祭りから帰った翌日から小夜啼の周りに小さな変化が起きた。 ノックの音にドアを開ければそこには5人の下級娼婦たちが居た。 「あの、お招きくださってありがとう。さ、小夜啼さん……」 「遠慮しないで入れよ」 もじもじしている娼婦たちに小夜啼がそう声をかけると、彼女たちは酷く緊張した面持ちでぺこりと頭を下げた。 小夜啼が珍しい金魚を買ってきたという話はあっという間に翠鳴楼中に広まった。娼婦たちが金魚を見たがっているとテオから聞き、小夜啼が見に来るよう伝えたのだ。 伝説の花魁の部屋に立ち入るなど、彼女たちには畏れ多くて足が竦んでしまう事である。だが、金魚を見たいという好奇心には勝てなかった。 「真っ黒よ!」 「可愛い!」 「尻尾がひらひらして綺麗ねぇ」 「貴婦人のシフォンドレスみたいに美しいわ」 「この目玉を見て!可笑しな顔!」 おどおどと部屋に入ってきた5人は、金魚鉢を覗き込むやいなやはしゃぎ出した。 みな10代半ばの少女たちだった。翠鳴楼に売られてきて年数も浅く、心細さを何処かに抱えている田舎娘だ。下級とはいえ翠鳴楼の女たちは申し分のない美しさである。いずれ彼女たちも多くの客を持つ一人前の娼婦になるだろう。それまで日々の楽しみは必要だ。 「金魚は頭がいい生き物で、人間が言っている事がわかるんだそうだ。お前たちがあまり褒めるとこいつは調子に乗るぞ」 小夜啼が真顔で言うと娼婦たちは一瞬固まり、次の瞬間鈴をふるうような声で笑い出した。どの顔もようやく緊張が解けたようで、口元も隠さず腹の底から笑っている。 若い娘らしい転がるような笑い声を聞きながら、何故、自分は今まで他の娼婦たちと交流を持たなかったのか、と小夜啼は思った。 下級娼婦と花魁とでは階級で言えば雲泥の差はある。しかし、みな同じ釜の飯を食べる仲間なのだ。近寄りがたい存在と思われているとしたら、それは自分の責任である。自分が率先して経験の浅い娼婦たちに手を伸べれば、翠鳴楼はもっと家族のような絆が生まれるかもしれない。 「また見たくなったら来たらいい。事前にテオに伝えれば都合が許すかぎり時間を空けておく」 小夜啼がそう言うと娼婦たちの顔が弾けるような笑顔になった。 「女たちにモテモテじゃないか」 娼婦たちが帰った後、金魚鉢を覗き込んで小夜啼が話しかけると出目金のアクセルが寄って来た。指でガラスをとんとんと叩くと、それに合わせるように口をパクパクさせて、小夜啼は思わず笑った。 「俺に何か言ってるみたいだ」 こんなちっぽけな魚が人を笑顔にした。それは日々の暮らしの中の取るに足りない出来事だ。だが、そんなささやかな笑いの積み重ねが幸せという事なのだろうと小夜啼は思う。 大きな改革は自分の手には負えなくても、自分の周りの人々が笑顔になればそれが自分の幸せなのだ。金魚がくれた小さなきっかけに人の輪が膨らんでいき、そして自分も気付かされる。 「お前はやっぱり“アクセル”なんだな」 小さな出目金は正面から小夜啼をじっと見つめていた。 「あなたが生き物を飼うなんて、意外ね」 翌日の午後、小夜啼の部屋を訪れたセイレーンは持参した茶を淹れながらそう言った。 「まあ、俺自身驚いている」 新しい茶葉が手に入るたびセイレーンは小夜啼を自室に招いていたが、金魚を見たいという事もあり、今回はわざわざティーセット一式を持って小夜啼の部屋での茶会となった。 今日みたいに寒い日にはミルクティーが飲みたくなるわね、と言って用意されたのは南方の貴重な茶葉。それを惜しみなく使って淹れた濃い目の茶に濃厚なミルクが注がれる。 セイレーンと過ごす時間はいつも静かでゆったりしている。彼女の話し方、間の取り方、立ち居振る舞い、それらが合わさり醸し出される雰囲気。そして母性すら感じる包容力。