イザボーは変わった女だった――と、ハリーは石碑を見つめたままそっと笑った。 「パリの大学で、私の母は植物と昆虫の研究をしているんだが、イザボーは母の助手だった。いつ母に会いに行っても傍にはイザボーが居たんだが、彼女の第一印象は『美人』、第二印象は美人である事を帳消しにするほど『ヘンな女』だった。尤も、あの母の助手を務めるぐらいだからその時点ですでに変わり者なんだ。人間には興味はないらしく、何度会っても、いつも私の事を覚えてなかったな」 大切な人を亡くした男が、その思い出を優しげに語る。 7年という年月……。それは戦うには長く、癒すには短すぎる時の流れ。その年月を、彼はどう乗り越えてきたのだろう。 「……イザボーって綺麗な名前だよな」 「悪女として悪名高いフランス王妃の名だ。いいイメージは持たれない。だが彼女は自分の名に誇りを持っていた。私が名前を褒めた時、やっと私を他とは違う存在として認識してくれたんだ。それでも苦労はした。初めて愛を告げた時、イザボーは私の言葉よりアジサイの葉に居たかたつむりの動きに気を取られていたんだからな」 ハリーは俺の方を振り返って苦笑した。 ハリーがかつて結婚していた事には正直、驚いた。だが、嫉妬は感じない。それよりもこの人が過去に誰かを愛し、誰かに愛されていたんだという事が嬉しかった。 どんなにクールに見えてもハリーが優しいのは、愛を知っているからこそなのだ。 「イザボーは孤児だったんだ。親に捨てられた過去を持つ彼女は、神も天国も信じなかった。だから結婚式は教会ではやらなかったんだ。見た事もない神に誓うよりあなたに誓うと言われた。指輪すら交換しなかった。普段着のままで、お互いに誓いをたてて、キスをして、婚姻届を出しに行った。……それだけの結婚式だ」 愛し合っていた夫婦なのだ……。 どんなに幸せだったか、愛があったか、こうして過去を語ってくれるハリーの顔を見ればわかる。だが、幸せが、愛が、深い分だけ失くした時の痛みも深い。 ハリーは再び石碑に手を伸ばす。もうひとつの“BRYANT”を指でなぞった。下の名がない、苗字だけ刻まれた方の……。 「179人目の犠牲者だ……。その時イザボーの腹に居た子供だ……」 その告白に、俺は思わず目を閉じた! 神よ――! 「妊娠7カ月……。まだ名前は決めてはなかったが男の子だった。本来、胎児まではこうして名を刻まないはずだから、これは本当に手違いで彫られたんだ。まだ生まれていないと、業者が気付いた時は直しようがなかったらしい」 ハリーの子供……。子供が居たのだ! 「妊娠を告げられた時……嬉しかった……」 ハリーは呟くと、再び口を閉ざした。 一瞬、強い風が吹き抜けて周囲の木々がざわざわ鳴った。 「胎児の状態が落ち着く月に入って、イザボーはフランスに戻っていた。年老いた養父母に会うためだ。そしてクリスマス前にワシントンに帰る事になっていた。本来は次の日の便に乗るはずだったんだ。だがその日、携帯電話にメッセージが録音されていた。一日早い便に乗れる事になった、早くあなたに会いたいからそれで帰る、と……。その時私は任務の最中で、メッセージを聞いたのは……すべてが終わった後だった……。それきりだ。……妻は何ひとつ残さなかった。骨も、髪の毛の一本すらも、墓もない。生前から墓を望まなかったからだ。1年3カ月の結婚生活の中で私には何も残して逝かなかった。妻を偲ぶ物がなさすぎて、夢でも見ていたんじゃないかと思うほどあっけなく、すべてが消えた。そうこうしているうちに日々の仕事に忙殺されて、とうとう泣く機会も失ってしまった」 痛みを吐き出せもせず、この人は今も涙を抱え込んだままなのだ。 「泣けよ……」 だからそんな風に俺は言う。 