「ハリー、お湯沸いてる!」
「待て待て!先に塩入れて!」
「それじゃ吹きこぼれるって!」
俺の矢継ぎ早の指示にハリーはわたわたしている。
「うわ!あっち!」
「あーもー、危なっかしくて見てらんねーよ」
沸騰した鍋にパスタを入れるだけでこれだ。間違っても包丁なんか握らせられない。
「あんた、本当に料理はダメなんだな」
笑いながら隣に立つ男を見れば、彼は「うるさい……」と睨み上げてきた。
俺に指示されてこまごまと動くハリーなんてめずらしいシチュエーションだ。
昼飯の支度に取り掛ろうとした時、ハリーが手伝いを申し出てくれてこの状況に至る。
彼は生来素直な性格なのかもしれない。
それとも、食事を提供する人間には彼なりに敬意を払うのだろうか。
俺に笑われ呆れられても、口を真一文字にし真剣な顔をして鍋の中をかき混ぜている。
その酷く可愛らしい表情にまた頬が緩んだ。
「茹で加減はアルデンテでね」
「……数値で表すとアルデンテとは芯の直径が何ミリの状態なんだ?」
「へ!?」
ああ……どこまでクソ真面目なんだ、あんたは。
トマトサルサをかき混ぜながら肩を震わせて笑う俺を、この可愛い助手は不審そうに見上げていた。
でかい男二人で、笑い合いながらキッチンに立って、何だかままごとみたいだ。

時間が止まってしまえばいい、と切に願った。
このほんわかした普通の幸せがいつまでも続けばいい。
このまま、夏が終わらなければいい……。




明け方、またあの夢を見た――。
あれはこんな所まで俺について来た。
硝煙。
爆音。
ぬるい風。
自動小銃の音。
その場に崩れ落ちる男の身体。
そして、血……血……血……。
ハリーの身体の半分は吹き飛ばされていた。
重さが半分になったハリーを抱きしめて蹲り、俺は成す術なくただ泣いていた。
瓦礫の街ではない。
この海の波打ち際。
規則的に寄せる波に身体を洗われる。
夕日が海を赤く照らす。
いや、待て……。
今はまだ昼のはずだ。
沖まで赤く染まっているのは夕日などではなく……。
文字通り血の海の美しい赤に、俺はうっとり微笑む。
だが、笑みを浮かべた口から発せられたのは悲鳴だった。




酷い寝汗をかいて目が覚める。
荒い呼吸を落ち着かせ窓に目を向けると、呆れるほどの青空が広がっていた。
真夏の早朝の淡い光と澄んだ空気。
どんなに明るく太陽に照らされていても。
どんなに世界が優しい色をしていても。
どんなに愛しい人が傍に居ようとも。
その闇は俺に纏わり付いて離れない。
あの夜以来、眠りに落ちる度に欠かす事無く、夢は俺に“死”を見せ続けていた。


汗だくの姿をハリーに見られる前に起き出してシャワーを浴びた。
ハリーの部屋は静かだ。まだ眠っているはずだ。自然と抜き足差し足になる。
俺たちはそれぞれゲスト用の寝室を使っていた。つまり部屋が隣り合っている。
ふと、自分はうなされてはいなかっただろうか、と気になった。
バカンスに来てまでハリーに心配をかけたくはない。
シャワーを浴び終えキッチンに下り、コーヒーを淹れてるとハリーが下りてきた。
「おはよ、早いね」
「カモメの声に起こされた」
「あんたも?俺もだよ、うるせーのなんの」
嘘をついた。
「お前はたまに早起きしたらいいんだ。健康的なのもいいだろ?」
そんな風にハリーは笑う。彼の綺麗な笑顔を見て、俺はようやく安心する事が出来た。
朝食にブリオッシュとサラダを食べ、午前のうちに二人で庭の掃除をした。
どこからか飛んできたゴミを拾い、落葉を集め、伸び放題の雑草をむしる。結構な作業量だ。二人で冗談を言いながら手を黙々と動かし続ける。
傍から見れば俺たちは仲のいい兄弟に見えるかもしれない。
それも悪くない。
「これからハリーの事“お兄ちゃん”って呼ぼうかなあ」
「はあ?……気持ち悪い!」
思わず振り返ったハリーの顔は心底嫌そうで、逆に何だか楽しくなってしまう。
「兄弟居ないんだったよな?ど?俺みたいな元気で可愛いおとーと欲しくねえ?」
安っぽい伊達男を気取ってななめ45度の笑顔で言えば、生真面目ハリーが真顔で反論してきた。
「こんなデカイ弟なんかいらん。それにお前は弟には思えない」
「じゃ、何?」
俺は、こんな冗談を振った事にも、何?と訊いてしまった事にも後悔した。
たぶん彼の返答はこうだ。
“友達以外に何がある、馬鹿”
わかっている事なのに、それをはっきり宣告されるのは今の俺にはつらい。
もう自分ではとっくに、いや最初から気付いているんだ。友達だと自分に言い聞かせる事に、俺は相当無理をしている。
だが、ハリーの答えは俺の予想を軽く超越したものだった。
「犬だな――」
「はあぁっ!?」
「だから、犬だ。躾の悪いデカイ犬」
「……飼い主はあんた?」
と訊けば嫌そうに、しかしなぜか威張って頷く。
「……ハリーって女王様だったんだ……!」
「誰が女王様だよ!」
ハリーは笑い出す俺の額を人差し指で小突いた。
ほんの軽い力なのに、妙な気功術でも使ったのかと思うほどの力に押され、集めた落葉の上に尻もちを着いた。
「ばぁか、何やってんだ」
ハリーは笑いながら身をかがめて俺に手を差し出す。
その手を握った――。
俺より若干華奢な手が力強く握ってくる。昨日、俺を悪夢から引っ張り上げた手。ボロボロのくせに、その手は俺をこうして救う。
ハリーは、兄というより父親に近いかもしれない。
引っ張られて立ち上がり、ハリーと向き合った。

