The fire within the snow
(4)
4、罪科
交わす言葉も見つからないままシャワーを浴び、汚れた床を掃除してから、夕食の後片付けをはじめた。私と交代にルカがシャワールームへ入って行ったが、食器を洗う手が、ついつい止まってしまった。
まだ身体の芯が熱を持ったままだった。それが過ぎ去るのを待つしかなかった。この手もこの口も汚れたことを、誰に騙せても決して神には隠せない。
深く沈む思いから私を呼び起こしたのは、通用口のベルの音だった。咄嗟に身構え、まだシャワールームにいるルカをどうしようかと逡巡したが、ベルを鳴らした人物はしびれを切らし、直接戸を強く叩き始めた。私は自分の身だしなみを一度確認してから、落ち着くよう自らに言い聞かせてその戸を開いた。
そこに立っていた男の顔に、私は思わず言葉を失った。その男の存在が、熱くなった私の身体を急速に凍らせていった。
「久しぶりだなジャン牧師。いや、はじめましてと言った方がいいかな?」
「ポール」
それは、かつての私の同僚だった。
フランスの裏社会を牛耳るマフィアのボス、ゾーイのボディガードのひとり。彼は表情ひとつ浮かべずに私の横っ腹に銃口を突きつけると、そのまま私を部屋の奥の壁際まで押しやった。
硬い銃身がわき腹に食い込む感覚に、わき腹を汗が流れ落ちた。
「何の用だ。片は五年前にきっちりつけたはずだ」
「そうさ。そのはずだった。だが、運命ってのはよく分からんものだな、ジャン。お前がルカを匿うとは」
「――何の話だ」
「とぼけても無駄だ。お前が売人のひとりに預けた銃は、確かにうちでさばいてるやつを、あの坊やが持っていったもんだ」
「だとしても、なぜこんなに早く……」
「あいつが何したか知らないのか? 旦那はルカにご立腹さ。旦那を裏切って、しかも追手から逃れるために、旦那の右腕のひとりに大怪我を負わせた。もっとも、あいつの方も全くの無傷じゃなかっただろうが」
「ルカは何なんだ。ファミリーじゃないだろう」
ポールははっと笑った。
「あんなチンピラ迎え入れるほど、旦那も腐っちゃいない。あいつはただの売人さ。それでも旦那は目にかけて、よく仕事を回してやってた。それを裏切ったんだ」
ギリっ、と、ポールが押し付けてくる銃口がいっそう強く食い込んできた。
「――あんたまで手にかけたくはない。ルカを連れて来い」
やろうと思えば、ポール相手に立ち回ることも出来た。いっそそうしたいとすら思ったが、それでも脳裏にちらつく誓いがそれを許さなかった。
「……分かった。ポール。言うとおりにしよう。放してくれ」
観念してそういうと、ポールは私を突き飛ばすようにして解放した。
「言っておくが。もうひとつの出入り口は、相棒が見張ってる。『ジャン』がな」
「ジャン?」
「お前の身代わりだ。お前が抜けたことをばれないように、色々工作してある。旦那の恩は忘れるなよ」
私はポールの言葉を聞き流しながら、どうやってルカを逃がすべきかを必死に考えていた。ゆっくりとバスルームへ歩きながら、逃走経路をシミュレートした。
ルカが持っている銃がどこの組織で扱われているものなのかを探りだすために、教会への帰り道、マフィアに使われている売人が集まるバーへ行った。そしてその銃の経歴を調べてもらうために、紙幣と共にそれをひとりの売人に委ねた。もちろん口外法度でと約束させたのだが、まさかそこからこんなに早く、ゾーイの元に情報が伝わるとは思っていなかった。
ゾーイから、ルカが逃げ切る術などあるのだろうか。とても思いつかなかった。それこそ、国外へ飛ぶしかないだろう。ゾーイの力が及ばない場所まで。パスポートもなしで、その身ひとつで。
――結局、何も出来ないのか。
かつての自分が頭をもたげる。
聖職者など。
神など。
救いなど。
けれど――。
「ルカ」
ルカはバスルームでもう服を着ていた。私の声に振り向いた顔が、笑った。
「どうしたジャン。物足りなかったか?」
「――ルカ。私を人質にしなさい」
私の言葉に、ルカは目を見開いた。
「ゾーイの手のものに囲まれています。私を人質にとって、逃げなさい」
「……あんた、オレを売ったのか? だから、オレに抱かせたのか?」
