夜半から未明にかけて降った雨は朝には上がり、真夏の太陽は午前のうちに地表から水分を奪っていった。7月末の太陽は容赦ない。今日も暑くなりそうだった。
  屋敷から車で10分程走った所に、モンティエ家が所有する牧場がある。牛と羊は食肉のためだが、馬は私の趣味の馬術用だ。数こそ少ないが、どの馬も脚が強い。来年ドバイで開催されるエンデュランス(耐久乗馬競技)に出場するため、毎朝この牧場に来て調教をするのが日課になっている。
  牧場と森の境界になっている草地にハリーを伴って来た。背の高い草をかき分け、その場に跪く。枯れ草と羽毛を上手に編み込んだ籠状の巣。数日前、此処を歩いていて足元から急にヒバリが飛び立ったため気付いたものだ。
  中を確認して、指先でちょいちょい、とハリーを呼ぶ。頭上で旋回する親鳥を気にしつつ、ハリーは草の中を覗き込んだ。
「5個もある……!」
   ハリーは興奮を抑えて声をひそめ囁いた。
  白地に褐色の斑点がある小さな卵。そのうちのひとつを摘まみ上げ、ハリーの手のひらに乗せてやる。
「あったかい……」
  手のひらの卵のぬくもりに目を細め、ハリーは潰してしまわないよう慎重に卵を撫でた。
「季節的に今年最後の卵だろうね。――全部、無事に孵るといいな」
  私も声をひそめてそう言うと、ハリーはまた頭上を仰いで巣に卵を返した。あまり長く人間が巣の傍に居ると、親鳥は抱卵を放棄する事がある。彼もそれを知っているのだろう。
「母さん鳥が怒っているよ」
「突っつかれる前に逃げるとするか」
  私の冗談に彼は笑い、私たちはクスクス笑いながら森の中へと向かった。


  うっそうと緑萌える森は別世界だった。太陽の強烈な熱は生い茂る木々の枝に遮られ、雨上がりの湿った空気をたっぷり残している。木の葉から時折雨の雫が落ちてくる。思いきり息を吸うと冷たく澄んだ空気が肺を満たした。頭上で甲高い鳥の鳴き声がこだまする。この森もモンティエ家の私有地だ。他人が足を踏み入れる事は滅多にない。開発の手が入る心配もなく、此処は自然のあるがままの姿が保たれている。
「もう山ぶどうが生っている」
  ハリーが道の脇に歩み寄り、垂れ下がった蔓を手に取った。熟すにはまだ程遠いが、黄緑色の小さな硬い実が房に生っていた。
「秋だったらぶどうだけじゃなく、いろんな自然の実りが見つかるんだけどね」
  キノコ、アケビ、こくわ。此処は人にとっても動物にとっても貴重な食料庫のようだ。昔はほんの子供だったハリーとよくこの森に訪れた。彼は私の行く所へは何処でも付いて来たものだ。そんなハリーが可愛くて堪らなかった。――ただその時は、元気いっぱいの小さな男の子が、こんな美しい少年に成長するとは思わなかった。たしかに幼い頃から綺麗な子供だった。だが、時折見せる表情に妙な艶っぽさがある。
「本当に背が伸びたんだね。もうマリーより高いだろう」
  肩を並べて歩くとハリーの背の高さを感じる。
「もうとっくにお母さんを追い越したんだけど、でもまだステファンには負けているね。俺は先行型じゃなくて最後にスパートかけるタイプなんだって」
「何だか競馬の話みたいだな。誰がそんな事を言ったんだい?」
  そう訊けば、その通りに競馬好きの大学教授、と彼は笑って答えた。
「たしかに前はみんなよりチビだったけど、ここ数年で随分伸びたよ。そのうちステファンも追い越すさ。あなたは逆に年をとって縮んでいくんだ」
  そんな可愛い憎まれ口を叩くハリーの首に腕をまわして、お仕置きとばかりに絞め上げるふりをすると彼は笑いながら悲鳴を上げた。
「……いつまでもこの森が変わらなきゃいいな」
  ふと、ハリーが真顔になってそっと呟いた。
「私が守るよ。だから安心していつでも此処に帰っておいで……」
  ふざけた腕はそのままハリーの肩を組み、我々はゆっくりと並んで歩いた。


  その小屋はいつから建っているのか誰も知らなかった。モンティエ家がこの辺一帯の森を手に入れた時から、小屋は此処に建っていたのだ。何のために建てられたものかもわからない。木こりの家だったと言う人が居る。この森の生態系を調査する学者が住んでいたという説もある。いずれにしてもかなり古い建物だ。実際、人が住んで生活していたというのは間違いないのだろう。小さいながらも此処は、人が住むのに必要なものがあらかた揃っていたのだ。
