ハリーの体温がまた高くなったような気がする。額に汗が浮き始め、呼吸が少し荒くなってきた。彼の体調はあきらかに悪い方に進み、状況は差し迫っていた。 急いで身体を拭き終え、自分が着ていたレインコートでハリーの身体をしっかり包む。ソファの上に彼が着ていた服がきちんと畳まれて紙袋に入っていた。おそらくロベールが畳んだのだろう。だが、それをハリーに着せている余裕はない。一刻も早く彼を此処から連れ出したかった。コートで包んだハリーを抱き上げ、紙袋を持って部屋を出た。 ――お母さんを、許してくれる……? ハリーはいつから知っていたのだろう。自分が傷付けられる理由を、私がマリーを憎む理由を、そして愛している事を……。今まで彼に一度たりともそんな話をした事はなかったというのに。この数十年間、誰にも悟られる事なく守り通してきたマリーへの想い。何故ハリーだけがその秘密に気付いたのだろう。 階段を下りる途中、男が行く手を阻んだ。この娼館のマネージャーだ。 「モンティエさん。あなたが抱いている子はバルテス氏が連れてきた少年ではないかね?勝手に連れ出されては困る」 店側としては今宵一夜のゲスト男娼がよほど惜しいらしい。今夜だけで幾らの金が店に転がり込むか、すでに算段済みなのだ。おそらく順番待ちの客たちがまだまだ控えている事だろう。だが、そんな事は私とハリーには関係ない。マネージャーの身体を押して進もうとすると、彼は両腕を広げて道を遮った。 「その子を下ろしなさい!警備を呼びますぞ!」 「――呼ぶがいい。その前にお前を殺してやる……どけ!」 吠えるように一喝するとマネージャーは青くなって壁際に飛び退いた。階段を下りきると、モンティエ家は貴族の家柄なのにとか、やはり愛人の子だとか、後ろから負け犬の罵る声が聞こえた。久しぶりに愛人の子と言われ、可笑しくて思わず口元が歪む……。 ハリーをロベールに抱かせた時に自分が言った理由を思い出した。 『私が君をロベールに貸すのは、君が本当に私のものだからこそ出来るんだ』 そんな馬鹿げた理屈をハリーは鵜呑みにしているものだと思っていた。自分がもっと愛されるために、私を喜ばせるために、甘んじて受け入れたと思っていたのだ。――冗談じゃない。自分のおめでたさに笑ってしまう。私は彼を見くびっていた。 ハリーは、信じられない事に身を挺して私の憎悪をすべて身体に取り込もうとしたのだ。母親のために。そして私の愚行に警鐘を鳴らすために……。 1階のホールに下り立つと大勢の客や店の人間たちが居た。私の姿に気付いて、賑わいざわめいていた空気が一変する。たくさんの目がこちらに向けられる。コートに包んだ裸の少年を抱いた様子は、男娼を略奪してきたようにしか見えないだろう。奇異な光景に場がシンと静まり返る。 「道を開けろ……」 私の放つ言葉は小さ過ぎて誰の耳にも届かない。だが、モーゼのために割れる海の如く人々が退いた。 コート越しに感じる身体の熱が、伝えられなかったハリーの悲鳴に思えて、悲しくて堪らなかった。 車を走らせながら公衆電話を探した。キオスクの前に車を停め、そこから目を離さないように屋敷に電話をかける。日頃冷静なジョゼフがあんなにおろおろした姿は見た事がない。どんなに心配しているだろう。 ワンコールで電話に出たジョゼフにハリーが見つかった旨伝えると「よかった」を繰り返し何度も安堵の息を吐いていた。ハリーが発熱している事も伝える。薬と氷と口にしやすい食事の用意を命じた。父と母はまだ帰ってないらしい。 車に戻り発進させようとした時、後部座席から名前を呼ばれた。 「気が付いたか?苦しくないか?急いで帰るからもう少し我慢してくれ」 後ろに身を乗り出してハリーの額と頬を撫でた。熱い……。 「雨が降っている……」 「ああ、そうだな。今夜はずっとこんなしとしと雨だよ。寒くないかい?」 それには答えず、ハリーは窓の水滴を見ていた。 「ステファン……森に行きたい……」 ハリーの呟きに驚いて頬の上で手が止まる。 「森は今度だ。