身体を左右上下に揺す振られ、車が山道を走って、もうどのくらいになるだろう。 前日の雨のせいで未舗装の道はだいぶぬかるんでいる。沼のようになった水溜りを難なく突破し、タイヤに纏わり付く泥を跳ね飛ばして、車はぐいぐい進んで行った。 トラック並みのごついエンジンを持った四輪駆動のRV車にとって、これしきの轍は悪路のうちには入らない。 「さっきからすんごい道なんですけど……。本当に大丈夫なの?道、間違えてねえ?」 さして不安というわけでもないが、咥え煙草でハンドルを握る男に一応訊いてみる。 「心配するな。近道なんだよ」 ハリーはひとつシフトを落としてアクセルを踏み込んだ。 「近道というか、けもの道だね」 俺にはどこをどう走っているかわからない山道。涼しい顔で近道と言うって事は、何度もここを走ってよく知った道という事だ。 ハリーは何の目的で、そして何度ここを通っているのだろう。 数時間前、浜辺を後にして家へと戻る途中、ハリーが俺に言った。 今日、これからドライブに行かないか?と。 どこに?と問うと、この海岸より夕日が綺麗に見える場所だと言う。おそらく今日は見事な夕焼けが見られるだろうとの言葉に、断る理由はひとつもなかった。たとえ目的地がこの世の果てだったとしても、俺は喜んでハリーについて行くだろう。 聞けば片道40分程度の所だと言うので、俺たちはゆっくり食事の支度をし、飯を食べた。 ハリーのリクエスト通りのラム肉料理。 肉の下ごしらえとソースは昼間のうちにやってある。俺が肉を焼く間、ハリーには付け合わせの野菜のバター煮を頼んだ。指示された通り焦がさないように鍋のニンジンを転がすハリーに声をかける。 「料理、楽しい?」 「たまにはな」 「また手伝ってくれる?」 「仕方ないな」 真剣な面持ちとそっけない言葉とは裏腹に、目が嬉しそうなのを俺は見逃さない。 自分で食う物を自分で作る――。あんたが今、楽しいと思ってやっている事は、ごくごく普通の事なんだよ。俺は普通の事しか教えられない。でも少々いびつになってしまったあんたの生活に、こんな事が日々の彩りになるんだったら、こんな嬉しい事はない。 突然、騒音と振動がなくなって、ハッと意識を戻される――。 車は細い山道を抜けて舗装された道路に出た。ようやくまともな幹線に出て、俺の顔に安堵の色が表れていたのだろうか。ハリーがこっちを見て微かに笑った。 なだらかな傾斜を上がって、車は山頂を目指してひた走る。 車は緩やかに駐車場へと入って行った。他に停まっている車は一台もない。 ここが目的地らしい。エンジンを切り、車を降りる。 「ああ、手ぶらで来たな……」 聞こえるか聞こえないかの小さな呟き。何を持ってくるつもりだったのだろうか。誰かと会うつもりなのだろうか。 駐車場の奥の、綺麗に整えられた遊歩道を進んだ。歩きながらハリーの真意に思いを巡らせる。 夕日を見に行こう――と、なぜハリーは今日俺を誘ったのか……。単なる思い付きとは思えない。前を歩くハリーが時折俺を振り返り見る。その顔はピクニック気分の観光客のようにどこか楽しげだ。 つい数時間前だ。この人に銃を向け、この人が俺に引き金を引かせようとした。俺が、初めて愛しい人の顔を思い切りぶん殴った。激しい感情のやりとり……。それらは、ほんの数時間前の出来事なのだ。 ここがどこなのかも知らない。 「ところで、ここってどこ?」 「サンマチュー岬だ――」 ハリーは立ち止まり、俺が追い付くのを待ってそう答えた。 「フランスの最西端だ。ここの名称は正確には『サンマチュー・メモリアル公園』だったかな?」 公園というには規模は小さいように思える。大きな駐車場を備えた展望ポイントといったところだろうか。ドライブに疲れた人々が、休憩のためにしばし停まって、ついでに景色を眺める場所という感じがする。売店があるわけではないが、綺麗に手入れされた所だった。自然の樹木と芝と花壇、人が散策しやすいように敷かれた化粧砂利やアスファルト。 ゴミのひとつも落ちて無い。常に丁寧に手入れされているのは一目瞭然だ。それにこの広さの駐車場があるという事は、ここには訪れる人が多く居るという事だ。 