それは突然の出来事だった。一部のジャーナリストたちはいつか起こりうると以前から唱えていたが、政府は国民の暴動には警戒していたものの、様々な理由を付けてその説をもみ消していた。政治家たちは現実から目を背けたかったのだ。しかし、それは起こった。 この国の統治機構は国民にではなく、自国の軍隊によって一夜にして塗り替えられた。 夜の10時――。官庁が建ち並ぶ中心部は静まり返り、各家庭では団欒のひと時。退屈で平和で穏やかな、そんないつも通りの夜だった。 軍は首都であるこの街の主要機関を一斉に占拠した。大統領官邸、閣僚官邸、主要各庁、空港、通信機関、その他国営施設。国軍という巨大な武力の前に、非力な政治家や役人は成す術もなかった。 電話局は占拠され通信手段が断たれた。同様にテレビ局や新聞社など、マスコミも軍に抑えられ、情報のすべては軍隊に管理される事になる。 空港は閉鎖、すべての便の離発着は中止。国境にも軍が配備され、道路は通行止めされた。鉄道も全車両停止、人と物資の流出入は止められる。この国は他国から完全に遮断された。 政治の中枢に居た官僚たちは逮捕・拘束され、その数は十数名にも及ぶ。折しも大統領が外交で他国に赴いていた時であった。今回のクーデターの決行は、まさに国で最も影響力を持っていた大統領が不在の時を見計らって起こされた作戦だった。この武力による政権交代によって現大統領は帰る場所を失った事になる。 夜のうちに、街は銃を持った兵士と戦車に埋め尽くされた。 誰一人として家の外に出る事が出来ず、通りから人影が消えた。人々はただならぬ事態に不安を抱きながら、家族で身を寄せ合う事しか出来ない。情報を求めるも、テレビ、ラジオはスイッチを入れても沈黙したまま、電話も不通になった。ただ、街中を、家から出ないようにと呼びかける装甲車が何度も行き交うばかりだった。 夜が明け、この国で何が起こったのかを国民はようやく知る事になる。 早朝、軍隊は占拠した放送局で国民に向けたメッセージを放送した。今回の作戦を指揮した陸軍最高司令官なる男がテレビカメラの前で熱弁をふるう。 昨夜の作戦の全容を明かし、現政権の官僚たちの逮捕を伝え、一時的に機能を停止させている機関・施設の早期再開を約束した。 「全人口の僅か1パーセントの貴族と、4パーセントの金持ちのために、勤勉なる平民が辛酸を舐める時代は終わりである!農村では子供たちが餓死し、娘たちは売られる!腐敗した役人どもは汚れた欲望を正当化し、歪んだ社会構造を作り上げ、搾取し、私腹を肥やし続けてきた!この悪政から我が国を立て直すには正義の武力で自由と平和を勝ち取る必要があったのだ!」 国旗を背に軍服を着て演説する、このテレビの中の男を、ほとんどの国民は知らない。だが、その熱さに人々は心惹かれた。 「独裁者は去り、その手下たちは正義の裁きを受けるであろう!本日より我が国は自由と平等の国へ、そして神から祝福される正しく清潔な国へと生まれ変わる!親愛なる国民諸君、真の自由国家として発展していくために諸君らの理解と協力が不可欠である!我々は諸君らに約束しよう!若者に夢を!子供に教育を!労働者に富を!すべての民に自由を!新国家万歳!」 このメッセージは一日に何度も再放送された。テレビがない貧しい家庭も多いため、街の広場に街頭テレビを設置する徹底ぶりである。おかげで多くの人々がこのメッセージを受け取った。 新国家万歳!と、何人もの国民がテレビの前で唱和した。金持ちによる金持ちのための政治ではなく、今度は貧しい者にも住み良い国になるのだと、多くの国民は期待した。 3日後、新たな大統領を決める選挙が行なわれた。