「――もう一度訊く。客の政治家から色んな話を聞いているだろう?寝物語に何を聞いたか残らず言うんだ」
 テーブルを挟んで下士官が覆い被さるように顔を寄せて言った。
「俺は何も聞いちゃいない。そんな話をしてくる客なんか一人も居ない」
「……頑固な奴だ、まだシラを切る気か?」
 何十回も繰り返される問い。それに小夜啼も同じだけ同じ答えを返し、物事は一歩も進展しなかった。
「弁護士はどうした。何故、弁護士を付けてくれないんだ!」
「要求だけは一人前だな。お前の弁護をする者なんざ居ないんだよ!」
「そんな……無茶苦茶だ……!」
 すると、傍に居た将校が下士官の肩に手を置き、彼と交代して小夜啼の前に座った。
「君が真面目な性格だというのはよくわかる、小夜啼。……ああ、小夜啼と呼んでも?」
「……どうとでも好きに」
 短気な下士官と違い、この将校は穏やかな接し方をしてくる。そのやり方は気弱になり始めている容疑者の心理に付け込む常套手段だという事は、小夜啼にはわかっていた。それでも、まくしたてる言い方にいい加減イライラしていた彼はホッとした。
「翠鳴楼が一流の娼館である理由はいろいろあるだろうが、客の秘密を守る事に関しては本当に徹底していると思う。ましてや国内最高とまで言われた男娼ともなれば、そう易々と口を開きはしない。それは我々にもわかっていた。それでもな……」
 将校はテーブルの上で手を組み、落ち着いた声でゆっくりと言葉を続けた。
「娼館は廃止されたんだ。君はもう男娼ではない。今後君が守らなければならないのは、翠鳴楼の名誉でもなく客の秘密でもない、国家の規律だよ。わかるかね?」
「……だが、何度訊かれても知らないものは知らないんだ」
 それを聞いて将校も下士官も深く溜め息をついた。

 警察という組織はクーデター以降、今や陸軍が深く関わっており、最高幹部のメンバーは半数が軍人で占められている。法の世界に国防機関が入り混じった状態だった。
 小夜啼が収監された拘置所は首都中心部の陸軍本部に隣接して建っており、主に政治的犯罪者を扱っていた。したがって此処の所員は軍人ばかりである。刑期が確定している囚人の他に取り調べ中の容疑者も一時的に収監されていた。
 小夜啼は独房だった。若く容姿端麗な小夜啼を他の囚人と一緒の房に入れるのは、オオカミの群れに羊を投げ込むようなものである。そこに性暴力が起こるのは目に見えている。そんな理由以外に、何としても彼を他者と接触させるわけにはいかない軍の思惑もあった。
 看守は交代制で昼夜問わず、何十分かに一度小夜啼の様子を見に回って来る。廊下に面した壁は半分以上がガラスと鉄格子であり、身を隠す死角になる所はない。
 小夜啼は、突き刺すような看守の目に晒され過ごすのが不快で仕方なかった。毛布に包まり寝ていると重い軍靴の足音が近づいてきて背中に刺さるような視線を感じる。彼にはそれが長い時間に感じた。
 朝は6時に起床。午前中は一時間だけ拘置所の中庭に出られた。勿論、小銃を構えた兵士が傍から離れない。塀の高さは5メートルはあり有刺鉄線が張り巡らされている。ご丁寧に昼も夜も塀には武装した兵士が見張りに立っていた。脱走などは不可能であった。
 昼食までの時間は新聞を読む事が許された。小夜啼は自分の逮捕についての記事を探すが、奇妙な事に新聞には“男娼”の文字も自分の名前も見当たらなかった。
――自分の逮捕は世間に伏せられているのだろうか……。
 そう考えるも、その理由はわからなかった。

 午後からは取り調べが延々続いた。
「いい加減吐いちまえ。お前は客から何を聞いてる?政治家の助平ジジイと夜通し“親密”になっていたんだろう?政治の話の10や20、事の最中に喋っているだろうが。大企業のお偉いさんも同様だ。反乱について言う奴は居るはずだ」
 小夜啼はそんな尋問に毎回知らないと言う事に疲れ始めていた。溜め息をつく事にも飽きていた。思わず声を張り上げて言いたい事を言う。
「何処の馬鹿が男娼の部屋でそんな萎えるような話をするっていうんだ!じゃあ、あんたはセックスしながら仕事の愚痴を相手に零すのか?」
「貴様、俺を愚弄するつもりか!」
 取り調べをする下士官は大声で怒鳴ると机を叩いた。だが、小夜啼はそれに怯まない。
「俺が反逆者だという証拠は何処にあるんだ!こんなの不当逮捕だ!何故、弁護士を呼んでくれない?裁判はどうなっているんだ?」
 小夜啼が興奮すると必ず宥め役の将校が割って入った。そして彼の質問はすべてうやむやにされ、その日の尋問が終わる。
 小夜啼は最低限受けられるはずの多くの権利を奪われていた。面会はなに人であろうとも許可されなかった。勿論差し入れも受けられない。外部への連絡は何であろうとも許されない。
 罪人の身とはいえ理不尽な扱いだった。日々繰り返される尋問もまったく意味のない事である。ただ、暴力を振るわれる事がないのが救いだった。
 小夜啼が逮捕されて一週間が過ぎていた。