この手を離したくない――。

なかなか手を離そうとしない俺を、彼はどう思っているだろう。戸惑いを滲ませた青い瞳。だが、離せという言葉は発せられず……。
気まずい間が空く。

繋いだ手を引きよせてこのまま抱き締めたい。
腕の中に包み込んで、胸に頭をかき抱いて、呼吸と体温を感じたい。
頼む、少しでいい!
ほんの一瞬でいいから……。

「さあて、残り片づけちまおっか」
ありったけの精神力を振り絞って俺はそう言って笑った。
最後にぎゅっと彼の手を強く握って……。
静かに離した――。


二人して大騒ぎしながら作ったスパゲティは上々の出来だった。
茹で加減、パーフェクトなアルデンテだ、と太鼓判を押したら、蛸のトマトソースも凄く美味いと言ってくれた。
夕食はハリーのリクエストで肉料理だ。骨付きラム肉を買ってある。ニンニクとハーブをたっぷり使ってソテーし、濃厚なソースをかけて食べよう。
ハリーがまた手伝いを申し出てくれた。俺は彼にバレないようにこっそり笑った。
子供の才能を伸ばすには、褒めて褒めて褒めちぎる事。そんな言葉を思い出す。
彼は、スパゲティの大成功に気を良くして料理に目覚めたのかもしれない。それがいつまで続くかわからないが……。
食後にエスプレッソを淹れる。それを美味そうにハリーが飲む。
湯気の向こうの穏やかな顔をした彼を見て思う。
ハリーはごく普通の男なのだ。
国防の名のもとに多くの人間を殺したかもしれない。作戦遂行のために、人命を奪う事を躊躇しない彼を残忍だと言うのは、それは平和しか知らない人間の言葉だろう。殺らなければ殺られる――。そんな映画の中でしか聞かないセリフは、ハリーにとっては日常的に当たり前の理屈だ。愛国心を培われ、イデオロギーを叩き込まれ、命令に従い自分を信じて銃を手に取る職業軍人。そんなハリーを俺は恐れも蔑みもしない。
ただ、幸せであって欲しい、と心から願う。
穏やかな時間の中でふと見せる屈託ない笑顔を守りたい。
この人を失うなど、なぜ出来よう。
それなのに、俺は夢で何度もハリーを失い続ける。
昼食後、俺たちは居間でめいめいの時間を過ごす。
ソファで寝そべり雑誌をめくっていた俺は、そのまま眠りに落ちてしまった……。




立ち込める硝煙。
遠くから聞こえる爆音。
オモチャみたいな銃声。

ああ、くそっ!俺はまたここに来ちまった!

前方に現れる人影。その人の口が動く。“逃げろ”と。
間に合いますように!と祈りながらその人のもとへ全力で駆けた。

頼む、そこから逃げてくれ!

