小夜啼を乗せた護送車は夜道を郊外に向かって走った。 これから自分はアトロポス監獄で一生を過ごす。自分が育ち、愛すべき人々が暮らすこの街に、再び帰ってくる事はない……。車に揺られながら寒々しい車内灯の中で小夜啼は我が身の今後を想っていた。気持ちは妙に落ち着いていた。 風に当たりたかったが窓は開かない。せめて外の景色を目に焼き付けたいと彼は思ったが、金網入りの窓ガラスはよほど覗き込まないと外の様子は見えなかった。 この護送車は本来10名ほどの囚人を運ぶ大きさだった。今は小夜啼と監視の兵士だけである。二人の間に会話はない。二人しか居ないからこそ余計に沈黙が重苦しかった。 小夜啼は真向かいに座る兵士をそっと観察する。 迷彩の上下に防弾ジャケット、腰のベルトにはピストル、手には最新式の自動小銃を持っている。ヘルメットを被っており、スモーク入りのバイザーで顔は見えない。 これから戦場に行くかのような重装備だった。アトロポス監獄に送られるほどの凶悪犯を護送するにはこれほどの警戒で挑むという事だ。10人も護送するとなるとおそらくこんな兵士があと2〜3人は付くのだろう、と小夜啼は推測した。 繁華街も住宅街も過ぎ、郊外を走ってしばらくすると護送車は速度を緩めた。ライトに照らされ笛が鳴らされる。車は笛の誘導に従い停まった。 軍の検問だった。クーデターから一ヶ月半が経っても未だに検問の数は多い。とくに郊外へと続く幹線道路は警備が強化されていた。国境付近はさらに厳戒態勢である。 新政府は反政府組織の動向に目を光らせていた。新たな勢力の出現を恐れるのはそれなりの理由と“兆し”があっての事である。 銃を持った検問所の兵士が3名、護送車に近付いてくる。ドライバーと将校が車を下りると監視の兵士も立ち上がり銃を構え直した。 ご苦労さまです、証明書を拝見、アトロポス監獄……。外のそんなやり取りが小夜啼の耳に届く。 そして後部のドアが開き検問の兵士が一人入ってきた。 「男性の囚人一名ですね?」 その言葉に監視の兵士が頷く。入ってきた兵士は小夜啼の頭からつま先まで視線を走らせた後、お気を付けてと監視の兵士に声をかけ、すぐ出て行った。 ドライバーと将校も車に戻り短い挨拶の後、護送車は再び走り出した。 車内で動きが起きたのは発車直後だった。 「――このルートでの検問は此処のみだ」 運転席からそんな言葉が飛んできた。その言葉を合図に向かいに座っていた兵士が立ち上がる。彼は窓から外の風景を前後左右に窺い、そして小夜啼に近付くとその足元に跪いた。銃を床に置き、ポケットから鍵を取り出すと小夜啼の足枷を外し始めた。 まだ目的地にも着いてないのに何故外してくれるのか――。小夜啼は不思議な気持ちで兵士の動きを見守る。兵士はさらに小夜啼の手を取ると手錠をも外した。小夜啼が驚いていると、そのまま彼の耳元に顔を寄せてきた。 「来るのが遅くなってごめん……」 ヘルメットの下から聞こえてきたその声に、小夜啼はハッとして顔を上げる。 ――この声……! 目の前の兵士とバイザー越しに目が合った。やがて兵士の指が顎のベルトを解き、ゆっくりヘルメットを脱いだ。中から現れたのはカラスの濡れ羽のような見事な黒髪――。 「あ……ぁ……」 目の前の信じられない姿に小夜啼は言葉が出なかった。 「情報収集して作戦練って、根回しして準備して、これだけの時間がかかっちまった。あんたが移送されるって情報が入って、奪還計画の実行をこの時に賭けたんだ」 「……アクセル……なのか……?」 小夜啼はやっとの思いで言葉を絞り出す。 「手錠、一秒でも早く外してやりたかったんだけど、途中で検問があるのはわかってたから……。ごめんな」 優しく手首を撫でる男にもう一度言う。 「アクセルなのか……?」 「そうだよ、俺だ。会いたかった……!」 アクセルの手が小夜啼の頬を包みその顔を胸の中へと引き寄せた。 頬に当たるごわついた兵士の服は馴染みのない感触だが、大きく息を吸い込むと懐かしいアクセルの匂いがした。その途端、小夜啼の胸に熱いものが込み上げて来る。