しかし、女として、人として、何処か老成したようなこの娼婦の年齢がまだ21歳なのだという事を、小夜啼は思い出した。 「おとつい、彼にさよならを伝えたわ」 ミルクティーを一口飲んだ後、セイレーンはしっかり顔を上げ小夜啼に言った。 以前聞いた身請けの話。あの時のセイレーンは伯爵からの申し出にまだ迷っていた。今、彼女の顔には迷いは感じられない。恋人との関係も清算し、自分で答えを出したのだ。それは小夜啼にとって悲しい答えであった。 「セイレーン、本気なのか?」 「本気よ。来週伯爵さまが来た時、正式にお返事するつもりよ」 「家族のためとはいえ、愛してもいない男の跡継ぎを産むためだけに、君は……」 さんざん考え抜いての決断なのだろう。恋人と別れる事は身を切るようにつらかっただろう。その決断をつらいと思う他人より、彼女自身は何倍もつらいであろう。それでも黙って話に相槌を打つ事は、小夜啼にはどうしても出来なかった。 「俺には君の家族に対して何の責任も持てない以上、こんな事を言ってはいけないのはわかっている。だけど、もう一度よく考え直してほしい」 「小夜啼……」 「6年前、君は家族を助けるために翠鳴楼に来た。身を粉にして働いた。でも、この先も一生家族のためだけに生きるのか?」 セイレーンの悩みも苦しみも幸せもセイレーンのもので、自分には自分の価値観を押し付ける資格はないのだと、小夜啼はあの日そう思っていた。引き止めたい気持ちを抑えつつ彼女を見守るしかないのだと。――まだアクセルへの愛に気付かないその時は。 「君の人生は翠鳴楼のものでも、家族のものでも、まして伯爵のものでもない。君のものなんだよ。どうか未来も愛も諦めないでくれ」 「小夜啼……今、誰かを愛しているのね?」 小夜啼の感情を抑えた話し方の中に激しい想いを感じ、セイレーンは確信する。 「……どうして俺なんかを愛するんだろうって思った。正直言って今も思っている。でも、自分に向けてくれるあいつの気持ちが凄く尊いものに思えるんだ。俺はそれを大切にしたい。だから君の恋人の事を思うと悲しい」 あの日、自分の手を握ってくれたセイレーンの手を、今度は小夜啼がしっかり握った。 「俺たちは娼婦や男娼である前に一人の人間なんだと、そう教えてくれたのは君だろ?」 一瞬、泣き出しそうな顔をした後、セイレーンは微笑んだ。 「あなたって不思議な人ね……」 「不思議?俺が?」 「一緒に居ると希望が湧くの。自分では気付いてないかもしれないけど、あなたは傍に居る人に力を与えるわ。いつか、いつかきっと、そんな人たちがあなたを助けてくれるわよ。神様はすべてを見ておいでだから」 小夜啼は神の存在を信じてはいない。神は信じない者は救わない。もし神が居るのだとしたら、自分よりこの優しい女を救ってほしいと彼は思った。 セイレーンは誰が何を言っても決断を覆す事はないだろう。せめていかなる人生になろうとも神の加護を、と願った。それが身勝手な事だと知ってはいても……。 少しずつ、少しずつ、良くも悪くも、人々の人生が何者かの力によって流されていく。 そして、それは小夜啼も例外ではなかった。 その夜、テオから今夜の客がステファンだと聞かされた時、小夜啼はずいぶん久しぶりの来訪だと思った。 「仕事が忙しかったんだよ。政治面でごちゃごちゃし始めたからね」 ステファンは小夜啼にコートを預けるとソファに腰を下ろした。 「顔色が良くない……。疲れているみたいだ。酒は、止めておくか?」 「そうだな……今夜は素面で君に話したい事がある。座ってくれないか」 ステファンは今まであらたまって話があるなどと言った事はなかった。話したい事があれば自分のペースで話し、抱きたくなれば有無を言わさずに抱く。