「黒い帽子に黒い上着?……さあねぇ……」
 雑貨屋の店主が困惑気味に答えるとアクセルは頭を下げてテントを出た。
 小夜啼が姿を消してから、アクセルは古本屋のテントを中心に彼を探して駆け回っていた。人混みの中をかき分け、小夜啼の姿を求め小走りになる。軒を連ねる露店を片っ端から覗き、店の主に小夜啼の風貌を告げ見かけなかったかと訊いて回った。
 平凡な衣服に顔を隠す帽子……。小夜啼の地味な服装は人々の印象には残らなかった。そのままでは人目を引いてしまう華やかな風貌は、目立たない格好をする事によってどんな人間が集まるかわからない場所では安心だったが、今となってはそれが仇となっている。
 黒い帽子を被った者は大勢居る。黒い上着を着た者はそれ以上居た。小夜啼がどんなに綺麗な顔立ちをしていても見事な金髪であっても、帽子がそれをすっかり覆い隠していた。
「ねえ、黒いぶかぶかの帽子を被った10代後半の男を見なかった?髪は金髪、女の子みたいに華奢で、黒い上着を着ているんだけど……」
 アクセルは露店のみならずすれ違う通行人にも訊いて回るが、皆一様に首を横に振るばかりだった。
「さよ……!」
 名を呼ぼうとして、アクセルはすんでのところで思い留まった。――この人混みの中で、世間に知れ渡った男娼の名を呼ぶなど出来るわけがない。
 アクセルは自分の手のひらを見つめた。ついさっきまで繋いでいた小夜啼の手の感触がまだ残っていた。何処を見渡しても彼の姿はなく、手がかりもない。名を呼ぶ事すら出来ない。
「馬鹿だ、俺……。何で……何で……!」
 突然どうしようもない無力感と自責の念に襲われ、アクセルは往来の中で立ちつくし顔を覆った。
 何故、生まれて初めて人混みの中へと出た小夜啼から目を離したのか。何故、ほんの一瞬でも彼を一人にしてしまったのか。
 もしも、性質の悪い人買いに目を付けられたら……。船に乗せられ遠い外国に売り飛ばされたら……。現実に時折起こっている事件に巻き込まれた可能性を考えると目の前が真っ暗になった。
 だが、ほんの煙草一本の時間なのだ。そう遠くには行ってないはずである。絶望している暇などない。小夜啼が自分の名を呼んでいる気がして、アクセルは再び走り出した。

「あら、お兄ちゃん、さっきも栗買いに来てくれたね」
 アクセルはいつの間にか先刻小夜啼と焼き栗を買った露店の前に来ていた。
 恰幅のいい中年の女将が人懐っこくアクセルに笑いかける。女将は二人の事を覚えていたようだった。
「あ、おばちゃん……あのさ……」
 覚えてくれているなら好都合と思い、アクセルは先程から何度も口にしている問いかけを言いかけた時、女将が先に口を開いた。
「あんた、あの子たちとはぐれちゃったのかい?」
――あの子たち……?
「おばちゃん、俺の連れの事覚えてるの?」
「覚えているともさ、可愛い男の子だったからね」
「“たち”って……彼、誰かと一緒だった?」
 心臓が忙しなく打ち始める……。女将はそんなアクセルの心の内には気付かず、焼き上がった栗を袋に詰めながらのんびり答えた。
「3人の若い男たちに腕組まれてたよ。あの子嫌そうな顔していたけど、連中は笑ってたしじゃれてるんだと思ったけど。友だちじゃないのかい?」
――大変だ……!
