疾病保健センターから呼び出しの電話を受けたのはそれから5日後だった。
「お忙しいところ申し訳ありません。ぜひ見ていただきたくて……」
 ホールに到着した俺を病理学者が出迎えた。足早に歩きながら簡単な挨拶を交わし、そのままラボに案内される。
 白い壁に白い蛍光灯が眩しく、廊下の暗さとのギャップに一瞬目がくらむ。ラボの中は白衣を着た数人の研究員が仕事をしていたが、誰も俺に気付かなかった。
「何かわかったか?」
「ええ。これを見てください」
 病理学者はパソコンの前に俺を座らせると、自分も隣に座ってキーボードを叩いた。
「ウイルスはとても小さいので電子顕微鏡で撮影しました。これは患者のトナカイから採取したウイルスです。この丸いのがそうです。わかりますか?」
 ディスプレイ画面にモノクロの映像が映し出される。どこか別世界を思わせる風景の中の球体に俺は頷いた。
「これに地衣類から抽出した物を加えました。これが直後……そして1時間後……3時間後……」
 言いながら、病理学者がクリックして次画面を表示させていく。
「ウイルスが消滅していってる……!」
 それは明らかな変化で、8時間後になるとウイルスはほとんど死滅していた。
「いったい何を加えたんだ?」
「信じられないかもしれませんが、これは地衣類のエキスそのものなのです。化学物質などは添加していません」
 たしかに信じられない話だ。これが化学薬品などではなく地衣類そのものの力とは……。
「因みに、ヒトから採取したウイルスで試してみましたが変化はありませんでした。同じウイルスと思っていましたが、トナカイの体内に入るとウイルスは変化しているのかもしれません。わからない事はたくさんありますが、詳しい事はこれからの課題ですね」
「……ありがとう。よくやってくれた」
 感嘆の息を吐いて俺がそう礼を言うと、病理学者は顔をほころばせた。
「いえ、あなたが地衣類というヒントをくださらなかったら私たちは見当違いな実験を繰り返すだけでした。こちらこそありがとうございます」
 だが、ひとつ謎が残る。
「トナカイの中には風邪にかからなかった者も居るし、回復が早かった者も居る。その違いは何だろうな」
 それに対して、飽くまで推測ですが、と病理学者は前置きして言う。
「高額でも地衣類を購入して食べていた者とそうでない者の違いなのだと思います。数もわずかで高騰してはいますが、市場には出ているわけですから。他に考えられるのは、不摂生をしていると風邪にかかりやすくなります。過ぎた飲酒、喫煙、睡眠不足……。まあ、当たり前の事ですけどね」
 飲酒、喫煙、睡眠不足。おまけに方向性の間違えた家計の節約。全部トナカイに当てはまる。
──結局、全部あいつが悪いんじゃねーか……。
 最後に、最も肝心な話を切り出した。
「急いで薬を作れるか?」
 すると、病理学者は笑いをかみ殺しつつ、引き出しから薬袋を取り出した。
「もう作ってありますよ。どうぞお持ちください」
 彼らの仕事の速さに、俺は内心飛び上がりたい思いで薬に手を伸ばす。だが、それはひょいと逸らされた。
「臨床試験がまだです」
 それに俺は挑戦的な笑みで答えた。
「被験者ならうちに居るぞ」
 すると、今度こそ病理学者は破顔して俺の手のひらに薬を乗せた。
「必ず結果をお知らせくださいね」

 その夜、帰るとトナカイは眠っていた。看護師の報告によると今日は食事をしなかったらしい。熱も38度が続いているという。
 コートも脱がずベッドサイドの椅子に腰掛けた。その寝顔を見て、ずいぶんやつれたと思う。トナカイが風邪で倒れてから半月以上経つ。いくら頑丈なトナカイでもこのまま衰弱すれば命に係わるところだ。
「あれ、サンタ……居たの?」
 トナカイは薄く目を開け、俺を見て微笑んだ。
「今帰ったとこだ」
 汗で湿った髪をかき上げてやる。
「……外は寒いみたいだね。あんたの手、冷たい」
「何も食べてないんだって?」
「あー、あんたが食べさせてくれるのを待ってたんだよ」
 トナカイはそんな冗談を言って笑う。本当は熱のせいで節々の痛みや全身のだるさでつらいはずだ。だが、トナカイはいつもそれを隠すように明るく振る舞おうとしていた。
「食事ではないけどいい物をやる。ちょっと起きれるか?」
「いい物? なになに?」
 トナカイが上体を起こしたところでポケットに入れてあった包みを取り出した。
「あーんしろ」
「ん? ああ。……あー!」
 素直に大きく開けた口の中に、俺は丸い飴玉をひとつ入れた。
「らり? ほえ」
 何これ、と口の中で飴玉をころころさせていたトナカイは、やがてハッとした顔で俺を見上げた。片側の頬に飴玉を寄せると驚きの顔で言う。
「ハナゴケの味だ!」
「お前へのプレゼントだよ。気に入ったか?」
「甘いハナゴケなんて変な感じ。でも意外と美味いかも。……で、何なの? これ」
「それは最高の研究者が苦労して作った風邪の特効薬だ。」
「特効薬!? マジか……!」
 信じられない、という顔で覗き込んでくるトナカイの頭を、俺はくしゃっと撫でた。
「お前の風邪は必ず治るから」