今夜は家に帰るよ」 「嫌だ、森の家に帰りたい……!」 普段聞き分けのいいハリーが何故か必死に訴える。熱い手が私の手首を強く掴んだ。 「――だめだ。君は熱があるんだ。屋敷に帰ってちゃんとしたベッドに寝ないとだめだよ。森には、熱が下がったら連れて行ってあげるから。――わかったね?」 私は正面に向き直りギアを入れる。だがその時、後ろから服を掴まれた。驚いて振り返ると、ハリーがコートから半身を晒し這うように腕を伸ばしていた。 「頑張って熱下げるから!だからお願い、森に帰ろう!ステファン!森に帰りたい!」 こんなハリーを見るのは初めてだった。全身の力を振り絞るような懇願に声を失う……。勝てるわけがない。 森に行きたいと強請るために力を使いきったのだろうか。ハリーはその後、また眠り落ちた。屋敷に寄って用意させていた物を受け取る。薬、氷、ハリーの着替え、食べ物や飲み物。持ち出す予定ではなかったため、着替えをまとめ食物を持ち運び用として取り分けるのに時間を要した。 一人では一度に持ちきれないバッグ類をジョゼフと車まで運んだ。眠っているハリーを起こしてしまわぬよう、そっと車内に積む。コートに半分顔を埋めて眠るハリーをジョゼフが心配そうに覗き込んでいた。 「あまり心配するな。ハリーの事は私が責任を持つ」 「――ステファンさまがそうおっしゃるなら何も心配する事はございません」 熱を出しているとはいえ行方が心配だったハリーの寝顔を見られて、ジョゼフはようやくホッとしたようだ。 「二人が帰ってきたら今夜は森で過ごしているとだけ伝えてくれ」 執事に嘘をつかせるわけにはいかない。居場所だけは知らせておく。ここ数日、私が仕事で多忙なためハリーが退屈していると父母は思っている。何ら異存はないはずだ。ただ、ハリーの発熱の事はわざわざ言う必要はないだろう。心配性の年寄りを騒がせたくない。 「後の事は頼んだ」 「お気を付けて」 ジョゼフに見送られ屋敷を後にした。 この小屋に来るのは何日ぶりだろうか……。中に入ると妙に懐かしい気持ちになった。昔から自分の持ち家同然に寝起きし、何日も来なかった時もあったというのに。懐かしく感じるという事は、そこにいい思い出があるからだ。 思えば、此処でハリーと過ごした短い日々はままごとみたいだった。共に寝て共に起き、食卓を囲み、ブラックコーヒーを一緒に飲む。そして何度も口付けを交わし、何度も愛し合った。――夢のように幸せだった夏の休日。 ロベールと3人で会うようになってからこの小屋には来ていない。それ以降ハリーを抱くのはロベールとの行為が終わった後だけだ。そのため此処には甘い記憶だけが残されていた。 「ハリー、目を覚まして。着いたよ」 ハリーを抱き上げ中に入ってからそう声をかけると、彼は薄っすら目を開けた。 「また……帰ってこれたんだね……」 ハリーはもぞもぞとコートの中から腕を出して首に回してくる。 「――そうだ。私たちは戻ってきたんだ」 ロフトに上がり、ベッドに寝かせる。このまま眠らせてやりたいが、まだすべき事があった。先程は一刻も早く連れて帰りたかったため、あまり丁寧に身体を拭けなかった。ベッドに寝かせたまま今度こそ身体を綺麗に拭いていった。 男たちが注いでいった残滓をかき出す時はさすがに躊躇った。裂傷を負った所に指を入れるのだ。痛いか?と訊くと、余裕で耐えられるとハリーは答えて顔をしかめた。傷は入口だけのようだ。ぬめりを感じなくなるまでかき出し、丁寧に湯で洗ってからこの小屋の救急箱にあった軟膏を塗った。 体温計を咥えさせて熱を計ると、案の定水銀は高い位置で止まっている。ハリーは風邪気味だったわけではない。今夜何人の客がハリーを犯していったのかわからないが、体内から溢れた精液の量からすると客はあの5人だけではなかったはずだ。惨たらしい行為の果ての、発熱はハリーの肉体の拒絶反応なのかもしれない。 上体を起こさせて膝の上にトレイを置く。ハリーは仄かに湯気を上げるポタージュの皿に目を落とし、いらないと呟いた。 