小夜啼はいつもと違うこの優しい暴君に違和感を覚えるも、言われた通りに向かいの椅子に座った。 「この仕事を始めて、もう……6年か?」 ステファンの言葉に小夜啼は呆れ返って言う。 「違うよ……7年。俺はもう19だ」 「もうそんなになったか。早いもんだな」 「どうしたんだよ、ステファン。まるでイヴォン爺ちゃんみたいだ」 何やら呑気な話に気が抜けて、小夜啼は煙管に煙草を詰め始めた。 「……君は男娼を辞めたらどうするつもりでいる?」 煙草を詰める手が止まる。だが一瞬の間の後、彼は再び手を動かし笑いながら答えた。 「何だい、ますます爺ちゃんみたいな事言うんだな。老け込むにはまだ早いだろ?」 「小夜啼、真面目な話だ」 ステファンに真顔で言われ、小夜啼は笑うのをやめた。 立ち止まる事を許さないように周囲の人々は現実を突き付けてくる。ジーラもイヴォン老人も。小夜啼自身、言われずともわかっていた。 娼館の廃止は近い将来おそらく現実のものになる。たとえ廃止にならなかったとしても男娼など若いうちだけで、いずれは辞める日が来る。 「わかっているよ、ステファン……。翠鳴楼がこのまま続いたとしても、俺が“花魁・小夜啼”をやっていられるのは、せいぜいあと2年か3年……」 煙管に火を点けゆっくり一口吸うと、彼は言葉を続けた。 「正直言って将来何をしたいかまだわからない。翠鳴楼が俺の家でジーラは母親だけど、大人の男がいつまでも家に居てはいけないと思う。その時が来たら俺は此処を出て行くよ」 今まで小夜啼は先の見えない未来から逃げていた。だが、もう巣立たなければならないのだと、ようやく自分の未来に向き合えるようになった。 彼にとってそれは大きな勇気だった。しかし――。 「私は、君を引き取りたいと思っている……」 その言葉はあまりにも唐突で、小夜啼はすぐには意味を理解出来なかった。驚きのあまり一言も言葉が出て来ない。 「正式に君を身請けしたい」 「み……うけ……?」 ――これは昼間のセイレーンの話なのか?彼女の悲しい決断がよほどショックで頭が混乱しているのか?それとも、自分の話なのか……? 「学びたい事があるなら学校に行かせてあげよう。やりたい事があるなら何でも支援する。これからはいつも私の傍に居てほしい」 小夜啼の瞳が面白そうに大きく見開いた。 「可笑しな事を思い付いたもんだな。それで?男の俺を妻にでも迎い入れるのか?ああ、そうか!娼館に通うのが面倒になったから手っ取り早い男妾を近くに囲うんだな?」 「小夜啼……!」 小夜啼の、自分を侮蔑するような言い方にステファンは顔をきつくしかめた。 「……養子縁組を考えている」 それに小夜啼はくすっと笑った。 「そして格式高いモンティエ公爵家とあの巨大な会社を、男娼上がりの俺が継ぐのか?……酔狂にも程がある。馬鹿な事言ってないで結婚して子供を作れよ。――俺は御免だ」 「小夜啼……」 「何故だ……」 煙管を持つ手が震えていた。 「君を……愛しているからだ」 小夜啼の身体の奥から笑いが込み上げてきた。声を殺し、頭を振り、喉の奥で笑う。 「今さらかよ……」 「19年間ずっと君だけを見つめてきた。我が子のように、生徒として、恋人として。立場は変わっても愛する気持ちだけはずっと変わらない。結婚とか跡継ぎなんかどうでもいい、生涯傍に居てほしいのは君しか居ないんだ!小夜啼、私は……」 カンッ!と、煙管を灰皿に叩きつける音にステファンの言葉は遮られた。 「……今頃、何だよ。いつも本気で向き合ってくれた事のないあなたが、今頃何言ってるんだよ……。実は愛していた?傍に居てほしい?何だよ、それ……」 「私のもとに来てくれ」 「ふざけるなっ!」 小夜啼はテーブルを叩いて声を荒げた。 