それにしても、メモリアルというのはどういう意味なのだろう。 「見ろよ、アクセル」 その声に目を上げる。 転落防止の白いフェンスの向こうに金色の海が輝いていた。 「――すっ……!」 すっげえ、という声が途中で止まってしまった。 美しい、という言葉では表現できない光。水平線の白金色に目を刺されるようだ。視線を上に移せば黄金の空、そして迫りくる茜色。 フランスには多くの世界遺産がある。テレビでしか知らないそれらを綺麗だと思った。だが、ここは何か違う。人が造った物などひとつもない。目の前の光景は、海と、空と、光しかないのだ。 「ここは、天国なのか……?」 ようやく絞り出した俺の呟きに、ハリーは振り返って微笑む。 ああ、また……ハリーの輪郭が光りと溶け合う。 白いシャツにオリーブグリーンの麻のパンツという普通の格好をした普通の男は、人間の姿を借りた、人間ではない“何者か”に思えてくる。 その“何者か”のハリーが言う。 「凄いのはこれからだ。あの太陽が沈む頃、ここはとんでもなく綺麗な赤一色になるんだ」 「俺、フランス人なのに、自分の国にこんな場所があるなんて、全然知らなかった……。あんたはここにはよく来るの?」 来ているはずなのだ、あんな近道を知っているくらいだから。だが、一人で来るだろうか……。普段忙しいハリーがわざわざ?夕日を見るためだけに?この人が一人で観光をするような男か? 「お前、7年前は何をしていた?」 ハリーが背を向けたまま、唐突に言った。 「7年前……?『ネオ・トリアノン』に入る前の年だな。売人生活の真っ只中だよ。7年前がどうかした?」 俺の問いかけに、ハリーは腕をまっすぐ前に伸ばす。指が示す先は海しかない……。 「今から7年前の12月だった……。この先の大西洋の真ん中に旅客機が一機、墜落したんだ……」 重い響きを伴ってその言葉は俺の胸に落ちてきた――。 知っていたか?と問われ、茫然とした気持ちで首を横に振る。 “メモリアル公園”――。この場所の名前の意味を今、初めて知る。 ドライブだと言われ、穏やかに微笑むハリーにこっちもすっかり観光気分で鼻歌まじりについて来た。だが……。 ここは神聖な場所なのだ――。 かつて、大きな航空機事故があった場所から一番近い陸地。その追悼で作られた公園。 それだけじゃない何かをハリーの後ろ姿から感じた。ここは彼にとっても特別な場所ではないのだろうか……。 「――パリ発ワシントンD.C行き、エールフランス828便。乗員10名、乗客168名、うち男性101名、女性77名。10歳以下の子供が9名含まれていた」 まるで手元の事故報告書を読み上げるようなデータを、なぜかハリーは正確に暗唱する。淡々と紡がれる彼の言葉を、俺はただ黙って聞いていた。 「午後5時35分、定刻を35分遅れてパリを発ったエアバス機は、目的地に辿り着く事が出来なかった。クリスマスを2週間後に控えたその日、178名は全員死亡した」 何の感情も交えないハリーは、さらに淡々と信じられない言葉を吐いた。 「アクセル、これは航空機事故などではない。……信じがたいようなテロ事件なんだ」 「えっ……?」 ちょっと、待てよ……! 「知っている者も居るが、知らない者も大勢居る。出来れば他言しないで欲しい。これから少し嫌な話をするが、それでもいいか?」 動揺する俺は、振り返ったハリーの顔を見て静かに覚悟を決めた。彼は、例の透明な表情の中に苦渋を滲ませていたのだ。 受け止めたいよ、ハリー……。 「聞かせてくれ――」 空は次第に深みを帯びて、強烈な白金の光から徐々に辺りはオレンジ色に包まれてきた。そんな中、ハリーは静かに語り出す。 「犯人は中東の過激派武装組織だった――」 その組織は所有する武器の量、戦士の陣容共にかなり大きな組織だという。国境沿いの山岳地帯を完全に掌握し、他民族の武力組織とも協力関係を結んでいた。 その過激派武装組織に、今までどのくらいの命が奪われたかわからない、とハリーは言う。アメリカ兵のみならず、同じ国民のはずの女も子供も、運が悪ければ巻き添えにあって殺された。 