The fire within the snow
(2)




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2、侵蝕

「おはようございます、ジャン」
「おはようございます、フランシス」
門の錠を開けに庭に出ると、ちょうどフランシスがやって来たところだった。
「昨日はそれほど積もらなくて、助かりましたね」
「ええ、本当に」
空を見上げると、昨日とは打って変わって雲ひとつない青空だった。
 フランシスと共に通用口に向かいながら、朝食を作る前に庭に出て、昨日の紙袋を取りに行っておいて良かったと胸を撫で下ろしたい気持ちだった。この人にそれが見つかっていたら、きっと追求されていただろう。
 テーブルに着きながら時計を確認すると、ちょうど八時だった。彼に茶を出して、それに口を付けながら当日のミサの内容を二人で話し合った。クリスマスが近いこともあって、キリスト生誕までの内容を、少しずつ進めていこうか、ということになった。
 ルカは、ミサの終わる正午まで、書斎に隠れていることになっていた。彼がそう簡単にフランシスにばれるようなことはしないと思っていたので、彼のことは忘れて、仕事に没頭することが出来た。
 その内に、ボランティアの手伝いの青年がやって来て、入り口の聖水や、聖餐の準備を手伝ってくれた。九時前になると教徒や参列者がちらほらとやって来たので、フランシスと共に簡単に挨拶をして出迎えた。
 時間になると、まずは聖歌の斉唱からミサは始まった。私がオルガンを弾き、フランシスが指揮し、青年会の者たちがリードして歌ってくれる。それからミサの中心である、聖書の読み解き。最後に、教徒の者に聖餐を授けて、滞りなくミサを終えた。次に子供向けの短い日曜学校を挟み、もう一度二回目のミサを終えてから後片付けを済ませ、フランシスと青年会の面々は、昼食を家族の元でとるために、教会を去って行った。
 彼らを玄関まで見送り、通用口から食堂へ向かうと、そこには既にルカが座っていた。
「よお。お疲れ先生」
「ああ。どうやら今日はちゃんと隠れていられましたね。退屈ではありませんでしたか?」
「退屈だった」
「まあ、あそこの書斎は、キリスト教関連ばかりですから」
「そうじゃなくてさ、ミサが」
私は驚いてルカを見た。
「まさか、参列されていたんですか?」
「そんなわけねーだろ。庭の窓から見てたんだよ。可愛い子でもいるかと思ったら、ジジババばっかりじゃねーか」
これには苦笑せざるを得なかった。
「まあ、若い方はお忙しいですから」
「あと、もうひとりの『先生』も見たぜ。確かに、真面目そうなツラしてたな」
「そうですか。本当に気を付けて下さいね。彼に見つかったら、私ひとりの手には負えないかもしれません」
「ハイハイ」
「では、ルカ?」
「ああ?」
「聖堂の掃除に行きましょうか」
私の言葉に、ルカの表情がひくりと動いた。
「――オレが?」
「そうです。居候するのですから、それくらいはして頂かないと」
 初めは抵抗していたルカだったが、私が詰め寄ると大人しく聖堂の掃除を始めた。私も庭を掃きながら時折中の様子を覗いてみたが、ルカは掃除のことなど忘れて、懸命に銃を探しているようだった。私が聖堂に銃を隠したのではないかと思い、わりあい素直に掃除を引き受けたのだろう、と納得がいった。
 掃除がおろそかだったので、こんこんと窓を叩いて睨んでやると、ルカは汚い言葉を口の形だけで吐いて見せ、大人しく箒を使い始めた。
 彼の掃除が始まり三十分ほどしてから、聖堂に彼を呼びに行くと、ルカは最前列の椅子に腰掛けて、ぼーっと祭壇の上の十字架のイエスを眺めていた。
「手が止まってますよ」
私が指摘すると、ルカは舌打ちをしてみせた。
「ルカ」
「あんな気味の悪い像があっちゃ、掃除なんていくらしても意味ねえよ」
「何故?」
言うのも面倒だというように眉をしかめて、ルカは言った。
「善いことした結果が、あれだってことだろ」
「そうではありません。あの受難を越えられ、我々の罪を自らあがなって下さったキリストは、その後復活されたのですよ」
「あーあー、馬鹿馬鹿しい。死んだ人間が生き返る? あんたそんなこと本気で信じてんのか?」
自らの洗礼名を思い、私は一瞬返事に詰まってしまった。
「――きっと」
「きっとだあ?」
ルカは馬鹿にしたように笑って私を見た。私はそのルカの嘲笑を受け止めて、代わりに言った。
「ええ。食事にしましょう。ルカ」