 夢を見た──。
 トナカイと一緒にクリスマスディナーを食べていた。
 なぜか二人とも燕尾服にホワイトタイといういでたちで、場所はいかにも高級そうなレストランだ。
 メインディッシュでございます、と給仕がうやうやしく持ってきたのはハナゴケだった。
 これは最高級のハナゴケなんだぜ! とトナカイは得意げに言う。
 ヒトも俺もハナゴケなんか食べないと言うと、好き嫌いは良くない、と叱られた。
 仕方なく何の調理もされてない生のハナゴケを食べる。
 俺は納得できなかったが、トナカイはハナゴケのディナーを楽しんでいた。
 トナカイが笑っている。
 俺はそれが嬉しかった──。

 キッチンからの物音で目が覚めた。
 カチャカチャと食器が鳴る音と、蛇口から水が流れる音。時刻は午前5時。辺りはまだ暗い。
 ふと、看護師が来たのだろうかと思ったが、こんな朝早くから来るはずがない。
──まさか泥棒?
 とりあえず下りてみると、キッチンに立つその後ろ姿に驚いた。
 パジャマではなく服を着て、更にエプロンを着けたトナカイが芋の皮を剥いていた。どうやら朝食の支度をしているらしい。俺に気付いて振り返る。
「あ、サンタ! おはよう!」
 眩しいほど爽やかな笑顔に面食らった。
「お前、何でこんな所に居るんだ? ちゃんと寝てないとだめだろう!」
「聞いてよ、サンタ」
 濡れた手をエプロンで拭きながら俺の前に立った男の顔は実に血色がいい。
「寝て起きたらすげー体調がいいんだ。熱もない」
 ほら! と、触ってみろと言わんばかりに額を指差され、手のひらを当ててみる。
「本当だ……下がっているようだな」
「だろ? サンタが持って帰ったあの薬、本当に効いたよ!」
 昨夜ラボから持ち帰った薬は、ハナゴケ味の飴玉と水薬だ。共に地衣類の成分を高濃度にした物である。飴は俺が帰宅してすぐ舐めさせ、水薬は就寝前に飲ませた。それだけだ。
一応、一日3回を3日分貰ってきたが、たった一度の服用でここまで効果があるとは……。
「そうか……よかった。本当によかったな」
「あんたのおかげだよ。ありがと、サンタ……」
 トナカイは俺の身体に腕を回し、そう言って首筋に顔をうずめた。
 一時は本当にどうなる事かと思っていた。いかなる時も病気ひとつしない男が、日々衰弱していく様を毎日見てきたのだ。もしかしたらトナカイを失うかもしれない、という恐怖におののいていたのも事実だ。
 地衣類の効果はラボで確認して期待はしていたが、ここまでとは思っていなかった。太古から生息する地衣類とトナカイの不思議な関係に、俺は畏敬の念すら覚える。
「ところで、今更なんだけど……」
 トナカイは顔を上げてひとつ咳払いをし、おそるおそる切り出した。
「クリスマス任務のサンタの運転手、もう他の奴に決まってる、よね……」
 俺の返事を待つその顔は、まるで判決を言い渡される犯罪者みたいで可笑しい。
「任務どころじゃないだろ? また今夜にも熱が上がるかもしれないじゃないか」
「大丈夫だって! 薬もちゃんと飲むし、安静にしてる! ぜってー当日まで完璧に治すから!」
 まだ見込みがあるかもしれないと思ったのか、トナカイは必死だ。
「薬を飲み切るまで外出は禁止。その間ガレージでバイクを弄るのもだめだ」
「うん!」
「毎食後検温して一回でも熱が上がったらベッドに逆戻りだからな」
「うん!」
「お前が寝込んでいる間、大事な打ち合わせは終わってしまったぞ。何もわからないだろ?」
 俺がそう言うと、トナカイは真摯な顔つきで答えた。
「どこをどう回るとか、どのくらいの件数とか、たしかに俺は全然知らない。でもこれから覚える時間もない。だから俺はサンタの指図通りに走る。そのかわり当日ぎりぎりまでバイクの整備に努める。俺もバイクも最高のコンデションで最高の仕事をすると約束する。だから……頼むよ、サンタ!」
「……しょうがないな、お前は」
「じゃあ……!」
 物わかりの悪いボスの仮面を脱ぎ捨てて、今度こそ俺は笑った。
「最初から運転手はお前しか居ないに決まってるだろ!」
「サ……サンターっ!」
 逃げる暇はなかった。獲物を狩るライオンの如く奴は俺に飛びかかり、俺をキッチンの床に押し倒し、潰しにかかる。
「サンタ! サンタ、サンタぁぁ!」
 渾身の力で抱き締め、というより締め技を食らう。食いちぎられるのではないかと思うほど首筋をガウガウと舐められる。
「ば、馬鹿……放せっ……苦しい……」
 これは、もう病人と思わない方がいいだろう。こっちが命の危険を覚えるほど、こいつはもう元気だ。
「いい加減にしろ、トナカイ! こら……おすわりっ!」