ハリー・ブライアントと再会を果たしたのは、それからちょうど1年後の7月だった。
  彼は去年言っていたとおり、春には論文を大体書き上げ単位も消化していた。大学に入ってからの4年間の疎遠を取り戻すかのように、1ヶ月はパリの屋敷で夏を過ごすと聞いて、私は子供のようにそわそわ落ち着かない気分になっていた。
  森の中での小さな秘め事――。抱き締めた華奢な身体の艶めかしさ、鼻腔をくすぐる彼の香り、手のひらに伝わる体温。そして、奪った唇の柔らかな弾力。慌てて逃げ出した光の中の少年の姿……。あの時のほんの一瞬の出来事は、1年経った今も色褪せる事なく、私の五感に刻まれていた。とにかく、ハリーに会いたくて堪らなかった。
  そのハリーが居間で母に抱き締められている。
「ハリー!会いたかったわよ!」
「おばあさま……元気そうでよかった」
  そして父がハリーを抱き寄せたところで、彼が戸口に立つ私に気が付いた。
「おかえり」
  そう微笑んで声をかけると、ハリーははにかんで、ただいまと小さな声で言った。
  少し顔を赤らめているのは、私との口付けを思い出したからだろうか。そうだとしたら、あの時の私の戯れに彼は嫌悪してはいないという事だ。戸惑いや混乱を感じていてもいい。そうやって私を意識してくれたらいい……。
 

  ハリーを迎えたその日の夕食は華やいで、屋敷中が喜びに包まれていた。給仕をする使用人ですら嬉しそうだ。普段厳格な父も可愛い孫の来仏がよほど嬉しいらしく、口元が緩みっぱなしだった。
「少し痩せたんじゃない?ハリー」
  デザートのチョコレートケーキが運ばれてきた頃、母はそう言ってハリーの顔を覗き込む。
「論文と格闘して少しやつれただけ。大丈夫だよ、1ヶ月もこんなフランス料理を食べていたら帰る頃にはきっと太っているよ」
  たしかにハリーは去年と比べるとまた少し痩せていた。もともと手足も首も細いが、さらに頬の肉が落ちていて、そのために大人びて見える。
  抱き締めたらきっと腕が余ってしまうだろう。抱き上げたら羽のように軽いのだろう。そんな風に、見ているだけでなく触って彼を確認してみたい……。
「大学を卒業したらどうするのかね?」
  父の言葉に我に返った。思わずハリーを見ると、彼は少し困ったように目を伏せている。
「論文も書き終えて卒業の目途もたったのだろう?もう目の前の話じゃないか」
  たたみかけるような父の質問に、ハリーは答えづらそうに口を開いた。
「将来の事は……考えています」
「何になるのかね?」
「それは……」
「お前にはフランスに来てこの会社に入って欲しいと思っている」
  再び口ごもったハリーに、父が言った言葉は充分予想の範疇で、ハリーをはじめこの場に居る誰もが驚く事はなかった。それでもハリーは弾かれたように顔を上げた。
「俺は……!」
「あなた……そんな話、何も今なさらなくても」
  母の言葉を制止して、父は内心必死であろうこの勧誘を孫に訴える。
「モンティエ商会は私が引退した後はステファンが社長になるだろう。だが、その後が居ない。この家にはもう後継ぎが居ないのだよ。ハリー、お前は高い学問を受けている。お前は経済が専攻ではないが、国際政治学はこの会社の未来の発展にきっと役に立つだろう」
  モンティエ家の後継ぎ問題は昔から脈々と続く、当主にとっては悩みの種だ。マリーの下には5歳年下のシャルロットという妹が居るが、銀行員との間に出来た子供はやはり女の子で、この家も会社も引き継ぐ者は一族の中には居なかった。当主がこの問題から解放されるには考え方を変えるしかない。すなわち、“家”というものに固執するのをやめ、男子が会社を継ぐという事にこだわらなければ良いのだ。子供がたくさん生まれた昔とは時代が変わったからには、人の考え方も変わらなければならない。
  父の説得にハリーはずっと俯いていたが、やがて顔を真っ直ぐ上げはっきりと言った。
「俺はアメリカを離れる気はありません。この家は大好きだけど、俺は家も会社も継ぐ事は出来ません」
  きっぱり固辞した孫の言葉に父は落胆の色を隠せなかった。
「お前の国籍はアメリカだが、流れる血の半分はフランスのもので、間違いなくモンティエの血を引いているんだぞ」
「俺はおじいさまの孫で、お母さんの息子で生まれて来て幸せだけど、血とか一族とかにこだわるのはくだらないです」