タタタン!
俺の目の前で細い身体に何発も銃弾が撃ち込まれ、血を流しながら彼は地面に崩れ落ちた。
俺は目を閉じ顔を覆った。瞼を閉じているのにその光景は消えない。やがて目に映る風景の上から下に向かって真っ赤な血がゆっくり、とろとろと流れた。ビデオカメラのレンズに直接血が流れるように、すべてが赤く染まっていった。


波の音が聞こえる――。
血まみれのハリーを抱いて波打ち際で座り込んでいた。振り返ると、背後の丘の中腹に俺たちの別荘が建っている。
迫りくる最期の時、俺たちはこの海に還ってきていた。
腕の中のハリーの呼吸は浅くゆっくりだ。大量の失血のせいで身体はどんどん冷たくなっていった。鼓動が、次第に弱くなっていく。
ハリーはもう助からない……。
ごめんよ、ハリー……と、冷たい頬に自分の頬を押し当てて俺は呻いた。
あんたを助けたかった。故国を守ろうとか、世界を救おうとか、俺の望みはそんな大それた事じゃない。世界に一人だけの、たったひとつしかないあんたの命を守りたかっただけなんだ。それすらできない俺は、何のためにこの世に生まれてきたんだろう。
その時、微かな声で名を呼ばれた。
驚いて顔を上げると、静かに微笑むハリーの顔があった。
白い指先が、ありったけの力を振り絞るように伸ばされて俺の頬に触れる。
そして小さく掠れた声で、彼は言った。

『愛してる』

涙が俺の頬を伝った。
その一言が聞きたいがために、俺は想像の中でこの人にどんな酷い事をしてきたか。
無理やり快楽を与えて、身体を穢して、辱めて……。淫らに喘がせても、悶えながら強請らせても、ハリーは決して愛を口にしてくれなかった。
俺を置いて一人逝こうとするハリーが最期の瞬間、愛だけを遺す。
こんな愚かで自分勝手な男に、ひとつしかない心をくれる。
食いしばった歯の隙間から堪えきれず嗚咽が漏れた。

もういいだろ?神様。
俺はあと何度ハリーを失えば赦される?
彼を、返してくれ……。

もうたくさんだ――!!




白い天井が目に飛び込む。
開け放った窓から海の匂いを含んだ風が入ってきた。
聞こえるのは波の音しかない。一人掛けソファで本を読んでいたハリーの姿はなく、この部屋には自分一人しか居なかった。静かだ……。
ソファからのろのろと上体を起こした時、何かが頬を滑り落ちた。手をやってその正体に驚く。――俺は泣いていたらしい。
悪夢は少しずつ形を変えていく。回を重ねるごとに絶望が深くなっていく。これは夢だとわかっていたはずなのに、最後は現実だと思っている夢の中の自分。
心が引きちぎられるような後悔と喪失感。それらは次第に俺の現実を侵食していくようだ。
流した涙は夢の中の出来事だったはずなのに、それは現に俺の頬をこうして濡らしている。
あと何度これは続くのだろうか。最後には俺の現実は夢に塗り替えられてしまうのだろうか。そうなったら、俺の現実はどこに行ってしまうのだろう。
ハリーが居ない――。
ハリーを失う夢から覚めたのに、現実に戻っても彼が居ない。
居間は静まり返っている。2階からも気配がしない。窓まで歩み寄って外を見た。車はある。では……。
視線を海岸までずらし、俺の目はそこで釘づけになった。

また、ハリーが一人で海を見ていた。

波打ち際で、ただ黙って突っ立って、一心に水平線の彼方を見ている。
このまま海に還ってしまいそうな、その背中。
一体、この海の何が彼を呼ぶのか。

消えてしまいそうだ。

まばたきをするほんの一瞬の間にその身体が波間に消えるようで、目を逸らすのが怖い。
自分の足で立っていた彼が銃声の後、血まみれで砂の上に横たわっているかもしれない。
すべてが消えて無かった事になる。
全身に冷たい汗が流れた。

いやだ……。
そうはさせない……。
助けてくれ……。
誰かこの夢から俺の目を覚まさせてくれ……。
狂ってしまう前に――。

窓際をそっと離れて俺は2階に上がった。
迷わず主寝室に入りベッドの傍まで行く。確かここにあるはずだ。
ナイトテーブルの引き出しを開け、目指す物を見つけた。
ワルサーPPK……。
懐かしい手触りだ――。冷たい銃身。ずしりとした重み。弾は装填されている。
俺の手の中の、冗談みたいに小さな銃。だが、こんなに小さくてもこいつは殺しのための道具だ。こいつの事はよく知っている。特徴も、クセも、撃った時の感触も……。
だが人に向けた事はない。俺はバイヤーであって殺し屋ではないのだ。
人は引き金に指を掛ける時、何を考えるのだろうか。

カシャッ!

スライドを引く。初弾が薬室内に送り込まれた確かな手応えがあった。
小さな銃は、本来の存在理由を果たす準備を整えたのだ。
俺は寝室を後にした。