「それ、いつ!」
「つい5分ほど前だったかねえ」
「どっち行ったかわかる?」
「ウチの前通ってあっちに歩いてったよ」
「ありがとう!」
 ついに掴んだ手がかりに、アクセルはお礼もそこそこに女将が指差す方へと駈け出した。


 祭りで賑わう大通りから横に伸びる枝道に入ると一気に人通りが少なくなる。人々から忘れ去られたような路地裏は、古ぼけた街灯が辺りをぼんやり照らすだけで行き交う人の姿はなかった。
「いい加減離せっ!」
 小夜啼が身をよじると、両脇を抱えていた男たちがようやくその腕を離した。だが3人の男たちに前面から迫られ退路を断たれる。レンガの壁に背中を預け、小夜啼は男たちを睨み上げた。
「そんなにおっかない顔で睨むなよ。俺らはただあんたとお友達になりたいだけだって」
「そーそー、君みたいなカワイコちゃんが一人であんな所をうろうろしてるなんて物騒だろ?俺たちと一緒に来いよ」
 にやにやしながら小夜啼の顔を覗き込んでくる連中は、20代の若者たちだった。いわゆるプロなどではなく、徒党を組んで“何か面白い事”を求める格好だけのチンピラだ。
 小夜啼は、あの古書屋の露店で求めるような本が見つからずテントを出てアクセルを探していた所、この男たちに声をかけられ強引に連れて来られた。3人が素早く取り囲んでくる動作に淀みはなかった。彼らはあらかじめ小夜啼に目を付けていたのだ。
「俺はお前たちと遊んでいる暇なんかないんだ。どけよ!」
 今頃アクセルはどんなに心配しているだろう。きっと必死で自分を探しているに違いない……。そう思うと小夜啼は気が気ではなかった。
「つれない事言うなよ。此処よりさ、もっと静かな所で楽しい事しようぜ」
 一人が耳元で囁いて息を吹きかけ、小夜啼の身体に悪寒が走る。
「ホント、綺麗な顔してんなあ。身体の方もさぞかし……」
 もう一人がシャツの襟を引っ張って胸元を覗き込もうとしたため、小夜啼は慌ててその手を払い除けた。
「俺にさわんな!下衆野郎!」
 小夜啼のたんかに男たちは怒るどころか、ぴゅうと口笛を吹いて笑い声を上げた。
「威勢のいい子猫ちゃんだな。気の強い美人、ゾクゾクするねえ!」
「おい、お前のアパートこの近くだよな?そこに連れて行こうぜ」
「オッケ、じゃあ4人でパーティといくか!」
 そう言うなり一人が小夜啼の腕を強く掴む。まずい――と小夜啼は思った。
 このまま何処かに連れ込まれてしまえばアクセルが自分を見つけられなくなる。何とか此処から逃げなければ。だが男たちは自分より遥かに体格がいい。たぶん力では敵わないだろう。三対一では尚の事だ。
「その人から手ェ離せよ、お前ら」
 その時、男たちの背後で唐突に声がした。誰も居ないと思っていた暗がりから、幾分息を弾ませて歩み寄って来る長身の男――。
「アクセル!」
「はあ?誰、オマエ」
 一人がアクセルの目の前まで歩み寄り、ポケットに手を突っ込んだまま顔を覗き込んだ。
「彼の連れだ。その人、返してもらうぜ」
「ほぉー、生憎それは出来ねえなぁ。俺たちこれから楽しいパーティなんでね。……とっとと消えな!」
 男は小馬鹿にしたような目でアクセルを見、せせら笑った。
「どうしても嫌だってんなら力ずくでも奪い返す!」
 拳を突き出して構えをとるアクセルに、男たちは楽しげな奇声を上げた。
「聞いたかよ!力ずくで奪い返すんだとさ!……おもしれえ、やってみろよ!」
 男がポケットに突っ込んでいた手を出す。その手の中にある物から微かな金属音と共に10センチほどの刃が飛び出した。
 アクセルは久しぶりに血が滾る思いだった。夜遊びと喧嘩と酒と煙草に明け暮れていた10代の頃。まさに今目の前に居る男たちと同じだった当時の自分。刃物を持つ相手を素手で叩きのめした事も多々ある。喧嘩の腕はまだ鈍ってはいない。守りたいものがある今は尚更だ。
 さあ来いよ、と指先で手招きし相手を挑発した。今にもナイフが胸元目がけて飛び込んで来ようとするその時、思わぬ事が起こった。
 小夜啼が自分の手首を掴む男の股間を、えいとばかりに蹴り上げたのだ。蹴られた男は大きく息を飲み込んだきり呻き声も上げず、股間を押さえてその場に崩れ落ちた。
「うっそ……」
 弱々しい呟きがアクセルの口から零れる。当の小夜啼は鼻息も荒く、仁王立ちになって怒りの目で男を見下ろしていた。
 何の前触れもなく誰もが予想しなかった展開に、その場に居る全員が茫然自失となった。我に返った二人の男が顔面蒼白で悶絶している仲間の傍らに駆け寄る。
「おい、しっかりしろ!」
 男たちが倒れた仲間に気を取られている隙に、アクセルは弾かれたように小夜啼の手を掴み、猛然と駈け出した。
「こ、この野郎!」
「待て!ゴルァアー!」