――夢などではない。 「アクセル……!」 永久に失ったと思っていたぬくもりの中で、記憶を糧にして生きるしかないと思っていた一瞬前……。その心の痛みにアクセルの体温が沁み込んでいくようだった。今それが自分の傍らに在る事が奇跡に思え、涙腺が緩みそうになるのを小夜啼は堪える。 「あんたがどんなに不安に思っているかずっと気がかりだった。助けに行くって事を伝える方法がなくて歯痒かったよ。絶望せずに信じてもらうしかなかった……」 その言葉に小夜啼はジーラからの手紙を思い出す。 『自分とみんなを信じて』 ジーラは今回の奪還計画を知っていてあの手紙を書いたのだと小夜啼は確信した。手紙を検閲されなければ詳細に伝えられたであろう。曖昧で様々なニュアンスを滲ませた、彼女の精一杯のメッセージだったのだ。 真の意味はわからなくても、小夜啼はその言葉だけが支えだった。それでも昨夜は絶望しかけていた。そんな自分を小夜啼は心の中で叱る。自分は彼らを信じる気持ちが足りなかったのだろうと。 「だが、こんな事をしたらお前まで軍隊から追われてしまう」 自分は無実ではあるがアクセルこそ何の関係もない一国民なのだ。自分のせいでアクセルの一生を台無しにしてしまう……。そんな思いに小夜啼は顔を曇らせた。 「そんなの関係ないさ。俺たちは二人でこの国から脱出するんだ」 「何だって?」 アクセルのとんでもない企てに、小夜啼は飛び上がらんばかりに驚いた。 「気はたしかか?」 「小夜啼、よく聞いてくれ」 アクセルは小夜啼の隣に腰を下ろすと彼と向き合った。 「以前から考えていたんだ、男娼を引退したら俺と一緒に来てほしいって。ただ、俺にそんな事言う権利があるのかって躊躇していた。でも国情が変わって、あんたは自由を奪われ、俺も禁酒法のおかげで商売を畳んだ。皮肉にもこの変革に背中を押された。もっと自由で新しい国がこの海の向こうにある。そこで一緒に暮らそう」 真剣な顔で一気に語ったアクセルを見つめ、しばらく沈黙した後、小夜啼は呟いた。 「だめだ……」 「小夜啼!」 「俺はお前の荷物になる。おたずね者の俺を抱えてお前は一生追手から逃げ続けるつもりか?俺のせいでお前の人生が狂ってしまう。そんなの、俺は許さない」 アクセルはそれを聞き、深く大きな溜め息をついて項垂れた。 「……違うよ、小夜啼。あんたは全然わかっちゃいねえな。俺にとってあんたは荷物じゃなく道標なんだよ」 道標という言葉に小夜啼は首を傾げる。あの夜、世界地図を見ながらアクセルは謎めいた事を言っていた。導かれたのだ、と――。 「俺ね、実は子供の頃、一度だけあんたに会ってる……」 穏やかな笑みを浮かべて、そんな風にアクセルは語り始めた。 「夏の翠鳴楼の庭……12年前だ。今でもはっきり覚えているよ。あんたは一人でボール遊びをしてて、俺に遊ぼうって声をかけてくれたんだ。天使みたいに綺麗な子でさ、男の子だとわかっちゃいたけど、俺はひと目惚れだった……」 ――夏の庭、翠鳴楼、ボール……。それはたしか……。 「それから俺の心の中にはずっとあんたが居たよ。正直言って心が荒んで忘れていた頃もあった。おふくろが死んでからはひねくれちまって悪い事ばっかしていた。でも完全に道を踏み外さなかったのは、心の何処かでいつかあんたに会った時恥ずかしい自分でいたくないって思いがあったからだ。酒屋の仕事を頑張れたのも胸を張って自己紹介したかったからだと思う。そんな風に、あんたは俺を導いてくれたんだよ、今までずっと……」 小夜啼の両手を取り、顔を上気させながらアクセルは真剣な目で訴える。 「俺が今在るのはあんたのおかげなんだ。あんたは俺に道をくれたから、今度は俺があんたに空をあげたい」 アクセルと見上げる遠い国の高い空を、小夜啼は目を閉じて想った。そして懐かしい空を思い出す。記憶のアルバムをめくるとセピア色の日々の向こうに天然色のページがあった。 初夏の風、緑の芝生、空色のボール。そして、一人の少年……。 「……子供なんか来るはずもない翠鳴楼で、昔、男の子に会った事がある……」 小夜啼は目を開ける。