「12月のあの日、828便にありえない物が持ち込まれた」 「一体、何が?」 「核弾頭だ」 とハリーは言った。 「ソムリエナイフすら持ち込めないフランスの空港のセキュリティを思えば、信じられないような話だ。だが、現実にそれは機内に持ち込まれてしまった。トイレの用具室から下着姿の手荷物検査員の遺体が発見された時、空港はとんでもない事件が起こっている事にようやく気が付いたんだ」 何者かが手荷物検査員を殺して制服とIDを奪い、検査員になりすまして実行犯とその危険な手荷物を通した――。そんなクライム小説みたいな事が現実に起こりうるんだろうか。 「起こったんだよ、それが」 俺の呟きにハリーが答える。 「12月のその時期は、クリスマスに向けて人の移動がピークの時だ。しかもその日、パリの天候は荒れていた。各便に遅れが出始め、苛立つ出国客で空港内はごった返している。セキュリティが手薄になり、人員配置がいつもと若干違う事を気に留める者も居なかったんだろう」 「そいつ……検査員になりすましていた奴、捕まったの?」 「ああ、捕まえたさ。その男はその場で自殺を試みた。もしその時、男が持っていた青酸カリを取り上げる事が出来なかったら……今頃世界は大きく変わっていただろう、間違いなく。だが……」 言葉を切って沈黙するハリーの横顔は苦しそうで、俺は声をかけられない。 「遅かったんだ……。犯人に自白させて、これから何が起ころうとしているのか、わかった時にはもう、828便は離陸した後だった……」 少し風が出てきた。海から吹く風が潮の香りを運んでくる。 今日はめずらしく風が弱い方だ、とハリーが呟いた。俺は話の続きを待つ。 「――見た目はごく普通のジュラルミンケースだ。大きさはビジネス用の書類バッグくらいだろう。核弾頭はそんな小さなケースに収まっていた。そいつは、ある一定の高度まで上昇すると起爆スイッチが入る。一度スイッチが入るともう止められない。そして設定された高度まで下がると爆発する」 つまり、生きて地上に降りる事は出来ないのだ。高度何千メートルか何百メートルかわからないが、着陸するために高度を下げると空中で爆発する。残酷な仕組みだ、と思った。 だが、本当に残酷なのはここから先だった……。 「待てよ、さっき大西洋の真ん中で墜落したって言ったよな……。目的地までまだほど遠いのに、高度下げるわけないだろ?」 俺の疑問に対して、ハリーはまるで夢でも見ているみたいに呟いた。 「――仕方なかったんだ、アクセル……」 静かな声の中にどうしようもない絶望を感じた。 「828便を救う手立てはなかった。このままでいくとワシントンD・Cの上空で放射能がばら撒かれる。ホワイトハウスのあるアメリカの首都の真上だ。もちろんニューヨークも無事ではいられない。アメリカ東海岸一帯に放射能が降り注ぎ、何千、何万という罪もない人々が死ぬんだ。選択肢はなかった……」 悲しいシナリオが、俺の頭に浮かんでくる……。 「米仏、両大統領がホットラインで話し合った。長い話し合いではなかったはずだ。アメリカ大統領は苦渋の決断を下した。“828便を撃墜せよ”……。命令はただちに空軍によって遂行された。大西洋の真ん中でだ」 そんな……と、俺は首を振っていた。 やりきれない思いが胸に込み上げる。自分の家族や友人が乗っていたわけではない。だが、どうにもしがたいやりきれなさが残る。そんな気持ちを抑えたくて空を仰ぐと、頭上はオレンジ色から赤に変わろうとしていた。 「――犯人組織の要求は、一体何だったんだよ……!」 抑えきれない怒りを含んだ問いかけに、ハリーが俺を見て微かに笑った。 「要求?そんなものはない。連中は取り引きをするつもりはないからな。要求があるとすれば“すべてのアメリカ人に神の裁きを!大統領に死を!”ってとこだろうな。事実、空港で取り押さえられた男がそう叫んでいたらしい。……これはな、報復行為なんだよ」 「報復?何の!?」 苛立ちのままに言葉をぶつけたが、頭のどこかでこんな図式はわかっていた。 何かの出来事には必ず何か“始まり”があるのだ。 