 追っ手を恐れているらしいルカは、教会の外に出たがらなかった。かといって、私がひとりで外出することも彼は許さず、買い出しにいけないのは困りものだった。翌日の午前中にでも事務の者に電話して、買い物を頼むことにし、それについては潔く諦めた。
 食器を洗い終えてから、ひとりで書斎に向かい文献の整理をしていると、ノックもせずにルカが入ってきた。
「何ですか」
「いや。退屈なんだよ。テレビもねえじゃん、ここ」
「ええ。でも新聞ならありますよ」
机の端に畳んであったそれを手渡すと、ルカは窓際の床に座り込んでしばらく紙面を眺めていたが、すぐに飽きてしまったらしく、新聞を床にほっぽり出してしまった。
「なあ」
再び作業をしている手を止められ、思わずため息を吐いてしまった。仕方なく、手にしていた本を机に置いて応えた。
「何ですか」
「あんたずっとここでひとりで暮らしてんのか」
「いえ。二年前までは、フランシスもここで寝起きしていましたよ。家庭を持って彼が出て行ってからはずっとそうですが」
「ふーん」
ルカは思案げに、そう息をついた。
「寂しくねぇの」
存外に子供っぽい彼の言葉に、思わず笑みが浮かんでいた。そんな私をルカは不思議そうに見つめていた。
「いえ、落ち着いてひとり、安全な場所で思索する時間というのは、大切ですよ」
それに、と言葉には出さずに私は思った。
 幼い頃から教会に通い、牧師を志していたフランシスと私とでは、一緒に生活して行くには気まずいことも多々あった。私は"リベラル"だと、いつも遠回しに非難されている気がしていた。だから、その頃に比べれば、気楽な生活とも言えたのだ。
「――なあ。暇だし、オルガン弾いてくれよ」
 ルカの急な申し出に、私は呆けた顔をしていたに違いない。そんな私を促すように、彼は更に言葉を続けた。
「説教も、歌詞の意味も分かんねえけど、あんたのオルガンなら、また聴いてやってもいい」
――全く、どういうつもりで言っているのだか。
そう思ったが、思わず私は笑みを浮かべて答えていた。
「ええ。では是非、弾かせていただきましょうか」

 簡単な曲を二、三披露したところで、ルカはただ聴いているのにも飽きたと見えて、自分に教えろと言い出した。あまり私の言うことを聴かず見よう見まねでとにかく弾こうとするので、酷い不協和音を響かせられて、思わず耳を塞がなければならないほどだった。
「おい、ちゃんと教えろよ」
「だから、さっきから言ってるでしょう。最初は指の運び方を覚えるために、ゆっくり確認して――、あっ、ほらまた」
言っているそばから必要のないキーまで一緒に押し下げて、ひどい音がぐわんぐわんと響いた。このままではステンドグラスが割れてしまいそうだったし、祭壇の上のキリストの表情も、いつもよりいっそう深い苦痛を湛えているように感じられた。
「そのキーが余計なんですよ」
「だから、どのキーだよ!」
 ルカは全くもって教えにくい「生徒」だった。その癖集中力は人並みはずれていて、いつの間にか差し込む陽の光は夕陽の色をしていた。