その目は記憶の中の夏の青空を映していた。 「俺よりいくつか年上で髪はカラスみたいに真っ黒、ひょろっと背の高い子だった……」 「小夜啼……まさか……」 「自分と年の近い子供を見るのは初めてで、このおにいちゃんと遊びたいって思った。俺が遊ぼうと言ったらその子は父親を待ってるからって答えた。でもその時俺は、凄く……遊んでほしいって思ったんだ……」 アクセルが驚きに目を大きく見開く。 「あんた、俺を覚えて……」 「その子がお前だったなんて思いもよらなかった……。だってこんなに、こんなにでっかくなってて……」 アクセルは何も言わず小夜啼を抱き締める。二人の12年の歳月が溶けだして混じり合うような気がした。 「本当の意味で、今ようやく再会したんだな、俺たちは……」 そして目を閉じ小夜啼にそっと呟いた。 「運命が、どうあっても俺たちを引き寄せようとしているって思わないか?」 それを聞いて小夜啼はそっと笑う。 ――運命?そんなもの……。 神様だろうが誰だろうが、他人に自分の未来が決められる事を運命というのなら、そんなものは御免だと小夜啼は思った。 愛を失ったはずのセイレーン、一生監獄に閉じ込められるはずだった自分、そして、ただの通りすがりだった子供との出会い……。それを変えたのは人を想う強い意志が働いたからだ。もしかしたらそれを悪あがきというのかもしれない。 運命は自分で切り開けるものだとしたら、悪あがきをしながら生きるのも悪くない、と小夜啼は思う。 「……俺は世間知らずだぞ?」 「知っているよ、そんな事」 「お前、きっと苦労するぞ?」 「そっか、そいつは楽しみだな」 「手を離したら俺は何処に行くかわからないからな」 「頼まれたって離してやらねえよ!」 そう言ってアクセルは泣き笑いの顔をした。 小夜啼はふと頭に浮かんだ疑問に顔を上げた。 「この車がアトロポス監獄に向かってないのだとしたら、だったら何処へ……」 「俺たちは今、モンティエ公爵の山荘に向かっているんだよ」 それを聞いて小夜啼は心底驚いた。 「待てよ……!お前がどうしてステファンを知っているんだ?」 「知ってるよ、小夜啼鳥を語る上で欠かせない人物だ。それにあんたの大切な人でもあるだろ?公爵とはいろいろあったのさ」 アクセルは笑って答える。一人の男娼を巡って二人の男の間に生まれた嫉妬も苦悩も葛藤も、そして不思議と強固な信頼も、小夜啼だけが知らなかったのだ。 「今夜の事は俺と公爵が中心になって動いているんだ。俺一人の力じゃ到底無理だった。あの人がどんな気持ちで大事なあんたを俺に託す決意をしたか……。公爵には感謝してるよ……」 「ステファンが……お前に……」 「公爵だけじゃない、俺たちのために動いてくれる人は何人も居るよ。この人たちも危険な橋を渡ってくれている」 そう言ってアクセルは運転席の方を顎で示した。小夜啼がそちらに目を向けると将校が振り返り、彼を見て口の端を上げる。そしてアクセルに声をかけた。 「あと10分で山荘だ」 「――よし!」 アクセルは立ち上がり床に置いた銃を取り上げる。その顔には先程の甘ったるい笑顔はなく、燃えるような瞳をしていた。 「小夜啼、山荘に着いたらその後は時間との勝負だ。追手は必ず来るはずだ。言っとくけど、俺たちが無事に国外に脱出出来る保障なんか何処にもない。それでも付いて来るか?」 「勿論だ」 自分の身体の奥底から、大きな力が湧いてくるのを彼は感じる。 「もう後には引けないぜ?」 「怖いものなど何もないさ」 それを聞くとアクセルは満足そうに微笑んだ。 「勇ましいな、小夜啼。それでこそあんただ」 今この時の相手を目に焼き付けるように、しばらく無言で見つめ合う。嵐の夜へと駈け出す前の、二人に残された最後の蜜刻……。 次の瞬間――ほぼ同時に、相手の頭を鷲掴んで二人は飢えた獣のように激しく口を貪り合った。 モンティエ家の山荘は周りを緑に囲まれた山の中腹にあり、湖を見下ろす場所に建っていた。