スローガンとして掲げる“自由と平等の国”らしく、国民のすべての有権者が投票出来る直接選挙であった。 候補者はテレビ演説をしたあの陸軍最高司令官のみである。信任か不信任か二者択一という事だが、誰の目にも司令官が信任を受ける事はあきらかだった。クーデターを実行した軍の上層部は皆平民の出身なのだ。司令官も中流家庭の出である。 貧しい者の苦労をわかっている叩き上げの軍人、理想を持った強い指導者。彼は民衆にそんな印象を与えていた。加えて弁が立つ事から、彼の話をひとたび聞いた者は心酔していった。 そして開票結果、彼は64パーセントの信任を得、新大統領に決定した。 64パーセント……。この数字は意外であった。過半数を得て信任されたものの、軍にしても本人にしても9割の票が入ると見込んでいたのだ。司令官に好意的な声しか聞こえてこないように思われていたが、彼にNOと言う者は4割弱居るという事である。 このクーデターは無血というわけではなかった。大統領官邸を占拠する際、大統領の近衛部隊の抵抗に遭い応戦。攻撃ヘリを撃墜し近衛部隊の兵数名が犠牲になっている。そんな暴力的な改革を非難する者は多かった。 もうひとつは経済政策の具体性のなさである。軍部が掲げる理想に平民は酔ったが、経済人はシビアに捉えていた。労働者に富をもたらすどころか、雇用の受け皿は減り、職を求める者たちが街に溢れるのはあきらかと考えていた。 この4割弱は新政権の行方に今後影を落とす事になるのだと、上層部ではわかっていた。クーデターが起こった翌日から翠鳴楼は休業状態だった。もっとも、戒厳令が発令され、夜間の外出禁止令は未だに続いており、人々は娼館遊びどころではなかった。 予約はすべて白紙になり、問い合わせの電話もない。客だけでなく従業員も出勤出来ない状態で、ジーラと娼婦たちは手分けして身の回りや娼館の雑用をこなす。翠鳴楼の商売は完全に停止していた。 3日目、大統領選挙の日。ようやく主要スタッフのみ出勤が認められた。支配人、副支配人、会計担当者、総務担当者、そして料理長。彼らが一堂に会した所で運営会議が開かれる。今後の翠鳴楼についての話し合いに、娼婦を代表して古参である小夜啼も同席した。 ジーラの決断は潔かった。翠鳴楼はこのまま営業再開には至らず廃業になるだろうと、きっぱり結論付けたのだ。寂しさ、悔しさが他の者たちの顔に浮かぶ。ジーラの決断に異を唱えたくも、この場に居る誰もが娼館の運命を悟っていた。 その日の内に翠鳴楼の財産でもある顧客データは残らず抹消された。発つ時に後を濁さぬ鳥のように、娼館は顧客の秘密と安全を守る。閉鎖が決まってからでは遅いのだ。閉鎖命令が出された直後必ず軍が来て顧客データの提出を求めてくる。当局に没収されてしまう前に、ジーラはけじめを貫いた。それは格式高い娼館としての、翠鳴楼の最後の仕事であった。 すべてのデータの消去が完了した時、総務担当者は男泣きに泣いた。そして女将ジーラに深々と頭を下げ、今までありがとうございました、と言った。 翠鳴楼が休業状態に入ってから、娼婦たちは皆一人になる事はなく一部屋に数人ずつ集まって過ごすようになる。この不穏な事態と娼館の運命に誰もが不安だったのだ。 小夜啼の傍には常にテオが寄り添っていた。 「小夜啼さん、お茶が入りましたよ」 テオは努めて明るく振る舞う。自分の不安を紛らわすために、というより小夜啼を思いやっているのがわかる。こんな小さな子供なのに、と小夜啼はテオの芯の強さを感じた。 「此処の警備、まだ厳重ですね……」 窓から外を眺めテオは呟いた。南面の窓から軍用車両と数人の兵士が見える。 「まあ、おかげで俺たちは守られているわけだがな」 クーデターの日から翠鳴楼の周りは軍に警備されていた。