「つ、疲れた……」
夕食もやっと済ませ、後片付けをしながら、そんな愚痴が思わず口をついて出た。それを耳にしてか知らずか、ルカは満足げに言った。
「オルガンってのもいいもんだな。オレ、才能あると思わねえ?」
ルカの言葉に一応共感を示してやりつつも、まさか明日も教えを乞われるんじゃないかと私は内心ひやひやしていた。
「ああ、そうだ。明日の午前中には、今日も来た牧師が、午後からは事務の方もふたりいらっしゃいますから、どこかに隠れていて下さいね」
そのことを思い出して胸をなで下ろしながら伝えると、ルカは少し拗ねた様子で頷いただけで、それっきり黙ってしまった。

 すっかり精神的に疲れ切り早く寝付いてしまったのだが、夜中になって、不意に気配を感じて目が覚めてしまった。
「ん――」
ベッドの中に入り込んできていたルカに、いつの間にか組み伏せられていた。そのことに気づいて驚き、一気に眠気が覚めた。
「ルカ? 一体何を」
「何? 何って――」
笑いを含んだ声で、すぐ間近でルカが囁いた。部屋の中は暗く、彼の表情ははっきりとは分からなかった。その手が、私の身体のラインを辿っていた。
「ルカ! 銃ならここにはありませんよ」
「銃、銃ね」
ルカの手が次第に下へと下りていった。へその下からゆっくりと、私の中心を探るとそれを確かめるように握った。
「あ……」
「怖いかい」
「やめて下さい、ルカ。なぜこんなことを」
「あんたひとりだけ、こんな所に閉じ込められて、可哀想だよ。ジャン先生」
「ルカ……」
「ここに置いといてもらう代わりに、オレが慰めてやる」
「私は、寂しくなどありません」
「じゃあ、オレが寂しいのかもな。慰めてくれるかい」
「こんな方法では……」
ルカの言葉に流されそうになっていることに、そのときやっと気が付いた。ルカは身体をつなげて、私を懐柔しようとしているのだ。そう気づくと、肉体のほてりが静まっていった。
 こんなことで動揺していては、彼の手をとったことを、きっといつか後悔することになってしまうと、思った。
「ルカ。こんなことをしても、貴方の慰めにはなりません。大体、あなたは……」
「ああ、そうさ。男でチンピラで最低の屑だ。そう、その通りだよ先生。ガキの頃から一緒だった相棒も、ひとりで足洗っちまった。兄弟家族は遠い北の国で、今更帰れない。会ったってどうしようもねえ。オレはさ、可哀想な奴なんだよ、先生」
――付け込まれる。
気を許してはいけない。そう思っても、彼の使う声音が私の心を揺さぶった。それらすら、きっとこの頭の切れる男の計算づくに違いなかったのに。
「神が、見ておられます。こんな……」
シーっと息を吐いて、ルカはゆっくり、そっと唇を触れ合わせてきた。私は瞼を強く閉じて、それが過ぎるのを待った。その唇を滑らせて、ルカは私の耳元へ囁いた。
「なあ。オレは悪魔なんだよ。なのに、あんたはなんでそんなオレを置いてるんだい」
その言葉に、ぞっと手足の先から血の気が引いた。恐ろしいと、そのとき初めてルカに対してそう思った。
 一体どこからどこまでが本心で、どこからが計算されたものなのか。そのことに注意していなければならないのに、その線を彼の言葉が歪めていくようだった。
「こんな悪党を置いといて、何が望みだ」
「――貴方の、助けをするためです。ルカ。こんなことのためではない」
「本当に? アンタも本当は寂しくて、オレを置いてくれたんじゃないのか?」
「違います」
「アンタ、聖職者って感じじゃねえんだよな。何でだろう?」
ルカの舌が、私の頬をぺろりと舐めた。
――引きずり出される。
「ルカ、やめて下さい。お願いですから……」
「かわいい先生だな。こんなに震えちゃって」
ルカの声は楽しげだった。まるで獲物を弄ぶ捕食者のように。
「昨日、出会ったばかりなのですよ」
「だから?」
「男同士でこんな……」
「じゃあ、オレが女だったら抱いてくれたか?」
「そういう問題ではありません」
「牧師は結婚出来るんだろ? だったらセックスしたっていーんじゃねぇの」
「快楽の為のセックスを、積極的に認めている訳ではないのですよ」
私の答えに、ルカは鼻白んだようだった。身体を私の上から退かせ、ベッドの上から足をおろして座った。私はベッドから下りることも出来ず、そのルカの背を眺めていた。
「懐疑のトマス……そんな風にも言うんだろ、確か」
不意をついた話題に、私は完全に無防備になっていた。身体を起こし、早まる胸を押さえつけて、向こうを向いているルカの後ろ姿を見た。
「知っているのですか」
「オレの家族は宗教バカだったんでね。有り難く幼児洗礼まで経験済みさ」
「ルカ……」
「教会なんざ、死んでも二度と入るつもりもなかったのによ。無我夢中で走って、ぶっ倒れたのがこの場所さ。笑えるだろ」
「いえ。それもきっと、神の……」
「そう思うかい?」
ルカは肩越しに私を見つめた。
「あんたも、疑っているくせに」
ルカの確信した言い様に、言葉が、出てこなかった。
「あんたも本当は、こっちの人間なんだろ」
再び伸ばされたルカの手が、するりと私の頬を下りていった。その手がそのまま、汗ばんだ胸元へ下りていく。