 男たちの怒号を背に受け、出来るだけ遠くへと二人は必死で走った。
「アクセル!金魚が目を回す!」
「後で謝っとく!」
 ビニール袋の中の金魚鉢は大時化の海の如く高波になっているはずだが、今はそんな事に構ってはいられなかった。

 2ブロック全力で走り続け、雑居ビルの狭い路地に飛び込み、二人はゴミ箱の陰に身を隠した。暗がりの中、パンクしそうな心臓をなだめ、乱れる息を整え、耳をすませて通りを窺う。
 遠くに祭りのざわめきが聞こえてくるが、会場から外れたこの通りは静かで不審な足音は聞こえてこない。時折祭り帰りの人々が視界を横切って行くだけだった。
 男たちは倒れて動けない仲間を置いてこんなに遠くまで追っては来ないだろう。そう判断するとようやく二人は安堵の息を吐いて立ち上がった。
「……どうやら、もう追っては来ないようだな」
「はぁーっ!まったく、あんたときたら何すっかわかんねぇし!」
 未だ息を荒げながらアクセルは小夜啼の頬を両手で包み込む。
「でも、よかった!あんたが無事で本当によかった!一時はどうなるかと……」
「だから最初に絶対俺から離れるなって言っただろう」
「……ごめんな、一人にさせて……。もう絶対手を離さねえから」
 小夜啼はそれには答えず、自分の頬を包む手をそっと引き剥がしてぽつりと呟いた。
「怖かった……」
 その一言にアクセルは驚く。いつも強気な小夜啼がそんな言葉を口にするなど信じられなかった。アクセルの大きな手のひらを撫でながら、黙ってそれを見つめる小夜啼。そんな様子を不思議な気持ちで見ていた。
「あの男たちの事じゃない。ああいう連中は別にどうって事ない。そうじゃなくて、古書屋から出た時お前の姿が見えなくて、何処を探しても居なくて……。馬鹿げているかもしれないけど、このままお前にニ度と会えなくなったらって思うと……凄く怖くなった」
 そんな小夜啼の言葉を聞いていたアクセルは、そっと笑うと彼を抱き寄せ、静かに言った。
「あんた、ほーんと馬鹿。でも、あんたにそんな事思わせた俺はもっと馬鹿……」
 子供をあやすような優しい声色が耳に心地よくて小夜啼は目を閉じる。すると、アクセルの胸が小刻みに揺れて彼が笑っている事を知った。
「……なんてさ、正直に言うと実は俺も怖かったんだ。あんたが悪い人買いにさらわれたらどうしようって、そんな事想像したら足がガクガク震える始末。情けねぇ……」
「何だ、人の事言えないじゃないか。でも、お前にそう思わせた俺は……やっぱり馬鹿って事だな」
 腕の中で小夜啼が小さく笑えば、アクセルが身体に回した腕に力を込めた。
「俺ら、離れ離れの間同じ事思っていたんだなあ。でも俺は怖いからこそ必死だったよ。なかなか手がかりは掴めねえし、あの場所であんたの名を呼ぶわけにもいかねえし、弱気になりかけたけど死んでも諦めるつもりはなかったぜ」
「ハリーって……呼んでもよかったんだぞ……?」
 その言葉にアクセルは驚いた。
「えっ、だって……」
「今夜だけは構わない。今の俺は男娼に見えるか?」
「全然見えねえよ……」
「だろ?花魁・小夜啼は本日定休日、此処に居るのは“ただのハリー”だ」
 そう言って微笑む小夜啼の顔があまりに眩しくて、アクセルは彼の額にそっと口付けた。
「ハリー」
「……ああ」
「ハリー……」
 本名を呼ぶ事を許され、呼べばそれに応えてくれる。ただそれだけの事が嬉しくて、今度は目尻に唇を落とす。
「アクセル、俺の手を離すなよ?決して……離すな……」
 それは命令のようでもあり懇願にも聞こえた。小夜啼の微笑みには微かな悲しみが滲み、まるで尊い誓いを求めるようでもあった。
 アクセルは小夜啼の顔を両手で包み込む。そして誓いの証のように、いとおしむように、彼の唇に触れるだけの口付けをした。
「もう……無理だよ、ハリー。俺には無理だ……」
 ゆっくりと唇を離したアクセルは泣き出しそうな顔をして、呻くように言う。
「これ以上自分を抑えるのは、もう……」
 どうしようもないほど唇が震えて、もう何も言えないとアクセルは思った。小夜啼の肩口に顔を伏せ固く目を閉じる。
「……馬鹿だな……そんな顔するなよ」
 俯くアクセルの頭を引き寄せ、顔を上げさせて小夜啼は言った。
「馬鹿だな……」
 小夜啼の手に導かれるまま覆い被さって、アクセルはもう一度唇を重ねる。細い身体をきつく抱き締めると堪らない気持ちになり、舌を絡めて彼の吐息ごと口内を貪った。

 