それには理由がある。軍隊が起こしたこの動乱が過激派を刺激しているのだ。娼館反対を唱えるグループが興奮して翠鳴楼を襲撃する可能性があった。 軍隊としては民間レベルの戦闘が起きないよう神経を尖らせていた。小さな争いが火種になり大きな混乱に発展するのはままある事だ。以前から平民の反感を買っていた娼館という存在は、危険な着火剤でもあるのだ。 警備は不審な民間人ばかりでなく、出入りしていた業者の立ち入りも禁じていた。もっとも、業者が来てもする事は何もない。毎月の支払い日にもまだ遠く、その頃には立ち入り禁止が解かれる見通しであった。 小夜啼はアクセルを想った。酒屋の商売はどうなるのだろう、と考える。そして、今頃どんなに自分の身を案じてくれているだろうか、と考える。此処に駆け付けたくても敷地に近付く事すら出来ない。自分をはじめ娼婦たちも安全性の問題で外に出る事を禁じられているのだ。 次の休みの日にまた会おう――という約束は果たされない。最後に会った時のアクセルの陽だまりのような笑顔と温かい胸を思い出すと胸が詰まった。 そして壁に貼られた世界地図。 『行ってみたいだろ?』 ――ああ、行ってみたいさ。 『今度行く時は一緒に来てくれる……?』 知らない国を二人で歩く。アクセルが指差す方を見つめる。その風景はきっと美しいのだろう……。 ――連れて行ってくれるのか? あの夜言えなかった言葉……。それを心の中で言うと、目の奥が熱くなった。 「テオ、心配するな。厳戒態勢は必ず解かれる。そうしたら俺たちは何処へでも行ける」 少年の顔を真っ直ぐ見つめて、小夜啼はきっぱり言った。半分は自分に言い聞かせるためでもあったが、テオは口をしっかり引き結び、大きくゆっくり頷いた。 「はい、いつかイヴォンお爺ちゃんも言ってました。“始まりには必ず終わりがある”って」 この聡明で素直な少年を、小夜啼は大切に思ってきた。かけてやる言葉はいつも素っ気なかったにもかかわらず、今まで彼は小夜啼を慕い尽くしてきた。 そのテオも本来なら来年か再来年には男娼として具体的な事を学ぶはずだった。そしてそれを教えるのは、ステファンではなく自分の役目だろうと小夜啼は思っていた。自分がテオの初めての男になり、男娼として生きるすべてを教える。だが、それは現実のものにはならない。それに小夜啼は内心安堵していた。テオには普通の恋愛をし、普通の結婚をして幸せになってほしいと思っていた。 「翠鳴楼はなくなるんですよね……」 「ああ、そうだ……」 ぽつり、と呟かれたテオの問いに、小夜啼は毅然と答える。短い会話の後にどうしようもない寂寥感が押し寄せる。だが小夜啼は顔を上げて言葉を続けた。 「この娼館はなくなる。だが、俺もお前も他のみんなも、人生は続いていくんだ」 始まりには必ず終わりがある――。だが、終わるからこそそこから始まるものがある。 そして、ついに新政府は動き出す事になる。新大統領は早速組閣に着手。自分の脇を固める官僚たちを任命し、臨時国会を開いた。 その結果、以前から問題視されていた娼館は廃止。ポルノ映画やストリップ劇場などいかがわしい娯楽施設、そして犯罪の温床になるとしてカジノも廃止される事が決まった。また、酒は人間を堕落させる危険な薬物の一種として販売も飲酒も禁止となった。 それは、クーデターから僅か一週間というスピードの大変革だった。 夜の帳が下りる。だが、正門から正面玄関までのアプローチにガス灯は灯される事はなく、辺りは闇に包まれていた。 重厚な段通を踏みしめ、小夜啼は廊下を歩いていた。裸足でない今、その高級絨毯の肌触りはわからない。