「いくら受け止めてほしくて手を伸ばしても、あなたは絶対手を取ってはくれなかった!本音をぶつけてもくれない!その時悟った、俺は信頼に値する人間じゃないんだと!その時の俺の気持ちをわかろうとした事はあるか?」 「君に……弱い自分を晒すのが怖かったんだ……」 「怖い?俺はとっくに怖さに慣らされて絶望まで覚えたよ」 小夜啼の、悲しい言葉を淡々と紡ぐその中に、彼の傷の深さを感じてステファンは目を伏せた。 「……もう、遅いというのか?私の想いを受け入れてはくれないのか?」 「ステファンはいい先生だったよ。“小夜啼”は最高の男娼になった。必要な事はすべて教えてくれたけど、でもひとつだけ――」 小夜啼の声は落ち着きを取り戻し優しかった。 「人を愛する幸せだけは教えてくれなかったね……」 小夜啼はテーブルの上に置かれた師の手を握る。その温かさにステファンの胸が詰まった。すかさずその手を握り返し、椅子から立ち上がった。 「チャンスをくれないか、小夜啼。今度こそ君を幸せにしたいんだ!」 小夜啼を引き立たせその身体を抱き締めれば、腕の中で彼は言った。 「この先一緒に居ても俺たちはきっと傷付け合ってしまう……」 「嫌だ……小夜啼……」 「あなたに褒めてもらいたくて、愛してもらいたくて、俺はいい男娼になろうとしたよ。あなたが“ハリー”より“小夜啼”を愛してくれるなら死ぬまで男娼でいたかった。でも、そんな事は不可能だ」 「君が何者であろうと関係ない!君が居ない人生など考えられない!頼む、ハリー!」 きつく抱き締めてくるステファンの腕の中で、小夜啼は静かに呟いた。 「――もう疲れたよ、ステファン……。あなたを愛する事に……俺はもう、疲れた……」 それから二人は寝台の上に向かい合って座った。 ステファンの手が単衣の帯を解き、小夜啼の肌を暴いていく。晒されていく身体にひとつまたひとつと唇を落としていった。 縛ってくれ、と小夜啼は言った。優しくされたくない、出来るだけ激しく手荒く犯されたい、身体に傷が付いても構わない、と。 小夜啼の唇に口付けた後、ステファンの喉から短く嗚咽が漏れた。だが、彼は顔を上げ歯を食いしばりそれを抑え込むと、単衣の帯を手に巻き取った。 目の前で、白い両手首を揃えて彼に差し出した男娼が、幸福そうに微笑んでいた。 その夜、小夜啼の部屋から彼の悲鳴と嬌声が一晩中続いた。 ステファンは荒い息を整え身体を起こし、小夜啼を見下ろした。彼はかろうじて意識を保ってはいるがかなり混濁していて、青い瞳は何も映してはいなかった。 「――もう……終いなのか……?俺は……まだ……も……っと……」 うわ言のような強がりがその唇から零れ、小夜啼は意識を手放した。ステファンは手を伸ばし、天蓋のフレームと彼の手首を繋いでいた単衣の帯を解いた。 優しく扱われる事を拒否した小夜啼の真意をステファンは考える。 今まで何度か暴力的に小夜啼を抱いた。苛立ちや不安を、理不尽にも彼の身体に叩きつけてきた。その都度味わう自己嫌悪感、自責の念。 今夜は優しく抱き締めていたかったのだ。だが、小夜啼はそうさせてはくれなかった。それは今のステファンにとって残酷な要求だというのに……。 ならばせめて、自分をその身体に刻んでやりたいとステファンは思った。だが、そうすればするほど小夜啼への愛おしさが逆に我が身に刻まれた。 彼は悟った。自分は残りの人生を小夜啼への愛という業火に焼かれて生きるのだ。或いは、それが小夜啼の最後の復讐だったのかもしれない、と。 赤い跡が残った手首をさすってやると、熱い流れがとめどなく頬を伝った。「もう一度、此処に来るんじゃないかと思ってました。――モンティエ公爵」 アクセルは、入口付近に佇む紳士にそう声をかけた。 時刻は夜の8時半。