  今ではこの小屋は私がセカンドハウスとして使っていた。自分の馬の世話をするため、屋敷よりも牧場に近いこの森の小屋に居た方が都合がいいのだ。週末は大体この小屋で寝起きをしていた。小屋といえども石造りの堅牢な建物だったが、自分が使うにあたり随分手は入れた。もっと広かったら週末だけでなく此処に住んでも問題はなかっただろう。
「懐かしいな。何年ぶりだろう」
   家に一歩入るなり、ハリーは感嘆の声を上げた。
「コーヒーでも淹れよう、座ってなさい」
   小さなハリーはこの小屋がお気に入りだった。森を散策し、野鳥を観察し、木の実を採って、そしてよく此処で持参した弁当を食べたものだ。秘密基地みたいだ、とよくハリーは言っていた。あながち、それは的外れでもなかったかもしれない。この小屋に彼以外の人間が来た事はない。だから、此処はハリーと私の秘密の隠れ家でもあったのだ。
   水は井戸水をポンプで汲み上げている。だがガスは引いてない。ヤカンの水を携帯コンロで沸かし、インスタントコーヒーを淹れた。ステンレスのカップに注いでハリーに手渡してやると、彼は嬉しそうに口を付けた。いつの間にかコーヒーをブラックで飲むようになったらしい。
「本当に今夜アメリカに帰ってしまうのかい?」
  それを聞いたのは昨夜だ。夏休み中でありながら授業があって、本当は来られるはずではなかったという。だが、たった一人の曾祖母の葬儀のために無理して時間を作ったらしい。レベルの高い大学は相当がむしゃらに勉強しないと卒業出来ない。今まで毎年夏の休暇で会えていたハリーが、大学生になった途端パリに来なくなったのだ。
「うん、3年が一番忙しいんだ。でも、来春までに論文をやっつけちゃえば、来年の夏休みにまた来て今度こそゆっくり居られるよ」
「その時が待ち遠しいよ。君と大人同士の話をしたいな」
  本当にそう思った。せっかく数年ぶりに再会出来たばかりなのに、今日でまたしばらく会えなくなると思うと離れがたい気持ちが募る。
「うん、俺もだよ」
  妙に大人びた、そして艶っぽい表情で微笑むその顔に、何故だか胸が高鳴る。訳のわからない自分の動揺を押し隠すように、私は話題を変えた。
「君は大学を卒業したらどうするんだい?」
  すると彼の顔から笑みが消え、黙り込んでしまった。
「もう将来の進路、決めているだろう?」
「……ステファンにはわかっちゃうんだね」
  ハリーは俯いて苦笑った。
「まだ内緒。でもきっと、おじいさまとおばあさまより先に教えてあげるから」
「――わかった。あの二人より先に君の秘密を知る事が出来るなんて光栄だな」
「あのさ……」
  そう言って彼はまた沈黙し、顔を上げて真摯な眼差しで言う。
「俺、今日で17歳になったんだ。まだ大人じゃないけど、周りが思っている程子供ではないと思う。自分の将来は自分で決めていいよね?自分の道を信じて進んでいいよね?」
  兄弟が居なく大人に囲まれて育ってきたせいか、ハリーは何処か大人びた子だった。我儘を言う事は滅多にない。その彼が、理由はわからないが、たとえ反対されても自分を貫く決意をしている。
「勿論だよ。ハリー、君はもう大人だ。自分が思った通りに行けばいい。頭のいい君の事だ、自分がそう信じるなら多分それは正しいんだろう」
  私の言葉にハリーは目を輝かせ大きく頷いた。
「俺、ステファンみたいな大人になりたい」
  溢れる程の若さが眩しい。強い光を宿した瞳はまだ恐れを知らない。大人になりかけの若くて美しい男……。幼い頃から私に憧れていたと言うハリー。だが、憧れているのは私の方だ。若さだけではなく、ハリーは私が持ってないものをすべて持っていた。
「あれ何?」
  唐突にハリーが私の背後の壁を指差した。
「その赤いヤツ」
  立ち上がってその飾り棚の上にあるそれを手に取る。傍らに寄って来たハリーの手に小さなそれを乗せた。
「折り紙?……馬?」
  赤い紙で折られた馬。一枚の紙でハサミを使わず折られた精巧なものだ。しっかりした4本の脚と尻尾、尖った耳、たて髪もちゃんと再現され、子供の遊びの枠を超えた紙細工だ。数年前スコットランドに行った時、田舎料理のレストランの店主が、私の馬好きを知ってくれた物だった。