「違います! そうじゃない!」
思わず大声を上げていた。
「あなたの持っていた銃から、あなたの素性を調べようとしました。ですが、その銃の情報が漏れて、ゾーイに伝わってしまったんです。まさか、こんなに早く……」
ルカの服の胸元を掴んで私は項垂れるしかなかった。自分の力を非力さを呪いたかった。ゾーイは容赦をしない。ルカは――捕まればどうなるか分からなかった。
「ルカ。逃げなさい、食堂にナイフが……」
ルカの手をとって歩き出そうとしたのだけれど、ルカは動こうとしなかった。逆に、その腕を引っ張られ、ルカの胸の中に抱かれていた。
強引に口付けられたかと思うと、彼はすぐに身体を離した。
「先生。アンタはほんとに最高だ。楽しかったぜ」
「――ルカ!」
ルカはひとり走り出し、すぐに見えなくなってしまった。彼を追って聖堂へ続く扉を開いたところで、外から銃声が数発響いてきた。
その銃声が、まるで自分の心臓を貫いたもののように思えた。一瞬、息が出来なくなり、呼吸も止まったように思えた。すぐに正気を取り戻し、聖堂の扉を開いた。聖堂から庭に続く窓ガラスが割られていた。ルカはそこから逃げようとしたのだろう。
門へと続く道の上に、黒いコートの男に抱えられた、ルカの姿が見えた。
「待てッ!」
もうひとり居た男がこちらを振り向き、私を睨んだ。
「諦めろ。それとも、やっと手に入れた聖職者としての道すら捨てる気か」
あの男から銃を奪い、二人の男を撃てばルカを助けることが出来た。しかし、それをやれ、という声は、遠ざかっていってしまった。
わずかなその静止のうちに、二人の男は門の向こうに消え、やがて車のエンジン音が遠ざかっていった。
――誓った、んだ。
自分に言い聞かせるようにして、心の中でつぶやいた。けれど、自分の無力さに涙がこぼれた。
人を傷つけるくらいならば、自らが痛みに耐えようと、あのとき強くそう思ったはずだった。
けれど。
歯を食いしばり、私は地面に手をついて、身体の内側から湧き上がる憎悪と怒りを抑え込んだ。ただ、こらえきれない涙が地面に染みを作っていった。
ルカ――ルカ。
――神よ、あなたはそこにいらっしゃるのに、ルカを見捨てられるのですか。
――いや、違う。まだ、見捨てていない。
教会の中へ戻り、何度か電話をかけたものの、番号が変わってしまっているらしく、望む相手と通話することは出来なかった。そちらへ掛けることは諦め、今度はフランシスの家の番号へかけた。
奥方が先に出て、すぐにフランシスへ取り次いでくれた。
「ジャン、こんな夜中にどうされましたか」
「すみません、フランシス。今は詳しく話している時間はないのですが、急用で、明日は休ませて欲しいのです」
フランシスは少し間を空けてから、ふう、とため息をついてみせた。
「フランシス、本当にすみません。迷惑をかけて……」
「あなたにとって、私は単なる同僚のひとりですか、ジャン」
私は、フランシスの言葉の意味が分からず、首をひねった。
「どういう……」
「少なくとも、数年間その教会で共に寝起きをしたのですよ。もっとも、あなたは私を避けているようでしたが」
「そんなことは……」
私が返答に窮すと、彼はふと、笑ったような声を発した。
「まあ、私の自業自得ですが。――教会にしばらく居たらしい、居候君のことくらいは、私にも相談して欲しかった」
はっと、私は顔を上げた。
「知って、いたんですか」
「なんとなくですがね。何事もなければ見過ごすつもりでしたが」
「私はてっきり、あなたなら彼を追い出すかと思っていました」
「私一人だったならそうしていたかもしれません。ですが、それはあなたがしていたことだ。これでも、尊敬しているのですよ。成人してから心を入れ替え、神の道に入られた、あなたを」
初めて聞いた彼の心の内に、私は引いていった力が再び戻ってくるような気がした。
「――ありがとう、フランシス」
「事務の方には私から伝えておきますから。また何かあったら連絡を」
「ええ、分かりました」
受話器を置いて、ひとつ息を吐いて、私はすぐに外出の支度を整えた。
向かう場所はただひとつ、ゾーイの元だ。
