葉に俺は頷いた。 なぜ、こんな風に誘ってくれたのか俺にはわからないまま。 あんたの事、好きになり過ぎた。 幸せに怯えるほどに。 夕食の皿を食洗機に突っ込んで、一足先に家を出たハリーの後を追った。 太陽が水平線の向こうに沈んだ頃だった。長かった一日が終わろうとしている。 浜辺へと下りていく砂利道の途中で足を止めた。 ハリーが一人で海を見ている。 ただ黙って突っ立っている後ろ姿。 いやに透明な空気を纏っている、そう思った。 海を見ているようで実は何も見ていないような。 そのまま海に還ってしまいそうな背中。 そう思った時、全身に鳥肌が立った――。 どんどん闇に包まれていく風景の中で、この人の身体が本当に闇の中に吸い込まれていきそうで怖くなる。 消えてしまう前に捕まえなければ、と俺は足を速めた。 「この先には何があんの?」 一瞬、ハリーの身体がびくりと揺れた気がした。 纏っていた、儚く消えてしまいそうな空気がかき消えて“対アクセル仕様”のモードにスイッチが切り替わる。 「アメリカ大陸だ。東海岸辺りだな」 「じゃ、ここ真っ直ぐ泳いでったらあんたが住んでいる街付近だ」 「そうだな。いや、カナダに流れ着くかな?」 ハリーが波打ち際に沿って歩き始めたので、俺も後を追って歩いた。 辺りはもうすっかり暗い。ななめ前を歩く男の顔もよく見えないほどに。 ネオンサインも街灯もない本物の夜。夜の世界に生きているはずなのに、こんな闇に怯える自分が居た。もっと星が出ればいい。 ハリーは何も喋らず黙って前を歩いていた。 その後ろ姿を見て、ふと昼間の疑問を訊いてみようと思った。 あれからずっと胸に引っかかっていた彼の言葉……。 謙遜とは思えない。自嘲気味な言い方に愉快な話じゃない事はわかっている。 正直、訊くのが怖い。だが、訊かないでいるのはもっと怖い。 「……あんたさ、自分の事を『空っぽな人間』って言ったよな……?」 思い切ってそう切り出す。 「何でさ?」 前を歩く男がゆっくり振り返る。一瞬だけ淡い星明りに照らし出された顔には色がない。 「――何も持ってないからだ」 答えになっているようで、なっていない。 「持ってるだろうが。責任ある仕事、少佐というポスト、金、でかい屋敷……。俺にはないものばかりじゃねぇの」 また前を向き、ハリーは淡々と言う。 「それは与えられた状況だ。金は国の命令に従った対価だし、その金で買った家も家としての機能を果たしてない。一人で住むには広過ぎるしな。……いつか手放すつもりだ」 「でも……」 「ブライアント少佐としてではなく、自分という人間の内側は空っぽだ。大切なものはない、守りたい人も居ない、欲しいものもない、やりたい事もないし、将来の夢も別にない。……こんな男のどこがいい?」 そんな悲しい事をさらりと言われて、彼の自虐ぶりに唇を噛む。 「ハリー、あんたの生きる目的ってなんだよ」 内側からじわじわと高ぶる俺とは逆に、ハリーの顔は穏やかだった。 「知らんよ、そんな事……。深く考えるな。それよりもっと自分の事を考えろ」 その透明な表情を見てわかった。 自虐的なのではない。決して自分を虐めようとしているわけじゃない。 本当に「何もない」のだ。 泣きも笑いもせず、虚無である事に無感動。諦めという気持ちすら持ち合わせておらず、真実をありのまま受け入れる。彼の、この透明感はそういうものなのだ。 「自分の事?考えてるさ!そして思うよ、俺って幸せだなあって!あんたはどうなんだよ?あんた、不幸なの!?」 ああ?とハリーは呆れ顔で振り返り苦笑する。 「不幸そうに見えるかよ」 「じゃあ幸せなのか!?」 空っぽな自分を悲しいとすら思わない、そんな麻痺した感情の奴が幸せなのか? ハリーは、答えなかった――。 「ハリー!」 俺は足を止めて声を荒げた。 「――さあな、わからん」 そのまま、俯きながら歩く背中を見つめる。 バルコニーで、幸せについて彼が呟いた言葉を思い出す。 『そしてその時気付くんだろう……。生きていてよかったんだ、とな』 迷いながら、躊躇いながら、生きているかのような言葉。 『その時』気付かなかったら生きている事を後悔し続けるのか? 死んで消える事を望んでいるのか? この人は、本当に血を流して死んでしまうのか? 血のイメージが、死の影が、纏わりついて離れない。 ハリーが死ぬ――。 ハリーを永遠に失う――。 そうなったら、俺は……。 そうなったら、俺は……? 俺は一体……。 「おい、アクセル」 呼ばれてハッと目を上げると、ハリーが立ち止まって俺を待っていた。 「来いよ――。暗がりで迷子になるなよ?手を引いてもらわなきゃ歩けないか?」 言われて彼の方へと歩き出す。 「そこまで暗くねえじゃん。星も出てるし目も慣れたって」 俺がそう言うと彼は複雑そうな表情を浮かべた。 ハリーの言葉が何を示唆するものだったとか、俺の解釈とは違う意味だったとか、その時の俺にはわからなかった。 ハリーへの想いで気持ちがいっぱいで、自分の心に生じた歪みなど思いもしない。 彼は、俺が少しずつ狂い始めている事にとっくに気付いていたのだ。 どろどろした闇が、確実に俺を包み込んでいく――。