「ハーバードが一体何を教えた?お前はアメリカの大統領にでもなるつもりかね!」
「違います!でも何になるかは自分で決めたい。誰かの言いなりなんてまっぴらだ!」
「ハリー!おじいさまに何て言い方を!」
  母の厳しい声色にハリーはすっかりうなだれてしまった。この二人に逆らう事が、気持ちの優しいハリーにとってどれだけの勇気だったろうか。
「ごめんなさい、おじいさま、おばあさま……。でも俺の気持ちは変わりません……」
  消え入りそうな声でそれでも自分の意志を貫くハリーに、父はまだ何かを言おうとしたが、もう黙って見てはいられなかった。
「父上、もうおやめください」
  初めて口を開いた次期当主の声に一同が目を上げた。
「ハリーはブライアントの人間です。彼がモンティエを背負う義務があると言うなら、同じようにアメリカに居るブライアント家の事を考えなければならない立場なのです。いや、それ以前に彼の人生は彼自身のものだ。ハリーはもう18歳です。自分の道を自分で選ぶ事が許される年齢だ」
  おそらく、そんな事は父自身もとっくに気が付いていたに違いない。それでも何処かで認めたくない気持ちがあっただろう。だが、もう潮時なのだ。
「ステファン、そもそもはお前がいい年をして独り身でふらふらしているからいかんのだ。いい加減身を固めたら誰もこんな事は……」
  当然、こちらにとばっちりが回って来る。父が言う事はもっともで、それに関しては私に分が悪い。だが、これこそどうしようもない事だ。
「父上のおっしゃるとおりです。私が身を固めないのは私の責任です。でも、それこそハリーのせいではありませんよ。お叱りになるならどうぞ私を」
  分が悪いなりに、私は自分の立場に開き直っていた。こんなやり取りは、実はもう慣れている。厳しいばかりだった父がかつての勢いを失くしているのは、会社において私の力が増してきているからかもしれない。自然の流れとして少しずつ世代交代が始まっているのだ。それは母にしても同じ事で、40歳になった跡取り息子を立てているのがわかる。私はいつまでも6歳の“愛人の子”ではないのだ。
「まったく、お前ときたらいつもそう開き直る。男は家庭を持ってこそ一人前なんだという事を肝に銘じておけ」
  これ見よがしに大きくため息をついて悪態を吐く父は、しかし声に力がなかった。やや不機嫌そうにハリーにコーヒーのお代わりを勧めているところをみると、どうやらこの話は打ち切りらしい。
  ふいにハリーと目が合った。私がさりげなく口元を手で覆い、周りにバレないようにそっと笑いかけると、ハリーは少し面食らった顔をしていた。



  夕方から大気が暖かく湿り気を帯びてきたが、夜になるといよいよ空気が重くなり始めた。いつもならまだ太陽が沈まない時間だが、雨雲のせいで冬場の夜のように暗い。テレビの天気予報は、今夜は雷を伴った激しい雨になると伝えていた。   急に牧場の馬たちが心配になった。先月手に入れた若いあし毛は癇が強い馬だ。雷に怯えて暴れるかもしれない。さらにエンデュランスで騎乗する栗毛は昨日咳をしていたのだ。執事のジョゼフに一言告げ、私は家を出た。   牧場で雇っているスタッフはみな通いだ。全員帰宅して誰も居ない厩舎に足を踏み入れると、6頭の馬が一斉にこちらを向く。私は一頭一頭順番に話しかけ、馬体を撫で、台所から持ってきた角砂糖を与えてやった。同時に馬房に異常はないか、横木はしっかりしているか点検した。栗毛の咳は治まっている。薬が効いたようだ。癇の強いあし毛も大人しくしている。   その時、バラバラと雨音が聞こえてきた。ついに来たらしい。だが、雨音は意外に大きく聞こえて、もしやと思い厩舎の奥まで行くと突き当たりの小窓が開いていた。 「やれやれ、来てみて正解だったな」   普段あまり開けない窓だ。たまに開けるとスタッフが締め忘れる事があった。すべり出し窓を閉め、しっかりレバーを引いてロックすると、それだけで厩舎内はかなり静かになった。   明日の朝早くやって来るスタッフに朝一番の指示をメモし、ついでに窓の締め忘れに注意するよう書き加える。そして馬具の手入れをするため、何セットかの手綱と皮革用ワックスを袋に入れ厩舎を出た。   車に乗り込む頃、雨はざあざあと音をたて本格的な降りになった。