彼はいつもの単衣も打掛も脱ぎ、洋服を着、靴を履いていた。もう男娼の格好をする事もない。 ゆっくり階段を下りていく。マホガニーの手摺に手を触れる。深い飴色のそれは凝った彫刻が施され、名のある職人の手によるものだと、彼は幼い頃聞いた事があった。 窓辺に目をやると高さ5メートルにも及ぶカーテン。素材は天鵞絨。女中たちがいつも丁寧に埃を払い、今でも美しい深緑を保っている。この一枚から貴婦人のドレスが何着作れるだろうか。 小夜啼は一階に下り立ち、吹き抜けの天井を見上げる。大きなシャンデリアが5基、フロアを明るく照らしていた。クリスタルと真鍮と天然の貝殻が使われている豪華な照明器具である。一体いくらの値がするのか、誰にも想像が出来ない。 吹き抜けを仰いだまま小夜啼は目を閉じた。 正面の扉が開き、やってきた紳士に支配人が慇懃に挨拶した。階段の隅で有能な用心棒が辺りに目を光らせている。厨房から料理人たちの怒声が飛んできた。客が入る時間が迫り、料理の準備で此処はまるで戦場だ。上等なワインを惜しげもなく使ったデミグラスソースの匂いがしてきて空腹を誘う。客が女たちを両脇にはべらせてソファに座っている。好色そうな笑みを浮かべ何か耳打ちすると娼婦たちはクスクス笑った。華やかで活気あるラウンジの風景……。 そんな、翠鳴楼で毎夜繰り返された出来事。香水や煙草やブランデーの匂いが、人々の笑い声が、壁や天井に沁み付いていた。娼婦たちの涙も、嫉妬心も、客と本気の恋に落ちた切なさも、この館はすべて見てきた。 小夜啼は目を開けた。華やかな在りし日々の残像と残響が亡霊のようにまだ漂っていた。 この地に建って100年。男と女の欲を包み込み、愛も憎悪も見守り続けて何十年。栄華を極めた館はその役目を終えた。 後には、夢のような思い出だけが残った。 ラウンジのソファにジーラが座って何か書き物をしている。小夜啼が近付いていくと、彼女は目を上げ笑顔で迎えた。 「何書いてるんだ?」 「お手紙よ。お世話になった業者の皆さんに閉館の挨拶状をね」 一件ずつインクで書かれた丁寧な文字。お詫びと今までの感謝の言葉……。礼を尽くす去り方は実にジーラらしかった。 「そういう小夜啼は何しているの?晩ごはんはまだよ?」 「そんなんじゃない。俺が育った家を目に焼き付けるためブラブラ歩いていただけだ」 小夜啼が顔をしかめて答えると、ジーラは笑ってペンを置き眼鏡を外した。 「19年、なのよね……。この屋敷の事は柱の傷まで知っているんじゃない?」 「たぶんジーラより詳しいだろうな。子供の頃ずいぶんあちこち探検したし」 「急に居なくなって大騒ぎした事があったわ」 「あの時は爺ちゃんとかくれんぼしていたんだ」 「お前は本当にイヴォンを振り回していたわね。なかなか見つからなくて、もう少しで捜索願を出すところだったのよ。建物の中なのに」 「翠鳴楼が広過ぎて、俺の身体が小さ過ぎて、爺ちゃんが年寄り過ぎてたのが計算外だった」 そればかりではない。高価な置物を壊して支配人にこっぴどく叱られた事、カーテンによじ登ってジーラにお仕置きで納戸に閉じ込められた事、階段から転げ落ちた事もあった。幼い頃の小夜啼はずいぶん周囲の人たちをハラハラさせたものだった。 此処には小さな小夜啼の姿がそこかしこに在る。思い出たちが次々記憶から飛び出してきて、小夜啼とジーラは顔を見合わせて笑った。 「俺は幸せだったよ、ジーラ……」 金では買えない幸福な思い出を山のようにくれた人……。 「此処を出て行くのね……?」 小夜啼の呟きにジーラは透き通るような微笑みを浮かべ、そっと言った。 「ああ、行くよ。自分に何が出来るかわからないけど、これからそれを探したいと思う」 「行きなさい。