思えば、俺はただ怯えていた。
ハリーの、軍人としての現実を知った。今頃になってようやくだ。わかったつもりで、だが実は目を背けていたのだ。俺は最初から現実を受け入れる覚悟など出来てなかった。
その人が大切すぎて、失いたくなくて、一生自分の可愛い恋人にしておきたくて、こんなに確かな彼の硬い手のひらから、意識して目を逸らし続けた。
笑ってしまう。とんだ恋愛ごっこだ。
失う事が怖くて怖くて、自分で自分の中に作り出した死の幻影は、俺の弱さそのものだ。
今だって怖い……。怖くて堪らない……。

砂利を踏みしめて坂道を下りる。
少し強くなった風がハリーの長い髪を弄んでいる。彼は相変わらず微動だにしない。俺が近づいてきている事に気付いているのか、いないのか。
ハリーから数メートル離れた背後で立ち止まった。

きっと彼には、どんな死の妄想をも弾き飛ばす強さがあるはずだ――。

握りしめていた右手をゆっくりハリーに向かって伸ばした。
手の中には小さな凶器。
彼の背中に銃口を向けた。

「――頭だ……」

その時、前方で声がした。
ハリーが僅かに顔をこちらに向けてもう一度――。今度ははっきり聞こえた。

「頭を狙え、アクセル」

ハリーが振り返り、俺と目が合った。
途端に心臓が激しく鼓動を刻む。悪戯するところを見られた子供の心境。
そうじゃないんだハリー!これは……。
これは……?
ハリーがこっちに向かって歩いて来た。俺の目の前に立ち止まっても、俺の右腕は大きく張り出した木の枝みたいに下ろす事が出来ない。
俺は……。
「人間を確実に殺す時は頭を撃つんだ」
まるで世間話をするように、淡々とハリーは言う。
冗談さ、と言えばいい。あんたが撃ち殺されるようなタマかよ、と笑えばいい。
だが、声を出せない……。
「どうした?撃てよ」
何言ってんだ、あんた……。
ふいに手が伸びてきて、銃を握った手首を掴まれた。ハッとして引っ込めようとしたが、強い力で阻止される。
興味なさげに俺の手の中の銃を見つめていた彼の目が、ふっと細められた。
ハリーの指が安全装置に掛かる。
カチリ――!
不吉な音をたてて、それは解除された。
発砲を止めるものはもう何もない。そして……。
手首を掴んだハリーの手は、俺の手ごと銃口を自分の額に押し当てた。
一気に全身の毛孔が開いて汗が噴き出す。
「何……すんだよ。あんた……」
掠れきった俺の声は、はたしてハリーに聞こえたろうか。
引き金に掛けた俺の人差し指にハリーの親指が添えられる。
間違いであってほしい不穏な予感。だが、おそらく間違いではないだろう。
懇願する思いで小刻みに首を横に振る。吸い込む息が喉の途中で引っ掛かる。
少しのくもりもない青い瞳が真正面から俺を見上げていた。あくまで透明な表情。
予感した通りに彼の親指が俺の人差し指を押してきた。

「……嫌だ……」

唇の震えのまま声も震える。
指に、さらに力が加えられる。

「……嫌だ……ハリー……」

大きくわななく唇から涙混じりの懇願が零れた。
歯の根が合わずガチガチと音をたてる。立っていられないほど足が震える。
またさらに力が加えられ、引き金が軋んだ。
ああ、そんな……と、首をいやいやと振る。

「頼む……頼むよ……やめてくれ……!」

抵抗する人差し指より強い力で、何の迷いもなく押してくるハリーの指。
引き絞られる引き金は限界だった。
本当にハリーを撃ち殺しちまう――!
その瞬間、俺は声の限りに叫んだ。