 ある日、小夜啼の独房に手紙が届いた。
「ジーラ!」
 僅か一週間と少しの間なのに懐かしいと感じるジーラの丁寧な文字。封は開けられていた。検閲されているのだ。自分の人権はどうなっているのだ、と憤りを感じつつ、それでも許可されないと思っていただけに外部からの手紙は嬉しくて堪らなかった。
“私の息子、小夜啼へ”で始まるその手紙はジーラと翠鳴楼の近況が綴られていた。
 翠鳴楼は数日前、正式に解散した。従業員と娼婦たちに最後の給料を渡し、皆で抱き合って別れを惜しんだ後、それぞれが新たな人生に出発していった。そして、支配人をはじめ主要スタッフ、驚く事に何人かの娼婦までが、ジーラの次なる事業の力になりたいと声をかけてくれたと書かれていた。
 セイレーンについての記述を読んだ時、小夜啼は叫び声を上げそうになって慌てて口を押さえた。解散の日、別れを告げたはずのセイレーンの恋人が彼女を迎えに来たのだ。彼女の恋人は泣き崩れるセイレーンの肩を抱いて、娼婦たちの拍手と歓声の中、予定していた行き先とは違う方向のバスで去って行ったという。
「セイレーン、よかった!本当によかった……!」
 心が震えるような喜びに、小夜啼は目を閉じ思う。
 かつてセイレーンは自分を“傍に居ると力が湧く”と言っていた。だが、彼女こそ傍に居る者を温かな気持ちにさせる。彼女が信じている神はやはりすべてを見ていたのだろうか。人々を優しさで包み込んできた女には愛に溢れる場所が用意されていたのだ。
 そして、ジーラの手紙の最後はこう締めくくられていた。

『お前の愛する人たちはみんな元気よ。そしてお前が思う以上にみんなお前を愛しているわ。自分とみんなを信じて。私たちも信じています。愛を込めて――ジーラ』

 もしかしたらジーラは手紙が検閲を受ける事を知っていたのかもしれない、と小夜啼は思った。
 お前の愛する人たち……。ステファンやイヴォン老人、そしてアクセル。彼らがどうしているのか、元気でいるのか、知りたくて堪らない小夜啼の気持ちをわかって敢えて“お前の愛する人たち”と記した。
 客である彼らの安全を守るため、彼らの動向と小夜啼との関係が軍に知られぬよう、ジーラは一切の情報を伏せたのだ。ただ、小夜啼が察する事が出来るようにと祈りながら。
――元気なのだ、ステファンもイヴォンもアクセルも。そして自分を想ってくれている。
 返事を書く事は許可されていない。せめて、この手紙にどんなに励まされたか、そんな気持ちがジーラに届くようにと彼は願った。
 就寝時間で灯りが落とされるまで、小夜啼は何度も手紙を繰り返し読んだ。


 中庭に出るには上着を着ないと寒い季節になった。
 与えられた一時間、小夜啼は太陽の光を浴び冷たい空気を胸いっぱい吸い込む。白い息を吐きながら空を見上げると、薄い青空には雲ひとつなく晩秋の空だった。
 アクセルと一緒に秋空の下を歩きたかった、と小夜啼は思う。あの男と見る秋の風景はどんなだったろう……。せめて、背後から銃口を突き付けてくる見張りの兵士がアクセルで、持っているのはオモチャの銃なのだ、と想像すると少しだけ笑えた。

 此処に収監されて一ヶ月が過ぎる頃、変化が起こった。あれだけ執拗だった尋問がまったく行なわれなくなったのだ。
 あの無意味なやり取りがなくなってストレスが減って、よかったと喜ぶべきか……。否、逆である。何かが進展したのではなく、停止したのだ。それは小夜啼の今後を決める裁判もないという事である。裁判どころか一度も弁護士が訪れていない。
――この逮捕は何か変だ……。
 自分の運命が好転する材料が、彼には何ひとつ見出せなかった。