屋敷へは戻らず、そのまま森の小屋に向かう。牧場に寄った時は、忙しくない限り必ずこの小屋で過ごしていた。誰も訪れず、何の気兼ねもいらない自分だけのプライベートハウスだ。バカンスシーズンに入り明日は出社する事もない。のんびりしようと思っていた。   車が小屋に近付いた時、訪問者などが来ないはずの小屋の前に誰かが居るのが見えた。 「ハリー……?」   小屋の軒下で雨を避け、ハリーがしゃがみ込んでいる。エンジンを止め、車から降りるとハリーは立ち上がって私を迎えた。 「どうしたんだい!うわ、ずぶ濡れじゃないか!」 「歩いている途中で降られちゃったよ」   そう言って呑気に苦笑するハリーの身体に触れると酷く冷え切っている。とにかく中へ、と鍵を開けて冷たい身体を小屋の中に押し込んだ。 「まったく、どれくらい待っていたんだい?私が此処に寄る事、よくわかったね」   洗面所の戸棚を開けてタオルを探す。大判のバスタオルが見当たらない。洗濯するため屋敷に持って行ってしまったのだ。どうにかスポーツタオルを見つけた。 「ジョゼフに訊いたら牧場に行ったって言うから、本当はそっちに行こうと思ってたんだ。でも途中で雨が降ってきたし、厩舎より此処の方が近かったから。どうせ来るだろうって……いいってば、ステファン!自分で拭ける」   ハリーの頭にタオルを乗せてごしごし拭くと、彼は身を捩って逃げ、私からタオルを奪い取った。大人に世話を焼かれる事が、子供扱いされているようで気に入らないらしい。憮然とした顔をして、髪が乱れる事も傷む事もお構いなしに乱暴に頭を拭くハリーは、こうして見るとほんの子供だ。18歳といえば身体はもう大人と同じはずだが、ハリーは何処となく幼い。もともと素直な性格で、無理に背伸びをせず、大人ぶった口のきき方をしないせいかもしれない。 「――ごめん……。ステファンには予定があるのに、追いかけてきて……」   妙にしょんぼりとした声でハリーがそんな間違った事を言う。 「悪かったと思っているのは私の方だよ。最初から君を連れてくればよかったね。そしたらこんなに濡れずに済んだのに。一緒に行こうと声をかけたかったんだけど、ちょうど君が母と話していたものだから。すまない」 「迷惑じゃなかった?」 「迷惑?とんでもない。今、君が此処に居る事が凄く嬉しいよ」   本心でそう思う。ハリーが私を追ってきてくれた。正直に言うと、雨の中で私を待つ彼の姿を見た時、まるで恋人に会えたように胸が高鳴ったのだ。 「さっきは――あの、ありがと……」   ハリーが恥ずかしそうに顔を背けたまま小さな声で言う。しばらく考え、食事中の父とハリーのやり取りを思い出した。 「おじいさまとの話に割って入ってくれて、凄く助かった。でも、ステファンが悪者になっちゃった……」   可愛い事を言う。多分、ハリーは私に礼を言いたくて来たのだ。わざわざ雨の中を歩いて、人の目を気にしなくていいこの秘密の隠れ家まで。思わず笑みが零れた。 「あんな話はもう何百回も繰り返している。いつもの事だよ、気にする事はない。それに、間違っている事は間違っていると言ってあげる人間が必要なんだよ。あの人には」   私がそう言うと、ハリーはようやく安心したように微笑んだ。 ――ああ、その顔だ……。ハリーがこんな風に笑う顔はマリーにそっくりだ……。 だが、ハリーにはマリー以上の艶っぽさがある。男なのに、だ。大人のようで大人ではない。青年の身体に少年の心を持ったハリーには危うい色香がある。 雨音が激しくなった。滝のような雨音に混ざって雷鳴が轟く。いよいよ本格的な雷雨になった。雨に閉じ込められた格好になったが、ハリーが帰ると言い出す事が心配だった私にとってはむしろ好都合に思える。ハリーは執事に告げて家を出たのだから、父母が心配する事はないだろう。 「温かいコーヒーでも淹れよう。その前に服を貸すから着替えなさい。風邪をひく」   ハリーが頷いてタオルを頭から取った時、彼のずぶ濡れの白いシャツが目に飛び込んだ。   一瞬の事だった……。   水をたっぷり含んだ薄いコットンは彼の胸に張り付き、淡い色の乳首をくっきり浮き上がらせていたのだ。濡れて自己主張するような質感。小さいながらその存在は、それだけでこの清楚な少年を性的なものへと変えた。   踵を返しかけていた私は、それに目が釘付けになってしまった。