“その時”が来たのよ、小夜啼」 巣立って行こうとする一人息子の背中をジーラは押す。子供に縁などない、おっとりとしたお嬢様育ちの義理の母は、それでもやはり母親だった。 「ジーラはこれからどうするんだ?この屋敷もどうなる?」 そう問われて、廃業が決まっても悲壮感の欠片も見せない女将は不敵に微笑む。 「この屋敷も土地も私の名義よ。国は娼館廃止と言ったけど、個人の財産までは没収出来ないでしょ?しばらくは空き家になるけど、国情が落ち着いたら、いつかホテルにしようと思うの」 「よかった、此処は生まれ変わってこの先も続いていくんだな」 「勿論よ、こんな美しい屋敷を手放すものですか。何年かかっても実現させるつもりよ」 ジーラは常に先の事を考えている。閉鎖命令が出されたくらいでへこたれはしない。それでこそ翠鳴楼の凄腕女将だ、と小夜啼は思った。また彼女の周りに人が集まり、歴史を作っていくのだ。 「娼婦のみんなは故郷に帰っていくのか?」 「そうね、急な事だからまずは帰るしかないでしょうね。寂しくなるけど……」 娼婦たちは此処での日々をどう思っていたかを小夜啼は考える。 望んで来たわけではなかったはずだ。貧しさ故に金で買われたのだ。その事が彼女たちの今後の人生にどう影響するだろうか。好きな男を振り切って来た者も居るだろう。金のためとはいえ、愛のない男に身を任せるのはつらかったに違いない。 だが、来たばかりの田舎娘たちは此処で見違えるように美しくなった。内面も磨かれ教養も身に付けて、翠鳴楼の娼婦はどんな高貴な貴婦人と比べても引けを取らない。その自信を持って幸せに生きていってほしいと願う。 彼女たちは皆優しい女たちだった。 「そうか……。故郷に帰らないのは身請けされたセイレーンだけなんだな……」 「……その話はなくなったわ」 ジーラの言葉に小夜啼は驚いて身を乗り出した。 「なくなった?何故!」 セイレーンから身請けを承諾すると小夜啼が聞いたのは、僅か一週間と少し前である。 「今朝早く伯爵さまが逮捕されたのよ。新聞にも出ているわ」 ジーラが差し出した今日の夕刊を小夜啼は食い入るように読んだ。 クーデターが起こる前から、伯爵は保守派の若手グループに多額の資金援助をしていたのだ。金の使い道は明かされていないが、多額であるため闘争資金の可能性が高い。武器の購入に使われているかもしれないとの見方もあった。 そうだとすると新政権にとっては脅威である。 「反乱分子狩りが……始まったんだな……」 記事の見出しは大きかった。この件がいかに大事件か窺い知れる。そして大きく扱う事は他の反対勢力に対する威嚇でもあった。 「奥さまから、お話は白紙にとのお電話をいただいたの。それどころではないでしょうに、わざわざお電話くださるなんてご立派な方ね。……本当にお気の毒だわ」 セイレーンは身請けに応じるために恋人と別れた。この話が白紙になったからといって再び恋人のもとに戻る事は、彼女の性格からして考えにくかった。 自分の事より小夜啼の幸せについて、何度も何度も繰り返し願っていた優しいセイレーン。彼女の皮肉な運命に小夜啼はやりきれない気持ちになる。結局、セイレーンは自分を愛してくれた二人の男を失ったのだ。 彼女が信じる神様を小夜啼は恨んだ。 その時、慌てたような足音が聞こえて二人は顔を上げた。 「マダム!マダム・ジーラ!」 声の方を見れば支配人が小走りになってやって来るところだった。 「どうしたの?」 「あの、軍の方々がお見えなのですが……」 「軍?外を警備している人たち?」 「いえ、それが……軍警察の方々で……」 支配人が言い終わらぬうちに正面のホールから兵士数名が歩いて来た。