「やめろォ――っ!!」

渾身の力でハリーに体当たりした。
ワルサーが手の中から零れ砂の上に落ちる。俺に全身で突き飛ばされたハリーは、バランスを崩して砂の上に手を着いた。
ハリーが体勢を立て直す前に、俺は彼のシャツの胸ぐらをわし掴み、引き寄せた。右手をバックハンドで高く振り上げる。
一瞬、ハリーと目が合った――。
俺を待つ彼の優しげな瞳にハッと息を飲む。だが振り下ろす手を急には止められなかった。
手の甲でハリーの頬を思い切り、ぶん殴った。
ハリーの華奢な身体が吹っ飛んで砂の上に叩きつけられる。
「何考えてるんだよ……」
うつ伏せに倒れ込んだハリーを茫然と見ながら呟いた。
ハリーを殴った……。この俺が……。
「何考えてんだよ、あんたは……!」
殴った手がじんじんと痛む。おそらく殴られた方はもっと……。
「そんなに死にたかったのかよ!俺に、殺されるのを待っていたのか!このクソ野郎!」
撃ち殺しかけた恐怖と、そうならなかった安堵と、最愛の人に手を上げた胸の痛みが一気に押し寄せて、胸の中で激しく打ち続ける鼓動のまま、俺は堰を切ったようにまくし立てた。
「自分の命を……弄ぶようなマネしやがって……!」
腕を立てて、ハリーがのろのろと上体を起こす。髪に隠れて顔は見えない。どうやら口の中を切ったらしく、血の混じった唾をぺッと吐き捨てた。
顔を伏せたまま彼は、ハッ!と笑った。
「馬鹿馬鹿しい」
怒りも悲しみも感じさせないいつもの低音ボイスに、一瞬呆気にとられる。
「お前に殺される、だ?笑わせるな」
しっかり立ち上がり、俺の足元に落ちた銃を拾い上げた。そして真正面から俺の目を見つめながら銃口を自分のこめかみに当て――。
止める間もなかった……。

カチッ!

えっ……?
小さな金属音をたて落ちた撃鉄に茫然となる。
俺を見据えていたハリーの燃えるような瞳が細められ、唇の端が上がった。
「これが叔父の、銃に対する考え方だ」
そう言ってハリーは俺に向かってワルサーを放った。
受け止めたそれを、俺は馬鹿みたいに眺める。何の変哲もない銃なのだ。
「ファイアリング・ピン(撃針)が無い銃だ」
撃鉄のエネルギーを薬莢の雷管に伝える小さな部品。その有無は外観からはわからない。
どんなに引き金を引いても、薬莢のケツを叩く部品が無ければ弾は出ない。
つまり、最初から撃てない銃……。
緊張が一気に解ける。砂地に膝が崩れ落ち、へなへなと尻を着く。
「銃は身を守るためだなんてのはな、詭弁だ。そいつはどう取り繕おうが人殺しの道具だ。それ以外の何ものでもない」
「あんたのブローニングも……?」
人を殺す事を覚悟の上で愛銃を握るのか?と、こわごわ問えば、当たり前だと即答された。
「ステファンは……叔父は、甥っ子が軍人である事に昔は胸を痛めていた。今はしっかり受け入れているがな……。それでも自分自身が護身用であれ銃を持つ事は嫌がった。だから最初そいつを見つけた時は驚いたさ。だが昨日クリーニングをしていてファイアリング・ピンが抜かれている事に気が付いて、なるほど叔父らしいと思った」
血の味が気になるらしく、ハリーはもう一度唾を吐いて言葉を続けた。
「撃てない銃はオモチャと同じだ。それでも強盗に対しては威嚇くらいにはなるだろう。叔父は、人を撃つくらいなら自分が撃たれた方がマシだと、そう考える人なんだ。私は違うけどな」
どこか遠い目をして思い出し語りしていたハリーが、あらためて俺と向き合う。へたり込んだ俺の前に立ちはだかって悠然と見下ろしてくる。まったく……殴ったのは、殴られたのは、どちらかわからない。
「アクセル、何が怖い?」
「あんたが死ぬコト……」
問いに、間髪入れず答える。ハリーは深くため息をつき、勝手に殺すなと呟いた。
「その銃はメンテナンスをしたばかりで弾も入っていた。安全装置も解除して実際引き金を引いた。だが弾は出なかった……。お前がたまたま手にした銃は、ファイアリング・ピンを抜くという誰も考え付かないような小細工を施された、そんな銃だったんだ。その確率が、どれほどの奇跡かわかるか?」
説得力のある、ハリーらしい、わかりやすく理論的な説明。
「これほど条件が揃っているのに、死ななかっただろ?撃てなかっただろ?私はな、死なないんだよ」
アクセル――と、ハリーはあらたまってもう一度ゆっくり俺に言う。