本邸へと向かってみたが、ゾーイは不在だとあっけなく返されてしまった。居場所を教えてくれと言っても、インターホン越しの相手は取り付く島もなく、通話を切ってしまった。
ならばと、ゾーイがやって来るまで粘ることにした。こうしているうちにもルカが傷つけられているのではないかと思い、じれったかったが、他にゾーイの足取りの分かりそうな情報源などなかった。
夜が明け、曇り空の向こうに陽が高く昇った頃。屋敷の玄関から広大な庭を横切って、門のほうへと歩いてくる人影が見えた。彼もまた、かつての顔見知りのひとりだった。
彼は門越しに私に話しかけてきた。
「旦那から言付けだ。もう一時間もしたら、旦那の乗っている車がここにやって来る。話がしたいならそれに乗れ」
「分かった。ありがとう」
「あんたも酔狂だな。旦那に何をされても文句は言えないぞ」
私は頷きだけ返した。
その男が去ってから、曇り空を見上げながら自然と浮かび上がってくるのは、ゾーイのことだった。私の右肺を自らの手で撃った男だ。寒気だけではなく、恐怖が手足の先から忍び寄ってきた。白く上る息を眺めながら、冷静にならなくてはと呼吸を整えた。
やがて、道の向こうからこちらへやって来る、ゾーイのリムジンが見えてきた。そのリムジンが私の前で停まると、後部座席のドアが開かれた。
「どうした。やめておくかジャン」
中からわずかにのぞく「白ふくろう」の姿に、一瞬身震いした。だが覚悟を決めて私はその中へと足を踏み入れた。
中は広く、赤いゆったりとしたシートが中心を囲むように並んでいた。そのひと隅に、五年前別れたときと変わらぬ姿のゾーイが、居た。
バタンと音を立ててドアが閉まり、リムジンはゆっくりと走り出した。
「久しぶりだジャン。やっと忘れたところだというのに、呼び出しとはどういうことかね?」
ゾーイの表情からも声色からもその感情は読み取ることが出来なかったが、それでも私を前にした彼の機嫌が良いはずもなかった。撃たれた傷がうずく気がした。その下にあったタトゥーは白ふくろうのマーク。彼への忠誠の証だったそのタトゥーを、ゾーイは自らの手で撃ち破ったのだ。マフィアを抜けるものがそんなマークを付けているのは許せないと言って。
「――お久しぶりです、ムシュー・ゾーイ。本来なら、顔を見せることすら恐れ多いのですが」
目を細めてゾーイは頷いた。
「そう。恐れは大事にすべきだ。命知らずは大抵その気持ちを忘れて命を落とす」
小さな老人でしかないその姿が、何故こんなにも大きく感じられるのか分からなかった。喉が渇いて仕方がなかったが、私は両手を握って何とか声を発した。
「ルカのことで、どうしても貴方に会わなければならなかったのです」
「そうだろうとも。だが、私はその名を聞きたくない」
「どうしても聞いていただきます。ルカを、許してやって下さい」
ゾーイは太く低い声で私の申し出を笑った。
「いつから私に意見出来るようになった、ジャン」
「私は、今は一介の牧師です。貴方の言葉だけに従い、貴方に命を預けていたあの頃とは、違う」
「貴様は裏切った。ルカもそうだ。お前の命がまだあるのは、お前がかわいかったからだジャン」
「ルカのことも、よく見てやっていたのでしょう? ポールが言っていました」
「ふん……」
ゾーイは慣れた手つきで葉巻を取り出し、それを燻らせた。手に汗を滲ませながら、私はゾーイの言葉を待っていた。
「――お前といい、アクセルといい、何故あれを殺すなという? あれは根っから腐ってる。信義ひとつ理解しはしない」
「命ある限り、人は変わって行けます」
ゾーイは煙を吐き出しながら、それに返した。
「本人にその気があればな。お前に、その気にさせることが出来るか?」
「してみせます。そうするつもりだったのですから」
言いながら、またじわりと冷や汗が滲んだ。その言葉は半分は嘘だった。私はルカの中にある沼に、逆に引きずり込まれかけていたのだから。ゾーイの目が私を見据えていて、その嘘を見抜かれるのではないかと、気が気ではなかった。
「――話はよく分かった。だが奴は裏切り者だ」
「ゾーイ!」
思わず立ち上がりかけると、ゾーイの射すくめるような視線に出会い、そのまま動けなくなった。そのとき、ゾーイの表情が一瞬、笑ったように動いた気がした。