「泣けんよ」 ハリーは困ったように笑った。 そして彼は、ポケットに手を突っ込んで空を仰ぎ見た。太陽はとっくに水平線の彼方に沈み、頭上の赤に紫の雲が混ざりはじめていた。絵の具で描いたような空だ。 「……妻は、どんなに死にたくなかっただろう。どんなに生きて私のもとへ帰りたかっただろう。腹の中でばたばた動く命も抱えていたんだ。どんなに子供を守りたかっただろう。イザボーだけじゃない。828便の乗員乗客、全員がどんなに帰りたかった事か……」 視線を俺に戻し、ハリーはあらためて言った。 「じゃあ、もう一度訊く。……誰が悪かったんだ?」 答えはあるのか?この質問には。 答えられるものなら答えてやりたい。憎しみの方向をこの人に示してやりたい。 だが、テロリストだろう?と言った時、なぜか彼は笑ったのだ。 「あんた、今まで誰も憎まなかったのか?」 俺の問いかけにハリーは喉の奥でくぐもった笑い声を上げた。 「憎んださ。誰と言わずさまざまな人を、いろいろな事を、何よりも自分自身をな。それからの私は酷かったよ。憎しみをすべて引き金に込めたんだ。皮肉な事に狙撃の命中精度は上がった。ハリー・ブライアントは強い人だって?ふざけちゃいけない……!その強いはずの男が一番引き金を引きたい先は、自分のこめかみだったんだからな」 皮肉な笑いを浮かべて、言葉をちぎり捨てるように言うハリー。 「テロを仕掛けた中東の国も、争いの火種を消せなかったアメリカも、憎しみをぶつけるには大きすぎる。そのかわりに私は自分を恨んだ。与えられた任務を遂行しただけの兵士に罪はないとわかっていても、他に憎しみをぶつける相手が居なかったんだ」 こんなハリーを初めて見る――。彼は、自分に対して殺意を抱いていた。同時に、誰かに殺して欲しいとも思っていたのだろう。 それでも俺は、今日までハリーを生かした彼自身の憎悪に感謝した。 「828便が撃墜された後、報復合戦が始まった。危険な任務が続いたが、やり場のない怒りをぶつけたい自分には好都合だった。まったく、私怨を任務に向けるなんて、特殊部隊の隊員として失格だ。だが、当時の上官はまともな人物だったよ。ある日、私は大きな作戦から外された」 「……理由は?」 「『死にたがっている兵士はこのチームにはいらない』だそうだ。私は思い上がってもいたし冷静な判断も欠いていたんだ。ショックだったさ……」 そう言って自嘲したハリーは笑うのをやめ目を伏せた。 「5名の人質を救出する任務だったが、この作戦は失敗に終わったんだ……。敵陣に潜入した特殊部隊の隊員8名を含め、13人全員死亡した。皮肉にも作戦に加われなかった私は生かされたんだ……。冷静さを欠いていたがばかりに、だ……」 「それだってあんたのせいじゃないだろ!自分を責めるのはもうやめてくれ!」 「アクセル、作戦に私が加わったところでみんな救えたかどうかはわからない。もしかしたら成功していたかもしれないし、やはり失敗だったかもしれない。失敗だとしたら、その時は私も生きてはいなかっただろう。――だが、死にそびれた。私も神や運命を信じない。それでも、今こうして生きている事に意味があるように思えてならないんだ」 神や運命にすら自分の生と死をゆだねようとしないハリー……。自分の責任においてそれらを受け入れるのはとても厳しい事だ。 「ハリー、あんたがどう思おうとも、俺はあんたが今こうして生きている事が嬉しいんだ。死にそびれたなんて言わないでくれよ、頼むから……。憎しみがあんたの生きる気力になっているんなら、自分を憎む事で今日まで生きてこれたなら、悲しいけど事だけど俺はそんな生き方を否定出来ねえよ。そうまでしても俺はあんたに生きていて欲しいんだ!」 俺のこの言葉に、ハリーは一瞬大きく目を見開いて酷く驚いた顔をした。 