 咄嗟に、私はその手を掴み、ひねり上げていた。

「いてててて!」
ルカの叫ぶ声にようやっと我に返り、慌てて手を離した。ルカはベッドから後退り、驚いた表情を浮かべてこちらを見ていた。
――やってしまった。
 自分の行いに打ちのめされて、私は顔を覆ってうなだれるしかなかった。あの日誓ったことは偽りなどではなかったはずだ。この男が、あの日死んだはずの私を挑発するのだ。
「あんた……」
「……出て行きなさいルカ。これ以上不浄な行いを続ける気なら、今すぐ!」
ルカは一瞬呆気にとられていたようだったが、不意に肩を揺らして笑い始めた。
「アッハハハ! 本性出しやがったな、先生!」
ただ黙って睨みつける私にまるで怯まず、ルカは可笑しそうに続けた。
「今日のところは退散するよ。でも、オレ、本気であんたに惚れそうだ」
かっとなってベッドから下り、ルカを部屋の外に締め出した。
「先生――」
「出て行きなさい! 今すぐ」
 扉を押さえたままでいると、やがて廊下を遠ざかっていく足音が、笑い声と共に聞こえた。
 私は、そのままベッドに戻る気力もなくして、そこに座り込んでしまった。
 向かいの窓からは、ぼんやりと優しい三日月が、ちょうど暗い部屋の中に淡い光を投げ込んでいた。
 私は胸元のクロスを握り締め、目を閉じた。
――主よ。これはあなたの試みなのですか。
 二度と他人に暴力を働かないと、誓った。
 恵まれぬ者を救う立場になるのだと。
 救いを乞うてばかりだった自分を脱ぎ捨てて――。
 救うどころか、知らないうちに彼を誘惑してしまった。一度手を差し伸べた相手を追い出すような、自分の情の浅さに苛まれた。

 トマスとは、皮肉な名前を付けてくれたものだと今でも思う。私にその名を与えてくれた人は、きっと私の本性を見抜き、戒めの意味もかねて、あえてこの名を選んだのだろう。
 キリストの弟子、十二使徒のひとりだった彼は、復活したキリストの噂を耳にしてもすぐにはその奇跡を信じなかった。だから『懐疑のトマス』とあだ名されている。
 私はこの名が好きではない。この名こそが相応しい自分が、もどかしい。
 キリストの復活を信じるための道を、まだ私は歩んでいる途中なのだ。だからまだ未熟で、こうして彼の助けにもなれなかった。誓いひとつ守ることが出来なかった。
 やっと起き上がり、ベッドサイドの聖書を開いた。けれど、そこにある聖なる言葉は上滑りしていくばかりで、いつまでも、ルカのささやく声が耳にこだましていた。






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