「おい、看守!」
 見回りに歩いて来た看守に小夜啼は声をかける。
「取調官のあの将校に会いたい!俺が話したがっていると伝えろ!」
 だが、囚人と言葉を交わしてはならない規則があるのか看守は何も答えず、感情のこもらない目で彼を見下ろした後踵を返した。
「待て、行くな!俺の裁判はどうなっているんだ!弁護士を呼んでくれ!」
「うるさい。静かにしろ」
 看守は振り返り一言だけ言うと歩き去って行った。
「俺は何もやっちゃいないんだ!捜査し直せ!俺は無実だ!」
 誰も居ない廊下に小夜啼の叫びだけが虚しく響いた。鉄格子を硬く握り締め、彼は項垂れる。ずるずるとその場に膝を付いた。
――何故、俺は逮捕されたんだ……!
“自分とみんなを信じて”というジーラの言葉だけが彼の支えだった。


――カチャン!
 ある夜、小夜啼は金属音に眠りを覚まされた。
 人の気配がし、焦点の合わない目を扉の方に向ける。廊下の明かりを背にし、誰かが鉄格子の内側に居た。その普通ではない状況に小夜啼は慌ててベッドから身を起こす。
 誰だ!と叫ぼうとした瞬間、男が素早くベッドに上がってきて彼の身体に馬乗りになり、口を塞いだ。
「声を出すな……」
 囁く低い声。暗がりの中、小夜啼は目の前の男の顔を見つめる。男は看守の一人だった。
「ようやくこの機会が巡ってきたぜ、ブライアント。……いや、伝説の小夜啼鳥」
 発情した雄の目が嬉しそうに細められる……。それを見て小夜啼は瞬時に察した。
「離せ!」
 頭を振って手のひらから逃れ腕を突っぱねる。だが看守は彼の両手首を掴むと枕に縫い付けた。
「あんたの事は前から知っていた。軍のお偉いさんがあんたを抱いて骨抜きになったって噂も聞いた事がある。俺のような下っ端軍人には手が出ない最高級の男娼。どんなに小夜啼鳥を抱いてみたいと思った事か……!」
 看守は身を屈め小夜啼の首に舌を這わしてきた。首から耳へ、そして頬へ……。その不快さに小夜啼は硬く目を閉じる。腹に男の股間が当たる。それはすでに勃起していた。
 大きな手が小夜啼の手首をひとまとめに握り込み、彼の頭の上へと押さえ付けた。空いた右手が夜着のボタンを外していく。
「いやだっ……!やめろ……!」
「いやだと?嘘をつけ。此処に来る前は毎晩男に可愛がられていたんだろう?もう一ヶ月もご無沙汰だと、あんたも欲しくて堪らないだろうが」
 熱い手のひらが肌を撫で回し、胸の先端を舌でねぶられた。
「……ッあぁ……!や……めろ……ッ!」
 小夜啼がもがいても、体重をかけ押さえ付ける軍人の力は強く、逃れる事が出来ない。
「おとなしく抱かせろ。あんたは明日には他所に移される。チャンスは今しかないんだ」
「よ……そ……?」
 思わぬ話に小夜啼の抵抗が止まる。その顔を見て看守は目を細め囁いてきた。
「そうだよ。あんたは明日アトロポス監獄に移されるんだ」
 それを聞いて小夜啼が目を大きく見開いた。
 アトロポス監獄は誰もが知っている重犯罪者収容施設である。この街の郊外にある高い山の頂に建つ巨大な要塞で、その不気味なシルエットは街中からも目視出来た。
 その監獄には殺人犯は勿論、政治犯も収容され、最も軽い罪の者で懲役100年。つまり死ぬまで牢獄から出られない。この国には死刑制度はない代わりに、重犯罪者は一生アトロポス監獄に収容されるのだ。
 険しい山頂と厳重な警備であるため、今まで脱獄に成功した者は一人も居ない。一度入ると二度と出る事が出来ない事から、そこは別名“終の住み家”と呼ばれていた。
「そんな馬鹿な……!裁判もやってないのに何故俺がそんな所に移されるんだ!」
 裁判?と、看守は可笑しそうに口元を歪めた。
「そんなもの、最初から予定されてない。あんたは人知れず居なくなってもらわないと偉い人たちが困るらしい」
「どういう……事だ……」
「何も知らないようだから最後に教えてやる」
 茫然とする小夜啼から上体を起こし、看守は面倒臭そうに溜め息をついた。
「新政権の大臣たちの中にはあんたにお世話になった者が何人も居るって事だ。娼館を廃止して健全な国作りをしようって言ってる本人たちが娼館の常連だったなんて、ましてや女ならまだしも男抱いて喜んでいたなんて、世間や宗教団体にバレたらどうなる?」
 そこまで言うと看守は止めていた右手を再び動かし始めた。
「最初から……俺の存在が邪魔で……!」
 信じられないような看守の言葉に、小夜啼は全身から血が引いていくような気がした。
「そういう事だ。娼館を潰しても生き証人のあんたが居ては大臣たちも枕を高くして寝られないんだろう。気の毒だがそれが国家権力というものだ」
 その途端、小夜啼の胸に猛烈な怒りが込み上げてきた。看守の手から逃れようと死にもの狂いで身をよじり、怒鳴っていた。
「畜生!何が国家権力だ!何が健全な国作りだ!今すぐ俺を此処から出せ!」
「チッ、大きな声を出すなっ……!」
 思いのほか大きな小夜啼の声に慌て、看守は咄嗟に彼の口を手で塞ぐ。小夜啼はその指に思いきり歯を立てた。
「――ッツ!」
 その痛みに看守は慌てて手を離し、血が滲んだ自分の指を確認すると小夜啼の両手首を掴んで引き起こす。
 看守の手のひらが往復で小夜啼の頬を殴った。殴られた衝撃で目の前が暗くなり息が詰まる。口の中が切れて血の味が彼の舌に広がった。
 抵抗する力を失った小夜啼の身体に再び看守が乗り上げ、荒々しく胸や腹を舐め回す。
「……悪魔……め……!」
「恨むなら、悪魔すら虜にしてしまった自分を恨むんだな」
 そして看守の手がズボンの中に潜り込み、興奮で荒い息を吐きながら乱暴に尻を揉み始めた。
「い……いやだっ!ぁあ……あ!」
 酷い屈辱感だった。男娼として買われても小夜啼は誇りを持っていた。だが暴力でねじ伏せられている今、彼は自分が惨めで仕方ない。
 その時、突然、刺さるような眩しい光に照らされた。
「そこで何をしている!」
 眩しさに目を眇めて光の方を見れば誰かが懐中電灯を向けている。小夜啼の上に乗っていた看守は弾かれたようにベッドから下り、小夜啼の姿を隠すように立っておどおどと自分の上官に向き合った。
「貴様……あろうことか陸軍施設の中で、何と恥知らずな……」
 上官の声は怒りに震えていた。
「こ、これは……ちが、違うんです!」
「黙れっ!貴様は軍人としての誇りを捨て去り、陸軍の名誉に傷を付けたんだ!どうなるかわかっているだろうな!」
 戻れ!と一喝された看守は逃げるように独房を出て行った。
 自由になった小夜啼は、肌蹴られた身体を隠すようにのろのろと身をよじった。腕で顔を覆う。掴まれていた手首がヒリヒリし、肘も肩もぎしぎし傷んだ。
 明かりの中で、小夜啼の姿はひと目で暴力を振るわれたとわかり、懐中電灯は消された。上官は労りの言葉はかけてはこなかった。だが、怒りの矛先を彼に向ける事もせず、しばらく様子を見守った後、無言で独房から出て行った。