「死なないんだ」

真夏の太陽が頭上を過ぎて西に傾きだした。
太陽を背に俺の前に立ちはだかるハリーは、ぎらつく陽射しと波間の照り返しにその輪郭を奪われる。金色の髪が潮風に巻き上げられる。まともに目を開けてられないほどの眩しさの中で、彼はウソみたいに白い光に包まれていた。
この光景は見た事がある――。
“ガブリエル”と俺が名付けたあの日のあの公園。俺に啓示を下し、罪を赦した大天使。
今また彼は、跪く俺の前に悠然と立ち、光の中で予言する。
自分は死なないのだと、先々週まで戦場に居た男がそう断言する。
「私が嘘をついた事があるか?」
「ねえよ……」
「約束をやぶった事があるか?」
「一度もねえ……」
俺がそう言うと、この人は勝ち誇るかのように目を細めた。
「なら、私を信じろ」
華やかな花のように微笑むハリーを見て、俺は思う。
この人は火の花のようだ――。
ゆるゆるとたち上るように見えて、だが白い炎は恐ろしいほどの猛火だ。
まるで壊れたプレーヤーのように、俺の頭の中で延々と再生される血まみれの悪夢。
血の海の情景も、瓦礫の街も、硝煙がたち込める空も、チープなC級ホラー映画みたいなそれらをすべて、この炎はフイルムごと焼き尽くしていく。灰すら残さずに……。
血の残像が消えてしまえば、後に残ったのは炎に縁取られ自分の足で立つ男の姿で……。なぜ、この男が簡単に死ぬと信じたのだろうと、今さら不思議に思う。
目に見えるもの、耳に届く音すべてが急にクリアになった。
強烈な白い光に脳の内側に張った不穏な膜を溶かされ、俺はようやく長い眠りから目が覚めた気がした。
「俺さ、あんたを撃つつもりなんてこれっぽっちもなかったよ……?」
「そんな事は知っている」
か細い声で俺が呟くと、ハリーは当然とばかりに返答してくれた。
「俺は狂っていたのかなあ……」
そんな泣きそうな声に、ハリーは俺の前にしゃがみこんで目線を合わせた。
「人に向かって引き金を引く事を怖いと思うお前より、迷わず人を撃つ私の方が狂っていると思わないか?」
「でも……」
「お前は狂ってたんじゃなく、怯えていただけだ」
ハリーはまた俺を赦す。それだけでなく、俺の恐怖も怒りも受け止めた。
振り上げた俺の手が打ち下ろされるのを待っていた優しい目。
この人ならば、俺の平手を軽くかわして逆に攻撃に出る事が充分可能だったろうに。
だが、そうしなかった。避けると行き場を失う俺の怒りを、ハリーは正面から抱き止めたのだ。
「……ごめんな……」
手を伸ばして指先でハリーの頬にそっと触った。頬骨のあたりが赤くなっている。アザになるかもしれない。
「ごめん……!」
「もう言うな」
ハリーはそう言って、頬に触れる俺の指に手を重ねた。
「夢を見てうなされている事に気が付いていた。無理して笑うお前に何とも思わなかったわけじゃない。本当だ……」
ハリーは知っていたのか――。
「ただ、どうすればいいのか……私自身わからなかったんだ……」
死の幻影に振り回されて、俺が自分の事しか考えてなかった間、この人はずっと心を痛めながら俺を見ていた。俺はちっともそれに気付かなかった。
「私に向けて引き金を引かせる事も、黙って殴られる事も、お前に対してどんなに酷な事なのかわかっている。すまないと思う。こんなやり方は、言葉が足りなかった私へのツケだ。恨んでくれていい」
「ハリー……俺たち、本当に大切な事は何にも話してなかったんだなあ……」
言葉が足りなかったツケは俺も同じなのだ。
「ちゃんと話そう、ハリー。俺、あんたに思った事ちゃんと話すから。だから、あんたの考えている事も言って欲しい」
ハリーは静かに頷き、俺の指をそっと下ろさせた。
「それじゃ今から言う事をよく聞いてほしい。一度しか言わない」
そう言うとハリーは厳しい目で俺を正面から見据えた。
「私に見届けて欲しいと言うのなら、お前も私を見届けろ。まず、人の死を受け入れる覚悟を持て。それが出来なければこんな男の事は忘れろ」
きっとこれは最後の警告なのだろう。
「私だっていつかは死ぬ。歩けなくなる日がきっと来る。私は今の仕事も、生き方も、どうしても辞めるわけにはいかないんだ。口で言うほど簡単な事じゃないぞ?お前は、遠く離れた軍人の生き死にを見届ける勇気が本当にあるのか?」
ハリーが突き付ける問いかけは厳しいものだ。そして、それはどうにもならない現実だ。8ヶ月前の俺は、この警告の意味を本当に理解出来ただろうか。
そして今の俺は――。
「あんたこそこんな男に出会った事、後悔しないのかよ?」
問いながら、鼓動が次第に激しくなっていく。
後悔している、と言われてもおかしくない。心当たりはたくさんある。
ハリーが黙って俯く。答えに詰まっているわけではない。彼は、下を向いて肩を震わせ、小さく笑っていた。
そして上げられた、その目は笑っていなかった。
「あの時、言ったよな?こんな男を想うのは幸せじゃないと。もうお前には会わないと。さんざん……忘れるように……諦めるように言った……!お前があんまり聞き分けがないから黙って帰国するはずだった!逃げるようにパリを去る予定だったんだよ!私は!」
普段、クールなハリーの語気が次第に強くなっていく。
「ところが、このどうしようもない馬鹿は、私を追って来やがった……!」
吐き捨てるように、憎しみすら込めて、そして……悲しげに呟いた。
「お前があんまり私の名を呼ぶから、私はもうどこにも逃げられないじゃないか……」
彼は立ち上がると海の方を仰ぎ、波打ち際まで歩き出した。