店のシャッターを半分下ろし、今日の売り上げの計算をしている時だった。まだ施錠していないドアを開け、シャッターをくぐってその客が入ってきた。 「酒を買いに来たわけではないんだがね……」 「構いませんよ。……もしよかったら奥で一杯やりませんか?」 誘いの言葉にステファンはしばしためらった後、お言葉に甘えよう、と言ってアクセルの後に続いた。 アクセルはステファンが自分に話したい事があって訪ねてきたのだというのがわかった。そして彼自身もまた、この人物の訪問を待っていたのだ。 店舗の奥は事務所兼休憩所になっている。飾り気のない小部屋の中は事務機器や書類棚の他に事務机と椅子、そしてスプリングのイカれたボロなソファがあるのみ。普段アクセルはこの部屋で接客以外の雑務を執っている。 古く狭く汚い事務所に、この国の経済をも動かしてしまうようなモンティエ貿易の社長が居るなど、誰が想像出来ただろうか。 「もうある程度飲んでいるみたいですね」 酔っている様子は微塵も感じないが、ステファンから少し酒の匂いがしていた。 「バーで少々飲んでいた。だが、一人で飲んでいてもつまらなくてね」 一人といっても移動は運転手付きの車らしく、店の前に黒塗りの車が停まっているのを確認してアクセルは少しホッとした。 アクセルはステファンのためにブランデーの封を切った。おととし買い付けの旅に行った際買ってきた最後の一本だ。ステファンは一口飲んで美味い、と言った。 「――彼は赤ん坊の頃から天使のようだった……」 そんな風に、ステファンはぽつりと語り始めた。 「小夜啼は捨て子だったんだ。愛くるしいその子を翠鳴楼のみんなが可愛がった。お嬢様育ちのジーラはおろおろしながらも懸命だったよ。今思い出しても可笑しい。たぶん、あの頃が翠鳴楼の最も幸せな時代だったと思う」 名門娼館の最も輝いていた時代は最も儲かっていた時代ではなく、みんなが笑顔だったその頃なのだ、とステファンは言った。 「彼はとくに私に懐いてくれた。何故だろう……。父というには私は独身で青二才だ。兄というには年が離れ過ぎている。先生と生徒であるかもしれない。たしかに男娼にするべく教育したのは私だが、私はそういう方面のプロでもない。思えば小夜啼との関係を言葉で説明しようとしたらどれも中途半端なんだ」 「恋人じゃないんですか?」 アクセルがそう言うとステファンは静かに笑って首を振った。 「いや、それは私が一方的に思い込んでいただけだ。当の小夜啼は私が愛していたなど知らなかったようだ。私は……長い間勘違いをしていたんだよ。――つくづく愚かな男だ」 それはお互いに片思いをしていたという事じゃないか?――と、アクセルは思う。傍で見ている自分にはわかるのに、当の二人はそれが見えなかったのだ……。そう思うと意外な事に何とも苦い気持ちになった。 「もう一つ愚かついでに言うなら、小夜啼はずっと未来永劫私の傍に居ると思っていたんだ。彼の心の中を少しも見ようとしなかったくせに、だ……」 そして重苦しい沈黙の後、ステファンは言った。 「――小夜啼にフラれてしまったよ……」 驚くアクセルとは対照的に、ステファンは穏やかな表情で手元のグラスを見つめていた。 「君の存在が彼に影響したのはたしかだが、原因はもっと根本的なものだ。すべては私の思い上がりと、傲慢と、つまらぬ意地が招いた事だ。おかげで彼を何年も傷付けてきた。……だが、それでも私は……」 ステファンは遠くを見るような目をし、そして瞼を閉じて言った。 「彼を愛している……」 唐突に、アクセルは古い記憶を思い出した。 『ハリー、おいで』 小夜啼と始めて出会ったあの夏の庭――。あの時小さな男の子を迎えに来た大人の男は、今目の前に居るこの人だった。