 独房に沈黙が戻った。
 小夜啼は乱された夜着の前を合わせベッドの上に起き上がる。そして壁に背を預けて天井を仰ぎ見た。
「そうか……そういう事だったのか……」
 すべては仕組まれた事だった――。反乱計画を議員に売ったという話も、情報の受け渡しをやったという話も、証拠などあるはずがない。すべて軍がでっち上げた嘘だった。
 国民の心に宗教が深く根付いており、この国は宗教組織が大きな力を持っている。新政府が掲げた健全な国作りはまさに宗教組織の後ろ盾を得るためでもあったのだ。
 新政府の首脳陣は娼館を閉鎖させるだけでは足りず、男娼に入れ上げていた自分たちの過去をも隠蔽しなければならなかった。男色は宗教で厳しく禁じられているのだ。まさに、小夜啼は自分たちの暗部を知る“都合の悪い存在”だった。
 小夜啼の客にはたしかに軍人や政治家は多かった。だが彼は、誰が旧政権の人間で誰が新政権の人間なのか知りもしなかった。知ったところでそれを口外しようとは思わない。しかし彼らにとって、自分と関係した事実、それだけで小夜啼は充分脅威の対象だった。
 新聞に記事は出ず、裁判すら行なわれない。人々の目に触れぬよう秘密裏に事は運ばれ、誰も気付かぬうちに小夜啼という男娼は世間から消される。
 手っ取り早く小夜啼を暗殺しなかったのは、情だったかもしれない。自分たちが寵愛した罪もない男娼を手にかけるのは後味の悪いものに違いない。
 取り調べは、あわよくば問い詰める事で反乱分子を割り出せると考えたが、口を割らない小夜啼に軍は諦めたという事だ。いずれにしてもアトロポス監獄に送る事は決まっていたのだから、尋問結果は二の次だったのだ。
「馬鹿馬鹿しい……。俺は19のただの小僧なのに、いい大人が大勢で……」
 可笑しさが込み上げ、クックッと小夜啼は肩を震わせて笑った。
「さっさと殺せばいいものを……。同じ事だろう?」
 そんな事を、ついに言葉に出してしまった。
「あんな所に一生閉じ込められるくらいなら、いっそ……」
 死を願ったその途端、見上げていた天井の隅に死神の幻が見えてくる。だが――。
「アクセル……」
 たった一人の男の存在が、死ぬわけにはいかないと小夜啼に思わせた。
 アクセルと春に出会って一緒に過ごしたこの数ヶ月。愛を交わしたあの一夜。これから送る年月に比べたらそれは瞬きするほど短い時間である。けれど、何処に行っても自分はその愛おしい日々の記憶だけで生きられる、と小夜啼は思った。
 そして、二度と戻って来る事の出来ない自分を、アクセルが忘れてくれるよう願った。