「少しでも食べてくれ」 私にそう言われてもう一度皿に目をやるが、再び私を見上げ困った顔をしてやはり首を横に振った。高い熱があるのだ。食欲がないのは当然だろう。だが、解熱薬は強い薬だ。ほとんど何も食べていないはずの胃には入れられない。何かを食べてくれないと薬を飲ませられない。 「これはね、厨房のみんなが君のためだけに作ってくれたんだ。冷めないように工夫して持たせてくれたんだよ」 「みんなが……?夜中なのに……」 温かなスープのぬくもりを確かめるように両手で皿を包み込み、彼はぽつりと言った。 「それに私に約束しただろ?森の家に連れて行ってくれたら頑張って熱下げるって」 そう言われて、ハリーはようやくスプーンを取り上げた。ひと匙すくって口に入れる。 「美味しい……」 「――いい子だ」 「よくなってみんなにお礼を言いたいから」 ハリーは本当に優しい子に育てられた。両親の大きな愛情に包まれて、優しさを教わって、他人に優しく出来る人間に成長した。たった一人の人間をそんな風に育て上げるという事は生き物として最も大切な事なのだろうと、子を持たない自分でも痛感する。のんびり屋のマリーは慌てずゆっくり我が子に愛を教えたのだろう。愛する女の偉業を、ハリーを通して思い知る。自分が愛した女を誇らしく思う。そして、彼女に対して初めて尊敬という言葉に行き着いた。 食後、薬を飲んだハリーはあっという間に眠りに落ちた。薬のせいもあるのだろう、深い眠りだ。氷嚢を取り換え、額の汗を拭くたびに彼の身体に触れて熱を確かめた。 明日になってもこのまま熱が下がらなかったらどうするか、と考える。ずっと傍に付いていてやりたいと思う。ハリーが望むなら何日この小屋に留まっても構わない、とも思う。 明日はブルゴーニュに発たなければならない。だが、こんな状態のハリーを置いて行きたくない。他の重役に行かせる事は出来ないか、日程をずらす事は出来ないか、方法を探ってみたが、だめだ……。ワインセラーとの契約があるのだ。 もし薬を飲んでも熱が下がらなければ、朝を待たずに病院に連れて行こうと思った。発熱の原因は別な事なのかもしれない。医者ではない自分に素人判断は出来ない。こんな時、ロベールならどう言うだろう。 その時、小さな声が聞こえてベッドを振り返った。目を覚ましたわけではない。ハリーの目は閉じられたまま……。夢を見ているらしい。今度ははっきりした声だった。 「お父さん……」 ――英語で、ハリーは父を呼んでいた。子犬が鳴くようなか細く悲しい声で、数年前に彼を置いて死んだ父親を慕って呼ぶ。 ハリーは私に父親を求めたのだろうか。恋人としては失格で、父親にも決してなれないこんな叔父を、ハリーはどう思っただろうか。そして、そんな自分は彼に何をしてやれるというのだろう……。 解熱薬の効果はあった。それから間もなくハリーの熱は平熱まで下がった。 「気分はどうだい?」 「うん……かなりラク。――喉が渇いた」 遠慮なく欲しい物を要求してくれる事が嬉しい。スポーツドリンクを手渡してやると、彼は喉を鳴らして一気に飲んだ。たっぷり汗をかいたのだ。苦しそうだった呼吸も穏やかになり声に力も戻った。この調子だと後で空腹を訴えるかもしれない。 ――もう大丈夫だろう。明日は安心してブルゴーニュに出発出来そうだ。 そうは言っても油断は禁物で、大丈夫だと言って起きようとするハリーを宥め、もう一度毛布の中に押し込んだ。夜はまだ明けないのだ。 「ステファンは?全然寝てないんじゃないの?」 「少し寝たよ。私の事は心配しなくていい」 心配そうに毛布の縁から顔を出して見上げてくる頭を撫でてやる。すると彼はもぞもぞと横に移動し、隣に寝ろと言った。 「御好意は嬉しいが、それじゃ君の身体が休まらない」 「お気遣い恐縮だけど、俺はくっ付いて寝た方が落ち着くんだ」 私の口調を真似て切り返され、笑う。ありがたく彼の好意を素直に受ける事にした。 並んで横たわったら、ハリーが背中を押しつけてきたので苦笑って後ろから抱き込んだ。