自ら退路を断ったのだろう、この人は……。
逃げられないという言葉は、言い換えれば「逃げない」という意味だ。

強いくせにどこか儚い。
沈着冷静な瞳に宿る危うい熱。
強烈な光を放ちながらも抱える闇。
ひとつの身体に矛盾が内包された、二律背反を抱えた男。
けれど、ハリー・ブライアントの根底には何があるのか。彼の心を覗き込もうとも、深すぎて何も見えない。

ようやく、ひとつだけわかった事……。

この大輪の花は、自ら発する炎で自分の弱さも他人の恐れも焼き払う。だが、その炎の激しさは、いつか自分自身すら焼き尽くしてしまうだろう。
そうさせないために、俺はこの火の花を見守り続ける。それは、きっと俺に許された事であり、義務でもある。
死をも含めてその生き様から、決して目を離すまいと俺は思う。

俺は走り寄って、海を見つめる細い身体を後から力いっぱい抱き締めた。
突然の体当たりの抱擁に、ハリーの身体が前につんのめる。両腕ごと身体を抱き込んだ。
自分に課した禁を破ってハリーに触れてしまった。が、離す気にはなれない。かなり強い力で抱き締めたが、ハリーは離せとは言わなかった。

クワ!――と、俺たちの頭上をカモメが一羽だけ越えて行った。
腕の中でハリーが大きく仰向き、頭上のカモメを目で追った。
俺は、黙って彼の肩に顔をうずめ、ゆっくり目を閉じる。
瞼の内側を、カモメの残像が飛んで行った。