小銃を構えヘルメットを目深に被った兵士が5人、糊の利いた軍服を纏った将校が一人。 兵士たちに目を向けたまま、小夜啼とジーラはゆっくり立ち上がって彼らを迎えた。 「あなたが翠鳴楼の女将マダム・ジーラですね?」 「そうですわ」 長身の将校が冷たい目でジーラを見下ろした。軍服の胸には略章が縫い付けられている。襟の階級章は“中佐”だった。 「この娼館に小夜啼という名の男娼が居ますね?」 「俺が小夜啼だ」 ジーラが答える前に小夜啼が自分から声を上げると、将校は帽子のつばの陰から鋭い視線を送ってきた。傍にいた兵士がすかさず書類を将校に手渡す。鋭い視線が書類の上を走り、そして再び小夜啼に戻った。 「……小夜啼だな?君には逮捕状が出ている。陸軍本部まで来てもらおう」 その場に居る翠鳴楼の全員が一瞬シンと静まりかえった。 「……逮捕……?」 言葉の意味がすぐには飲み込めず、小夜啼は茫然と呟いた。 「そ、そんな馬鹿な!一体どういう事かね!」 声の主は副支配人だった。かつてなかった軍警察の来訪に、事務室から会計担当者と総務担当者も出て来ていた。 「本当に、どういう事ですの?小夜啼は逮捕されるような事は何ひとつしていません。何かのお間違えですわ」 ジーラが小柄ながらもすっくと背筋を伸ばし、将校を厳しい目で見上げる。将校もそれを受けて冷たい目で彼女を見下ろした。 「国家に対する反逆行為です、マダム」 そう前置きをして将校は言葉を続けた。 「客である陸軍将校から今回の作戦の情報を引き出し、一部の旧議員にそれを漏らして報酬を受け取った。おかげで議員数名は事前に国外へ逃亡。現在もまだ捕まっていない。彼は犯罪者の逃亡ほう助を行なった。それだけではなく、旧政権の政治家と繋がって反乱計画の情報の受け渡し役をやっていた……」 「俺はそんな事はしていない!」 さすがに何ひとつ身に覚えのない小夜啼は声を荒げた。 「そんなのでっち上げよ!」 「彼は何も悪い事をしてないわ!」 「あなたたちの捜査は見当違いよ!」 「そうよ!出てって!」 頭上から降ってくる女たちの声に小夜啼が振り向けば、階段の踊り場にいつの間にか娼婦たちが居た。ほとんどの娼婦が集まっており、彼女らは手摺から身を乗り出して口々にまくし立てていた。 普段しとやかな彼女たちは完全にいきり立っており、階段から下りてこようとしている。それを察して、小夜啼は慌てて娼婦たちに手を伸ばした。 「みんな、下りてきちゃだめだ!」 小夜啼が懸念した通り、兵士たちが彼女らに銃を向けた。今にも引き金を引きそうな構えに、娼婦たちの間から短い悲鳴が上がる。 「銃を下ろしなさい!此処での暴力は女将の私が許しません!」 「あなた方こそわかってないようだな。男娼だけでなく、邪魔する者は公務執行妨害でしょっぴいてもいいんだぞ!」 将校の言葉にジーラは唇を噛んだ。 「ジーラ、心配いらないよ。こんな事、俺は無関係だって調べればわかるさ。俺はきっとすぐ帰ってくるから」 小夜啼はジーラを抱き締め、安心させるために笑顔で言った。そして支配人たち一人一人の肩を抱き、ジーラと娼婦たちを頼むと告げると将校に向き直る。 「何処にでも行ってやるさ」 小夜啼のその一言が合図になって、兵士の一人が手錠を取り出し彼の両手にかけた。 「小夜啼こと本名ハリー・ブライアント、国家反逆罪で逮捕する」 両脇から二人の兵士が小夜啼の腕を掴み、後ろから背中に銃を突き付け、将校を先頭に彼らは玄関へと向かった。 娼婦たちのすすり泣きが聞こえ、背中に怒りと悲しみに満ちた視線を感じて小夜啼は振り返る。 「みんな!すぐ帰るから!心配しないで!」 大きな声で呼びかけながら、小夜啼は娼館の外へと消えていった。