「この事件の10日前、アメリカ軍は大きな情報を掴んでいた。この過激派組織の幹部2名の所在だ。最高権力者ではないが組織の中ではかなり重要な人物で、この組織内だけでなく、他の武装組織にも、山岳地帯のゲリラにも、海外にまで影響力を持つほどだ。今までアメリカは躍起になってこの2名を追っていたが、どうしても尻尾が掴めなかった。だが、ついに二人が現れる場所と時間の情報を入手した。確かな裏付けを取ると即、特殊部隊を出動させた。暗殺を実行するために――」 俺の猛りに反比例するように、ハリーの声は次第に淡々としていく。 「暗殺は……その作戦は、成功したの……?」 「成功?」 ハリーは目を丸くし、可笑しそうに口元を歪めた。 「二人とも殺したのかという意味なら、殺したさ……私がな」 瞬間、ハリーを振り返った。 俺を見上げるブルーアイとかち合う。 彼は酷く優しげな顔でもう一度、ゆっくり言った。 「幹部2名を射殺したのは、当時特殊部隊だった私なんだ――」 7年前――特殊部隊で狙撃を担っていたハリー・ブライアント中尉はまだ25歳だった。 そんな若さですでに多くの実戦を経験してきたという。 引き金を引く時、躊躇した事はない、とハリーは言った。 「任務に赴く時、私が目指す事はふたつ。命令通り任務を遂行する、その後無事帰還する、ただそれだけだ。狙撃銃を構えた時は確実に目標を射殺する事しか考えない。それが私に求められる事だからだ。――あの日もそうだった」 ああ……この人は――。 「一人は真正面から眉間に、もう一人は左側頭部に、それぞれ一発ずつ。二人とも即死。周囲は大混乱だ。“目標を射殺、撤退”……傍らの観測手が無言の合図をよこす。いつも通りだ。任務終了の安堵以外の感情はない。ただ、いつもと違ったのは……」 この人は、それ以来ずっと一人で――。 「この時私が引いた引き金は、任務終了を告げると同時に、178名の命を奪う悲劇の始まりを告げるものになってしまった、という事だ」 7年間、たった一人で……何を背負っているのか――。 「お前に問う」 ハリーはあらたまってそう言うと、俺に向き直って真正面から見つめた。 「この事件で一番悪いのは誰だ?テロを実行した過激派武装組織か?それを止められなかった空港か?撃墜命令を出した大統領か?それを実行した空軍のパイロットか?きっかけとなった組織の幹部を直接撃ち殺した私か?その命令を下した軍上層部か?」 ハリーの目は優しくて、あくまで穏やかだ。そして纏う空気はどこまでも透明だ。彼が澄んでいればいるほど、俺は胸が痛くなる。 「少なくても、あんたが悪いんじゃないよな……」 だから、一番伝えたい事を真っ先に口にした。 「あんたは軍人で、特殊部隊の一員で、与えられた命令に従ったまでだ」 俺が淀みない声でそう告げると、ハリーは小さく笑って俯いた。 風が彼の長い髪を揺らして首筋を露わにする。細い首筋はこの男を妙に儚く見せた。迷わず引き金を引く冷静沈着な狙撃手とはとても思えない。 「何人もの人に言われた。“君の責任ではない”“君は任務を遂行しただけだ”“憎むべき相手は君じゃない”とな。そんな事はわかっている。軍人にとって命令は絶対だ。同じ意味で空軍のパイロットにも責任はない」 「わかっているんなら……」 「だがな、178名の命が奪われた事は事実だ。178だ……。この数字をどう思う?この人たちは皆、誰かにとってのかけがえのない人なんだ。たとえばレディ・ジョーが、もしくは私が、この機に乗っていたとしたら、お前はどう思う?」 言われて、想像して、背筋が凍る思いをした。 「憎むべき相手はテロリストだろ?核を使って大量虐殺を企てた中東の武力組織じゃねえのか!?」 自然と荒くなる語気で俺がついまくし立てると、ハリーは目を細めて笑った。喉から這い上がって来るような、重たくて静かな笑い声……。 彼は海の方に顔を向け、それきり暫く黙った。 太陽は、今や赤々と大気を染め上げ、水平線に吸い込まれようとしている。海と空が燃えているみたいだ。 綺麗だな、とハリーが言った。こんな凄い夕日は初めて見た、と俺が言うと彼は楽しそうに微笑んだ。 