髪の色も、背格好も、着ていた服の色さえも思い出した。 抱き上げられて笑う男の子、しっかりと繋がれた手。それらを思い出した時、アクセルは酷く胸が痛んだ。どのような関係であろうとも、その幸せな記憶は二人の中から消えないだろう。彼らがそれに気付けたなら、もっと強い絆が生まれるはずだ。 「愚痴ばかり聞かせてすまない……。今日は君に頼みがあって来た」 目を開けアクセルに向き直ったステファンの表情は、一瞬前とは打って変わって厳しかった。 「この国から小夜啼を連れて逃げてほしい」 「……何ですって?」 思いもよらない頼み事に、アクセルは心底驚いた。 「今、この国はかなり危うい局面を迎えている。新聞やテレビで報じられている事はすべてではない。私は政界と軍隊に深く関わりを持っている。私がその中で掴んだ事実はもう一刻の猶予もない状態だ。その事もあって小夜啼を翠鳴楼から引き上げさせようとしたんだがね……」 「革命が起きると?」 「革命?……いや、そんな立派なものとは思えないね……」 ステファンは顔をしかめて言葉を続けた。 「小夜啼は微妙な立場にある。本人は自覚してないがね。……いずれにしても、この国は今後彼にとって危険な所になる。本当は私が連れ出せればいいが、私には此処に残ってやらなければならない事がたくさんある。彼も私にはついて来てくれないだろう……。アクセル、君しか居ない」 時代の大きなうねりが起ころうとしている。人々がそれに巻き込まれていく。飲み込まれてしまうか、押し流されるか、乗り切るのか。それは自分次第……。 「公爵、俺もあなたに話したい事があります。そのためにあなたが来るのを待っていた」 その言葉にステファンが目を上げれば、アクセルは顔を上気させ真剣な面持ちだった。 「これから何が起こるか俺にははっきりとはわかりません。でも、おそらくこのまま同じ生活は続けられない。俺はこの店を畳んで遠い大陸に渡ろうと思ってます。小夜啼と一緒に」 目に見えない大きな力がアクセルの背中を押していた。 「小夜啼にはまだ何も話してません。彼が首を縦に振ってくれるかどうかはわからない。でも絶対手を離さないと約束したんです。行く時は一緒です」 「……本気なんだな?」 「個人経営の酒屋が生き残る確率は?」 「ゼロだ」 ステファンの即答を聞いて、もはや一片の躊躇もなかった。 「商売を清算するのは少し時間がかかる。出来るだけ急いだ方がいい」 「そうします」 「心配するな、何としても君たちを無事に出国させる。これから私も帰って準備をしよう」 「公爵!」 立ち上がり出口に向かったステファンの背中に、アクセルは声をかけた。 「――本当にいいんですか?小夜啼を連れて行って……」 「……いいか、だと?」 背を向けたまま、ステファンは絞り出すように言った。 「……本当は、私から小夜啼をさらっていく君など……殺してやりたい!」 振り向いたステファンの目は潤んでいた。 「だが、小夜啼に自由を与えてやれるのは君しか居ない。せめて、私は私にしか出来ないやり方で彼を愛していく。それが19年に渡る私の想いの証だ」 そして彼は、感謝する、と短く告げて部屋を出て行った。 ステファン・モンティエ公爵がアクセルの店を出て1時間後――。突如、夜の静寂を破って爆音が街に轟いた。 アクセルが外に飛び出すと、同様に飛び出してきた人々が恐怖に満ちた顔で通りに溢れている。官公庁が集中する方角で何かが燃え上っていた。 すぐ隣近所の商店の顔馴染みが次々に集まって来る。 「一体、何が始まったんだろうね!アクセル」 八百屋の女主人が怯えた顔でアクセルを見上げた。 「“何か”がついに始まったんだよ……おばさん」 その夜、彼らの予想を上回る早さでクーデターが勃発した。