 小夜啼が、アトロポス監獄に移送される話を聞いたのは翌日の朝だった。
 出発は今夜9時。ぎりぎりまで伝えられなかったのは、小夜啼の自殺を懸念しての事である。あの監獄がどういう所か、わかっている者は絶望の挙句自ら死を選ぶ場合もあった。
 そのため、この日小夜啼の傍には常に誰かが付いていた。だが、自殺と言っても独房には鋭利な物も首をくくる紐もない。自分で舌を噛み切る事は実際には死に至れない。いずれにしろ拘置所員たちが心配するまでもなく、小夜啼は死のうとは思っていなかった。

 午後8時45分――。小夜啼の独房に数人の拘置所員たちが入ってきた。
「変わった事は?」
 入ってきた所員の一人が今まで小夜啼に付いていた看守に訊くと、とくにありません、と彼は答えた。
 まず、来た時と同じように手錠をかけられた。そして足も鎖で繋がれる。歩く分には支障はないが、走る歩幅には鎖の長さがないため逃走は出来ない。
「まあ、さほど悲観する事もない」
 所員の一人が小夜啼に囁いた。
「――“地獄の沙汰も金次第”だ。綺麗な顔と身体を武器にして、せいぜい向こうの看守と囚人のボスに気に入られることだ。そうすれば、そこそこ快適に過ごせるだろうよ」
 小夜啼はその所員には一瞥もくれなかった。「ならばお前が行ってみろ」という言葉は胸の中にしまい、無言を通した。
 アトロポス監獄は此処以上に閉鎖的な場所だろうと小夜啼は思った。排除され隔離され、希望もない日々は人間の心を歪める。それは収監された犯罪者だけでなく、それを管理する者にも言える。男だけの特異な環境に若い小夜啼が入るとどうなるか……。おぞましい想像はおそらく現実のものに違いない。
――それでも俺は生きてやる!

 拘置所の玄関を出ると、正面の車寄せにはすでに護送車が到着していた。
 護送車は一見普通の大型トラックにも見えたが、軍用車両らしく堅牢な車だった。運転席のある前方は2シートのみで、護送される人物は後方の空間に乗せられる。ドライバーの安全性を考慮して運転席と後部は防弾ガラスの小窓が付いているだけで、行き来は出来ない作りだった。
 護送車から下りてきたのは3人だった。責任者であろう将校、ドライバーの若い兵士、そして囚人に付き添うため武装し小銃を構えた兵士。
「ご苦労」
 拘置所の担当者と護送車の将校が敬礼し、引き渡し書類にサインをする。
「自分で名前を言いなさい」
 護送車の将校が小夜啼に向き直り言った。
「ハリー・ブライアント……」
「翠鳴楼の男娼だった小夜啼本人に間違いないな?」
「……そうだ」
 小夜啼が答えると将校は頷き、よろしい、と言った。
 護送車の後部のドアが開けられ、武装した兵士に促されて中に乗り込む。ドライバーと将校も前席に乗ると車はゆっくり発進した。
 もうこの街に帰って来る事は出来ない。“終の住み家”に向かって小夜啼を乗せた護送車は走り出した。