「その目……。やっと昔のお前に出会えた気分だ」
「――え?」
「話は終わりだ。降りろ」
ゾーイの言葉にリムジンが停まり、ドアが開いた。
「ゾーイ。旦那」
「行けジャン。またお前を殺したくなる前にな」
まだ言葉は足りない気がしていたが、ゾーイの機嫌をこれ以上損ねては元も子もなかった。私は言われたとおりに降りるしかなかった。
教会へ戻るとフランシスは出かけていて、事務のふたりが居た。私の様子を心配してくれたが、私にはその好意に応える気力が残っていなかった。
「ジャン先生。聖堂の窓の修理、予約入れておきましたよ」
「ああ、ありがとう……」
「酷い顔色ですよ。今お茶を入れますから」
「ええ……」
――もう、私に出来ることはないのか。
ルカが今にも命を落とそうとしているのではないかという不安、五年ぶりにゾーイに会った恐怖が、ただ座っているしかない私の足元に這い寄ってきていた。それは過去の私の姿を、私の中に形作ろうとしているようだった。
「ジャン、お帰りでしたか」
フランシスがやがて戻ってきて、私と同じ机に着いた。彼は私の様子を見て取ると事務のふたりを先に帰し、改めて私にたずねた。
「どうでしたか。事の首尾は」
「――分かりません。出来ることはしたつもりです。ですが、フランシス」
俯いたまま語りながら、私は声や手が震えるのを抑えられなかった。
「もし、彼が助からなければ、私はきっと、暴力を選ばなかったことを後悔する気がして、ならないのです」
私の言葉の後に、長い沈黙があった。やがてフランシスはゆっくりと、言葉を選びながら説いた。
「ジャン、それは……。貴方の選択は、神も認めて下さいます」
「ですが、彼を救えないのでは……」
私は首を振った。ルカの痣だらけの顔が脳裏にちらついて仕方がなかった。
「しっかりしなさい、ジャン牧師」
鋭く響いたフランシスの声が、私の意識を貫いた。顔を上げ、私は彼と視線を合わせた。
「私は彼の事情を知りません。その辺りを、詳しく教えてくださいませんか」
「……薬や、銃などの売人をしていたそうです。ですが、大元であるマフィアを裏切るようなことをしたらしく、追われて怪我を負い、あの日教会の門の前に倒れていました」
ふーむと、フランシスは思案気に息を漏らした。
「ジャン、彼が助からないとすれば、それも神の御心です」
「――自業自得だと、そう仰るんですか」
「言い方は悪いが、ある意味では、そうかもしれない。ある大きな流れの中にいる者を、たったひとりが助けることは難しい。ましてや、本人がその流れを作り出しているのだとすれば。例えば、貴方が暴力でその流れを一瞬変えることが出来たとして、それでその流れが止まるでしょうか」
「……しかし」
「貴方は愛情深い、ジャン。ですが、それは過ぎれば傲慢ということですよ」
彼の辛らつな言葉に、私は返す言葉もなかった。
「堪えなさい、ジャン」
その言葉が、たったそれだけのことが、そのときの私にはとても厳しいものに思えた。
「貴方が堕ちてしまったら、貴方を頼りにしていた人々はどうするのです」
「貴方は……フランシス。家族の命を危険にさらすと分かっている時にも、聖職者としてあるというのですか」
彼は迷うことなく頷いた。
「私も、家族も、そう望んでいます。もっとも――そう考える私がまだまだ至らないから、ここへ飛ばされてきたのかもしれませんが」
フランシスは照れたように笑った。
「私と貴方、足して割れば丁度かもしれませんね」
彼なりに、私を励ましてくれているのだと、その言葉で私はやっと気が付くことが出来た。少し力が抜けて、私はもう一度俯いて考えた。
「フランシス。私の誓いは、間違っていないのでしょうか」
「少しも。ジャン。私はあなたがその誓いを立てたことを、同じ牧師として誇りに思います」
ぎこちない彼の笑顔とその言葉に、私は励まされた。
その夜、眠りに入る前にクロスを握り祈りながら私は思った。迷いを捨てることは出来ないが、いつかその迷いの解が得られるときのために、それはそのまま抱えてゆこうと。ルカのことも、ルカと居た自分のことも、全て包みこんで。