「これはね、ケルト地方に伝わるお守りだそうだ――」
  ケルトに“火の馬” の古い民話がある。自分の故郷の村に敵国が攻めて来る事を事前に知った若者が、遠く離れた村にそれを知らせに行こうとした時、突然全身炎に包まれた馬が現れた。馬に促されて若者がその背に跨ると、馬は夜空を彗星の如く駆け出した。瞬く間に村に着いた若者は、敵が攻め入る前に村人を避難させ、人々を救う事が出来たという。
「――それ以来、遠くに旅立つ人にお守りとして赤い馬の折り紙を持たせてやったり、無事の帰りを願って窓辺にこれを飾るんだそうだ」
「……旅立つ人への想いが込められているんだね……」
  ハリーは真剣な眼差しで手のひらの馬を見つめていた。
「それ、気に入ったなら君にあげるよ」
  私の申し出にハリーは驚いて顔を上げた。
「『――汝、怖れるなかれ。炎の如く熱い意志で千里を駆けよ。火の馬の如く困難を飛び越えて』……だったかな?ケルト地方の民話を集めた本に書かれてあった詩の一節だ。それは、これから社会に旅立つ君が持つにふさわしい」
「ありがとう、ステファン……。凄く嬉しい」
  頬を紅潮させて、ハリーは心から嬉しそうに言う。恐れも穢れもまだ知らないその輝く瞳は、これから何を映すのだろうか。命ある宝石の煌めきに私は眩暈すら起こしそうだ。
「17歳おめでとう、ハリー。誕生日のプレゼントがそんな物でごめんよ」
  私の言葉にハリーは激しくかぶりを振り、抱き付いてきた。
「大事にする……」
  すぐ耳元で、低く呟かれるハリーの――甘い声……。

   どくん――!と、心臓が鳴った。

  私の首にきつくしがみ付くハリーの上体を、おそるおそる抱き返した。こんな風に抱き締めたのは彼がまだ幼い時以来だ。17歳のハリーの身体はスラリとしていて華奢だった。背中に当てた手のひらに、コットンのシャツを通して体温が伝わってくる。鼻先で揺れる髪から何とも言えないいい匂いがした。爽やかで優しい、微かなシプレの匂い。大きく息を吸って胸いっぱいに彼の香りを取り込むと、くらくらして堪らない気持ちになった。
  ハリーがしがみ付いていたのはほんの短い時間で、それは邪気のない、感謝のための抱擁だった事はわかっている。それでも私は、彼の体温を、匂いを、細い身体の感触を知ってしまった。それらは私の心の敏感な部分に触れて、狂おしい何かが胸の奥から湧き上がってくるのを感じる。
  私の肩口から顔を起したハリーの両頬を、手のひらで包み込むと上を向かせた。きょとんとした顔に自分の顔を寄せ、薄く開いた唇を塞いだ。
  上下の唇を、唇で交互に噛み、小さめの口をそっと吸って優しく舐める。初めて触れる憧れのハリーの唇。それはしっとり柔らかくて瑞々しい弾力があった。
  完全に硬直してしまったハリーは、自分の身に起こっている事が信じられなくて、茫然と、私にされるままだった。思考回路が本当に一時麻痺していたのかもしれない。
  唇を離して可愛い顔を見下ろし、自分が濡らしてしまった唇を指先で拭ってやった。微笑みかけてやると、数秒の間の後に彼の脳の回路はようやく繋がったらしい。
   ハリーは大きく目を見開いて私を見つめると、まるで小鹿のような見事なバネで後方に飛び退いた。安全圏まで離れると、子供っぽい仕草で慌てて手の甲で口をごしごし擦り、怯えた目をして外に飛び出した。
   自分も戸口から外に身を乗り出す。暗い室内に慣れた目は、太陽の眩しさに一瞬視力を奪われる。目を細めると、白い光の中を駆けて行くハリーの後ろ姿があった。
   ツィーッ!と鳥が鳴き、枝を揺らして木から飛び立つ。抗議するような甲高い鳴き声が森にこだまする。それはハリーの心を代弁しているようにも聞こえた。
   どうやら、すっかり怖がらせてしまったようだ。驚いて、怯えて、飛んで逃げ出した小鳥のようなハリー。あまりの愛らしさに思わず笑みが零れてしまう。
「ハリー!」
  鳥に負けない声でハリーを呼ぶと白い後ろ姿が振り返った。
「待っているよ!君がまた此処に戻ってくるのを、私は待っている!」
  おそらく、しっかり耳に届いただろう。彼は再び前を向き、何も言わずまた駈け出した。
「待っている、ハリー……」
  光の中に消えて行く後ろ姿を見送りながら、私はそっと呟いた。