「違う――」 その一言に逆に驚く俺にハリーは微笑みながら言った。 「違う違う……アクセル。そうじゃないんだ」 首を振り、めずらしく手振りを交えて話そうとするハリーを、黙って見守る。 「今の私は憎しみなど持っていない。それを支えに7年間生きてきたわけじゃない」 どういう事だろう……。あんなに自分を憎悪していたんじゃないか? 「確かに妻を失った時は憎悪の塊だったさ。死にたいと思った事も事実だ。でもな、外された作戦のチームが全滅して一人残された時、思ったんだ。生かされてしまった自分がしなければならない事は、“生き続ける事”なんだ。死んだ妻と子の分までというのもある。チームの仲間の分までというのもある。……昼間、私が“死なない”と言った理由がこれでわかったか?」 その言葉の力強さに思わず無言で頷いた。 「私がこの岬に来るのはな、イザボーを偲ぶためじゃない。忘れないためだ。どんなに悲しい事件が起こったか。どんなに世界が狂っていたか。自分は何を考え、どう間違いを犯したか。そして何を自分は選択したか」 俺は、やっと知った――。 「アクセル、覚えておいて欲しい――。憎悪は、さらなる憎悪しか生み出さない。828便を巡る一連の報復合戦は多くの犠牲を出し、結果笑った者は一人も居ない。憎しみの連鎖は決して幸せというものに辿り着かない。このサークルゲームの愚かさがわかったから、だから私は人を憎む気持ちを捨てたんだ」 この人が強い本当の理由――。 「あんた……それを一人で……」 悲しみを乗り越えて憎しみをバネに……ではない。さらにその先――。 憎しみすら捨てて、そこから立ち上がって歩く事はどんなに痛みを伴うか――。 「誰に教わるでもなく……たった一人で……?」 憎しみを糧にする方がよっぽどラクだったろうに……。 「そんなのありかよ……」 目の前のハリーも景色もぶれる。 いつの間にか辺りに闇が忍び寄っていて、街灯が点いていた事に今初めて気が付いた。 「あれだけつらい思いをしたのに……何でそんなに自分に厳しいんだよ……」 「おい、アクセル……?」 ハリーが驚いた顔をしている訳を考える余裕などない。 「そんなつらい目に遭って……なのに厳しい道を自分で選んで……それを抱えて7年もひとりぼっちで歩いてきたのかよ……」 「何で泣いてるんだ、お前」 いつの間にか、俺は泣いていた。 「だって……だって……」 茫然と涙を流していただけだったが、唇がわななきはじめた。 「あんたが泣かねえからっ!だから……だから俺が代わりに泣いてやってんだろうが!」 力いっぱい叫ぶと、それを合図のように喉から嗚咽が漏れた。 「泣くな、馬鹿……」 ハリーの声は優しかった。 「……あんたの前では俺……絶対泣かないって……決めてたのに……!」 涙でつっかえながら訴える。 「お前が泣く事ないだろう……」 そう言うハリーの声は呆れるというより、まるで泣きじゃくる幼児を前にした困惑ぶりだ。 俺はハリーを支えられるだけの大きな人間になりたいんだ。だから、こんな風に泣くわけにはいかない。だが、涙は止まるどころか、不思議なほど後から後から溢れてくる。 ハリーが失ったものの大きさ、流せなかった涙の数、心を血まみれにして這い上がる激痛。“死”に逃げるのをやめ、決意して背負った命はどんなに重いだろう。一人で戦ったハリーのそんな7年間を想い、あまりの切なさに涙が勝手に流れた。 「あんたの奥さんも……あんたの赤ちゃんも……かわいそうだけど……でも、でも!」 俺はガキみたいにしゃくりあげて、言葉にするのも困難なのに、喋る事を止められない。 「あんたはもっと……かわいそうだ!ハリーが……ハリーがかわいそうすぎるよ……!」 