ハリーが私の視線に怪訝そうな顔をする。そして視線を追って、そこで初めて自分の胸に気が付いた。たちまち顔を朱に染めて、私の目から隠そうと上体を捻る。だが肩が、背が、細い二の腕が、濡れたシャツの中で透けている。直接肌を見るよりエロティックな濡れ色の身体……。雨が仕掛けた悪戯はハリーのすべてを淫靡なものにしてしまった。   身体に熱が籠る……。私は間違いなく自分の甥に対して欲情していた。 「――あの時、どうして俺に……」   自分の肩をかき抱いて顔を背けたまま、ハリーがぽつりと言う。 「どうして俺に……キスしたの……?」   一年前の戯れのような口付けに、彼はずっと混乱していたのだ。おそらくずっと訊きたくて、だが怖くて言い出せなくて、疑問ばかりが頭に湧いて……。あの出来事に思い悩んでいたという事は、同時に彼の中に常に私が居たという事だ。それは無上の喜びだった。  耳まで赤くなったハリーに歩み寄って顎を捉え、こちらを向かせた。 「君が大好きだからさ」 「でも、そんな事は変だ。だって……男同士なのに……」 「嫌だったかい?」 「……俺は」 「嫌だったのかい?」 「……」   彼が嫌だと言えないでいる理由を、私は知っている。知っているから止められない。 「君はいけないと思いながら、この1年間忘れられなかったんじゃないのか?この感触を」   唇が触れ合う程の距離で囁く。逃げるチャンスを与えてみる。それでも彼は逃げない。唇を重ねた――。今度は浅くて小さな口付けではない。ハリーの口内に舌を潜り込ませた。彼の舌を捕まえ吸い上げると、腕の中の身体から力が抜けていく。 ――ああ、この子が欲しい……。   閃光が走り、小屋の中が昼間のような光に満ちた。やがて雷鳴が辺りに轟き渡る――。神の怒りに触れただろうか。たとえ頭の上にいかずちを落とされようとも、このビロードのようなハリーの舌を解放する気にはなれない。酔ってしまいそうな甘い吐息をもっと吐かせたくて、抵抗出来ないでいる身体に手を這わせた。   身体の奥から湧き上がってくる凶暴な肉欲に飲み込まれていく。理性で制御出来ない欲望のまま、口付けを深くしながらハリーのジーンズの前を手のひらで擦った。 「嫌だっ!ステファン!」   渾身の力でハリーが身を振りほどく。壁際に飛び退いた彼は羞恥に震えていた。 「――勃起している事を知られたのがそんなに恥ずかしいか?」   静かな声でそう問えば、唇を噛んで悔しそうに見上げてくるハリー。彼は男に舌を吸われ、身体をまさぐられて快感を覚えていたのだ。そしてそんな自分を恥じていた。壁に追い詰められたかわいそうな小鳥……。ハリーの顔の両脇に手を付き、彼を壁に縫い止めた。 「もっと知りたくはないか……?」   君自身まだ知らない、君の中のメスの存在を――と囁けば、青い瞳が怯えて潤む。ハリーは脇をすり抜けて戸口へと駆け出す。ドアノブにかじり付き、ドアを勢いよく開けた。 「また逃げるのかい!?」   ハリーの背中に、大きな雨音に負けない声で言い放つ。その声に、上体を半分外に乗り出したまま彼は足を止めた。 「――いいよ、逃がしてあげよう。君が一歩でも外に出たらゲームオーバーだ。だが、此処に残るなら……」   ドアノブを握り締めて外に身を乗り出し、背を向けたまま動きを止めたハリーが、どんな顔をしているかはわからない。 「――此処に残るなら、今夜君の身体は君のものではない」   閃光が走り、一瞬室内から色彩が奪われた。続いて激しい雷鳴が森全体を震わせる。雨の轟音に混ざって遠くで微かに鳥の悲鳴が聞こえる。   灰色の空に稲妻が幾度も走る中、長い沈黙と葛藤が室内に満ちていた。重く静かな二人の攻防。勝敗の行方は、ハリーの手がドアノブから離れた事で決まった。 ――こうなる事は、何故かわかっていたような気がする。手に入れた高揚感も笑いもない。ただ、飛び立ちそこねたこの美しい鳥を……マリーの息子を、決して逃がすまいと思う。   両腕を力なく下げたハリーの傍らに歩み寄り、開け放たれたままだったドアを閉めた。途端に雨音が小さくなった室内に、鍵をかける金属音が無情にも大きく響く。私はそのまま部屋の中央まで歩いて行き、ロフトにある寝所へと上がる階段の前で立ち止まるとハリーの背中に向かって命じた。 「こっちに来なさい――」