「サンマチューの水平線が一番よく見渡せるのはこの場所だ。もう一か所、この公園内のメインになっている場所がある。……来いよ」 ハリーに促され、彼の後について歩いた。 細い遊歩道を歩いて行くと広場に出た。 古びたレンガを円形に敷き詰めた、見た目も小綺麗な憩いの広場。わざわざ古い素材を使って周りの自然に溶け込ませ、調和のとれた落ち着きある景観だ。 アンティークなデザインのベンチがいくつかと、その傍らの灰皿。そして数基の石碑が海を背に建っていた。 慰霊碑なのだ――。 侵し難い神聖な何かを感じて、一瞬足が止まった。 ふと石碑の前に立つハリーに目をやると、彼はポケットから煙草を取り出し咥えたところだった。その様子に思わず苦笑する。どんな場所であろうともヤニへの欲求には勝てないらしい。いや、もしかしたらハリーにとってここは神聖な一画というより、一息つくほどの身近な場所なのかもしれない。そんな彼にどこかほっとして石碑に近寄った。 手前の傾斜がついた石板には、フランス語と英語の2ヶ国語で事件の経緯が彫られていた。 流すように、彫られた文字に目を走らせる。先程ハリーから聞いた話だ。だが、同じではなかった。 「撃墜されたって書いてないよ……?」 俺の訴えにハリーはひとつ頷いて言った。 「……公式の発表と違う部分は、お前の胸だけにしまっておいて欲しい」 たとえそれが、多くのアメリカ国民を救う事だったとしても、中東との全面戦争を回避する術だったとしても、どんなに苦渋の決断だったとしても……。 アメリカが誤爆でなく、わかっていながら民間機を撃墜したという公に出来ない事実は、いつか語られる時が来るのだろうか――。 ハリーの前に建つ石碑と向き合った。横長の、白い大理石で出来た石の壁。びっしりと人々の名前が彫られてある。台座も大きな白い大理石で、天使のレリーフに縁取られ、聖書の祈りの言葉が刻まれていた。祈りの言葉を囲むように花束がいくつか添えられている。しおれかかってはいるが、おそらく今日の午前中に置かれたものだろう。 『手ぶらで来たな』と、ハリーが呟いた言葉を思い出した。 彼は、ここに花を手向けたかったのだ……。 「犠牲になった179名の名前だ」 そのハリーの言葉に、違和感を覚えて振り返った。 「178名じゃなかった?」 「どうやら手違いで一人多く彫られたらしいな」 ハリーが小さく笑い、疑問を感じながら俺もつられた。 「……この中に、死にたいと思っていた者は一人も居なかったはずだ。明日も今日の続きを生きるはずだったろう。なぜ死んだか、なぜ帰れなかったか、最後の最後までこの人たちは、疑問すら持つ事もなく、一瞬でこの世から消えたんだ。誰一人、遺体すら引き揚げてももらえなかった……。実際、遺体の回収は不可能だったろうな。燃料がたっぷり残っている機体にミサイルを撃ち込まれたんだ。相当な爆発だったろう。まして大西洋の真ん中の海底奥深く沈んだんだ……」 唇の煙草を指で挟むと、ハリーは腕を伸ばし、刻まれた名前を手のひらで撫でていった。 犠牲者の名前は国籍別に分けて記されていた。 一番人数の多いフランスから始まり、アメリカ、ドイツ、イタリア、スイス、カナダ、イギリス……。国籍は意外に多岐に渡っていた。苗字から始まり、名前へと続く。アルファベット順に刻まれたそれらを、ハリーの指は丁寧に辿っていく。 アメリカの列に移った指は“B”の箇所で止まった。 “BRYANT”の姓が二つあるのを見つけ、俺は目を見張る……。 上下二つの同じ姓。だが、なぜか下は姓しか彫られていなかった。上の方の名をハリーの指先がなぞった。アメリカ国籍の列なのに、なぜか名はフランス人名だ。“BRYANT−ISABEAU” 「イザボー……?」 口の中で、俺は小さくその名を呟く――。 次の瞬間、ハッとしてハリーを振り返った。 まさか――。 石碑と向き合うハリーの横顔は酷く静かで、その目はひたすら優しかった。 指の間に挟まれた煙草は存在を忘れられ、燃え尽きてしまっている事にもこの人は気が付いていない。 風が吹いて髪を揺らすと、その名に目を向けたまま、彼は言った。 「――私の妻だ……」