 中空に昇った月は夜半になってその輝きを増していた。  月光は、煌々というよりもキンとしたきつい明度を持って下界の闇を容赦なく照らす。光の粒子は太陽のそれよりも細かく滑らかで、その蒼さを惜しみなく撒き散らしていた。  白い肌に留まる汗は月の光によって水晶の輝きを纏い、眦を零れる滴はその軌跡すらも真珠の欠片となる。それらがシーツの波間に消える前に舌で掬えば、それは意外なほど甘露の味わいだった。  鳥は月光を浴びて自らも蒼く発光する。金色の羽毛をシーツの海に散らして溺れているようにもがく。切なげな啼き声が空気を震わせ鼓膜を蕩けさせた。  体温と体液が混じり合う。息を奪い合い、名を呼び合う。身体の中心から先端に向かって言いようのない快感が駆け抜け、それは麻薬のように理性をぐずぐずに侵した。  激流に身を任せるふたつの身体は内側から融け合って一人の人間となる。どちらが己の肉体かはもう意味を成さない。  高みに登れば登るほど激しい感覚に翻弄されるというのに、二人は恐怖しながらも止まる事をしない。せめてすべてを共有し受け止めようと肌を擦り合わせ、肉をぶつけ合う。相手の姿だけを目に焼き付け、一人で飛ばされてしまわぬようしっかり腰を引きつけた。  それでもまだ怖いのだ――と、激しい律動の中伸べられた彼の手に、手のひらを合わせ指を絡めれば、もっと強い力で握り込んできた。  鳥は震えながら全身で命じる。 『決して離すな』と――。  部屋に漂っていた熱は拡散され、冷たい月明かりによって徐々に冷えていった。身体の内側に渦巻いていた激情も落ち着き、今は凪の海に漂う流木のように二人は身を寄せ合う。  狭い部屋の粗末なベッドの中――。  心地よい倦怠感に浸りながら、何物にも代えがたい大切な人のぬくもりを忘れぬよう自分の肌に刻む。泣きたくなるような幸福感に息を詰め、二人は目を閉じた。  時間よ止まれ、と願いながら……。 「……いち、に、さん、し……」  ふいに肩を枕にしていた小夜啼がそんな風に数を口にした。穏やかさが戻った中とはいえ、先程の彼の艶めかしさを思えばあまりにものどかな言い方にアクセルは笑う。 「なーに数えてんの?」  貸してある方の腕を曲げ金色の頭を撫でると、小夜啼はすんなりとした腕を伸ばし、あれと言って壁を指差した。 「地図にピンが刺してある」  部屋の壁に世界地図が貼ってあった。この国を中心にして大陸上に刺さる十数本のピン。小夜啼は薄暗い中、月の明かりを頼りに一本一本数えていた。 「ああ、あれは俺が今までに行った国って事さ」 「刺さっている所全部にか?」 「まあね。でも他所の国といっても同じ大陸だしそんなに遠い所でもないよ。あのでっかい海を越えた事はないしさ」  アクセルはまだ知られていないような美味くて珍しい酒を求め、時折外国まで足を伸ばしていた。輸入酒というのはこの国にもないわけではない。仕入れのほとんどをステファンの会社が手掛けていた。  だがそのような名の通った酒ばかりでなく、世界にはまだまだその国独自の酒があるはずだ。小さな酒蔵で誰も知らないような隠れた銘酒を、アクセルは自分の足と舌を頼りに探していた。 「お前は仕事熱心なんだな」 「半分道楽だよ。最近は生活がまだ安定してなくて行ってないしね」  父親から代替わりしたばかりでやらなければならない仕事が山のようにあった。そして今後の政治が酒屋に及ぼす影響も懸念材料である。 「船乗りと飲み比べして相手を酔い潰したって話はどの国だ?」 「あの、うんと下の赤いピンの所だな」 「じゃあ、スリに間違われて逮捕されかけたって所は?」 「その真上のピン……って、よく覚えてるな、そんな話」  アクセルが部屋に来て語ってくれた話を、小夜啼はひとつとして忘れてはいない。その間だけは遠い異国を一緒に冒険している気分になれた。 「行ってみたいだろ?」 「……そうだな」 「今度行く時は一緒に来てくれる……?」  この場の会話の流れに乗ってアクセルはあえてさらりと言ったが、それがどんな重さを持つか二人ともわかっていた。小夜啼はそれきり黙り込み、しばらく考えた後ためらいがちに小さな声で言った。 「俺なんか付いてったら……足手まといになる……」 「それは違うよ」  間髪入れずに笑いながらアクセルが反論した。 「足手まといどころか、俺はいつだってあんたに導かれてきたんだ」 「……言ってる意味がわからない」  導かれたとはどういう事か……。謎めいた言葉に小夜啼が顔を曇らせると、アクセルは半身を起して彼を見下ろした。 「そのうち話してあげるよ。それより、次の休みの日も会える?」 「ああ……たぶん……」 「よかった……」  アクセルは微笑むと小夜啼の唇を塞いだ。口付けを深くしながら彼の身体に手のひらを乗せ下肢に向かって滑らせる。身体の芯に再び火が灯り、小夜啼はアクセルの頭をかき抱いた。  次の休み……。再来週また会える。たった14日後――。  だが、それが叶わぬ約束だという事を、この時の二人はまだ知らなかった。