「わかったから、もう泣くんじゃない」 「ハリーが……かわいそうだよ!」 「アクセル……」 みっともなく手放しで泣き続ける俺に、ハリーは途方に暮れていた。 「ああ、もう……」 ため息と共に俺の頭に手が伸びてくる。もう片方の腕が肩に回って抱き寄せられる。 俺が抱き締めても、いつも抱き返してくれた事などないハリーが、初めて自分から俺を抱き締めてくれた。 「……優しい奴だな、お前は……」 耳のすぐ横で優しい声が言う。 ハリーの肩も胸もあったかくて、そしていい匂いがした。 俺を胸の中に抱き込んだまま、俺が落ち着くまでハリーはいろいろ話をしてくれた。 事件の後も2年間特殊部隊に居たハリーは、ある日国防情報局から誘いを受ける。命令ではなかった。人的情報部門を強化するため精鋭チームを作ってくれないか、という話だそうだ。高い戦闘能力を持っている事、戦場という現場を知っている事、冷静な判断力と指揮能力がある事、5カ国以上の言語が話せる事などなど、求められる要素をクリアしていたとの事だ。 俺が小さな声ですげぇと言うと、彼はだいぶ買い被られている、と言って笑った。 誘いを承諾した理由は、情報をいち早く知る事の大切さを痛感したからだという。 正確な情報が得られれば、大きな事件を未然に防ぐ事が可能になる。無用な戦闘を回避する事も出来る。自分は戦争を起こさせないための軍人でありたい、と言った。 ハリーの穏やかな声を聞いているうちに、呼吸がようやく落ち着いてきた。 なあ、アクセル……と声をかけられ、頭をゆっくり撫でられる。 どこか明るい声色。何だか彼がとても大切な事を言おうとしているように思えて、俺は空を見上げるハリーの横顔を仰ぎ見た。 本当の意味で戦争がなくなればいい、戦争という言葉も概念すらも消えて、軍人など必要なくなればいい――。身体の芯までどっぷり軍人のはずの男が、そんな事を言う。 甘くて、子供じみた夢物語で、軍の将校にあるまじき考えかもしれない。平和を願いながら、引き金を引く事を躊躇わない自分が言うのは、酷い矛盾かもしれない。だからワシントンでこんな事は決して言わない。自分は矛盾だらけで、迷ってばかりで、間違ってばかりで、弱さも脆さもたくさん抱えている不完全な人間だ。だから自分の言う事がいつも正しいわけではない。でも、願うだけならいいだろう?今だけ甘ったるい戯言を言わせてくれ。 アメリカだけ平和ではだめなんだ。ヨーロッパも東欧も、中東諸国もアジアの国々も、すべての国が平和になればいい――。 夜空を見上げて甘やかな夢を語るハリーの顔は、それが叶わない夢と知りつつも、決して不幸そうには見えなかった。 ハリーは空っぽなどではない。 この人の中には、こんなに愛が詰まっているじゃないか。 彼の視線は俺の頭上を越えて、今は亡き妻すら越えて、大きな世界を見つめている。 かつて人を愛し、愛され、嵐のような憎しみを乗り越えて、そして今平和を願うこの人は、空っぽどころか愛でいっぱいだ。そんな、溢れそうなほどたくさんのものを持って両手が塞がっているはずなのに、俺にこうして“死なない理由”を全身で説いてくれるのだ。 ワシントンに居るハリーを取り巻く人たちを俺は知らない。でも、その人たちも彼を空っぽなどとは思っていないだろう。それを知らないのは彼自身だけだ。 誰にも求められず、欲しいものは何もなく、自分は一人だと思い込んでいる馬鹿なハリー。 そうではない――と、どうすればこの鈍感で頑固な男に教える事が出来るだろう。 強くなりたい、と切実に思う。 本当は俺がハリーを抱いてやりたいのに……。俺の胸の中で傷だらけのこの人を泣かせてやりたいんだ。 突然、人のシャツで鼻を拭くな、と怒られた。 思わず笑ってしまった事がバレないように、俺はますますシャツに顔を押しつけた。