灯りをすべて消し、暗闇の中で身体を寄せ合う。雨のせいで朝はまだ遠い……。 「……ねえ、何か話して」 「何がいい?」 「……お母さんの子供の頃の話」 ハリーは私の気持ちを、おそらく知っている。知っていて話を強請る。その事にハリーの思いが潜んでいるように思えた。彼は子供ではないのだ。 「――初めて君のお母さんに会った時、私が6歳、彼女は9歳だった……」 そんな風に静かに語り始めると、彼はじっと耳を澄ましていた。 「お母さんは……マリーは、それは綺麗な女の子だった。お人形みたいだったよ。でも、凄くおてんばだった。木登りして下りられなくなったり、よそいきのドレスを着たまま私と川で遊んでいて頭から落ちたり……。その度にマリーのお母さんはカンカン、エリザベートおばあちゃんは卒倒しそうになっていた」 ハリーは肩を震わせて笑い出した。 「何だ、今とあんまり変わらないんだな。今もたまに変わった料理を作ろうとして食材を爆発させるんだ。俺はやめろって止めるのに」 そんな場面は見た事がないが、容易に想像出来て私も噴き出した。 「でもね、マリーは凄く優しい女の子だったよ。虐められる私をいつも庇って戦ってくれたんだ。近所の男の子と取っ組み合いの喧嘩をしたり、私に嫌みを言う親戚に堂々と意見をしたり……」 顔を真っ赤にさせて大きな声を出すマリーの姿が、私の脳裏に鮮やかに蘇る。 『あたしの弟を虐めるヤツは何処のどいつよ!』 『伯母さまがステファンに言った言葉を今すぐ取り消して謝って!でないと二度と伯母さまとは口をききません』 マリーはいつも私のために泣き、笑い、怒って、そして手を引いて一緒に歩いてくれた。何故見捨てられたと思ったのだろう。何故愛されなかったと思ったのだろう。この世でたった一人の弟を、マリーはこんなに深く愛してくれていたのに。ただの男では到底得られないような価値あるものを捧げてくれていたというのに。 「お母さんを愛しているんだね?」 「ああ……そうだとも、ハリー。最高の姉として愛している」 「そっか、よかった……」 長い長い時間をかけて自分の心に積もっていた澱が、今静かに溶けて流れて行くのを感じる。まるで自分自身に幻術をかけていたかのようだ。難しい事ではなかったはずだ。事実を拾い上げてこそ見えて来るものがある。今までそれから逃げていたのだ。 やっと気付かせてくれたハリーに、私は感謝した。 「雨の音が止んだ」 言われてみるとたしかに外が静まり返っている。 「ステファン、窓を開けて」 「夜風は身体に障るよ」 「少しでいいんだ……。森の匂いを嗅ぎたい」 ハリーの肩口から冷えた空気が入り込まないように毛布を引き上げ、立ち上がって窓を開ける。風はあまりない。雨上がり独特のひんやりした外気がひたひたと流れ込んでくる。深呼吸して澄んだ空気を胸いっぱいに取り込むと、肺の中に溜まった汚れが押し出され清浄な空気と入れ替わるような気がした。 「――気持ちいい」 ベッドに戻って再びハリーの背中を抱くと、腕の中でハリーが呟いた。 「いい匂い……。草と苔と木の皮の匂いがする。それと土の匂いも……」 それらは雨に濡れて濃い香りを放つ。ありのままの野生の匂い。嬉しそうに香りの中で深呼吸するハリーの身体からもあたたかな樹木の匂いが仄かに香る。 「……ステファン」 長い沈黙の後、眠ったと思っていたハリーが背を預けたまま私を呼ぶ。 「俺、忘れないよ」 何を、とは訊かなかった。 「絶対、忘れない……」 私は返事をする代わりに彼のこめかみに口付けた。 ――森に、秋の匂いが混じっていた。 翌日、すっかり熱の下がったハリーと屋敷に帰った。彼の容態を心配していた使用人たちと何も知らない父母の笑顔に出迎えられ、ハリーは元気いっぱいに振る舞う。 私はブルゴーニュ行きの列車に乗るため慌ただしく支度をして屋敷を出た。迎えに来たタクシーに乗り込み、車が発進してから振り返ると、いつまでも見送るハリーの姿があった。 そして出張から戻った時、ハリーの帰国を知らされたのだ。