釣り好きの先代が釣りを楽しむために建てられた木造の別荘で、湖のほとりにボートハウスもあり、ステファンもシーズンになるとマス釣りをしに毎年此処を訪れていた。 護送車が敷地内に入って行くと、正面玄関前にはすでにステファンが到着を待っていた。そしてステファンの隣にはジーラの姿もあり小夜啼は叫ぶ。 「ジーラ!」 護送車から飛び出した小夜啼は真っ先にジーラに駆け寄り、彼女の小さな身体を抱き締めた。 「ああ、小夜啼!無事だったのね?心配したわ!」 「俺は大丈夫。手紙をありがとう。嬉しかった」 「ちゃんと手元に届いたのね?よかった」 翠鳴楼の人々の事、セイレーンの事、ジーラの事。聞きたい事、話したい事はたくさんあった。だが時間は限られている。二人はお互いの無事と愛情を確認する事で精一杯だった。 「ステファン……」 ステファンに向き直った小夜啼は彼の腕に包み込まれた。師でもあったかつての恋人は何も言わず、ただ想いを込めて小夜啼の身体をきつく抱き締めた。 「アクセル」 ステファンは遅れて護送車から下りてきたアクセルに手を差し出した。アクセルがその手を硬く握り返し、その上からステファンはもう片方の手を重ねた。 「お二方にも感謝する」 「いいえ、モンティエ卿。これはすべての国民のためでもありますから」 「ありがとう、大佐」 大佐と聞いて、同行してきた将校が思いのほか高い位である事に小夜啼は驚いた。ステファンの人脈の広さは小夜啼には計り知れない。把握出来る人間は会社の側近と、同じく各業界に広い人脈を持つジーラくらいである。 まずは中へ――とステファンに促され、一同は彼の後に続いた。 居間に入ると赤々と燃える暖炉の前に意外な人物が居た。小夜啼は思わぬ再会に驚きの声を上げる。 「テオ!」 「小夜啼さん!」 「お前、故郷に帰ったんじゃなかったのか?」 「――わしが止めた」 突然、暖炉に向かい合った大きな椅子の背の陰から声と共に老人が顔を出し、小夜啼は唖然とした。 「爺ちゃんまで!」 「可愛い小夜啼をどうしても見送りたくてな」 そう言ってイヴォンは満面の笑みを浮かべた。 「イヴォンお爺ちゃんが援助を申し出てくれたんです」 テオが微笑みながら説明を始める。 「一度は故郷に帰ったんですけど、実家が貧しいのは変わらないし、僕が居て畑を手伝うよりも食いぶちが一人減る方が本当は親も助かるんです。それに僕、出来れば今の学校を卒業したかった。そうしたらイヴォンお爺ちゃんが、大学まで面倒見るから戻って来いって、親にも言ってくれて……」 「本当はわしの家に住まわせようと思ったんだが、親戚どもがうるさくてなぁ……」 「そりゃそうだろ」 小夜啼が呆れ果てて溜め息をつく――。大金持ちのイヴォン一族の中にテオが入れば、彼はどれだけ余計な苦労を背負いこむ事か。 「じゃあ結局、お前は何処に……」 「テオは私と一緒に暮らす事にしたのよ」 後ろからジーラがやって来てテオの肩を抱いた。 「僕、学校を出たらマダムの仕事を手伝おうと思ってます。いいホテルにして繁盛させて、マダムとイヴォンお爺ちゃんに恩返しをしたい」 顔を輝かせて語るテオは男娼見習いの頃よりいきいきとして見えた。するとイヴォンがすかさず口を挟む。 「ジーラのホテルはわしもひと肌脱ぐって事でどうだ?大きな事業に投資して、そのためにそれを将来担うテオへの援助も投資の一環という事にしたら、物事は丸く収まるだろう?」 「そうか、そういう事に……」 翠鳴楼は将来ホテルとして生まれ変わり、また人が集まって経済を支える。いつか次の時代を担うテオがそれを引き継ぎ、翠鳴楼は遠い未来まで続いていく。人々の夢が、希望が、輪が、再び生まれて新たな歴史を作っていくだろう。 「よかったな、小夜啼」 アクセルが小夜啼の隣に来て彼の肩に腕を回した。 「何か、凄くホッとした……」 イヴォンは勿論、ジーラも結構な年である。小夜啼はこの二人が一番の心配事だった。だがテオが二人の傍に居れば何の心配もない。ホッとすると身体から力が抜けた。 「さあ、今度は俺たちの番だぜ!」 アクセルの言葉に小夜啼は頷いた。これで心おきなく出発出来る。 「それでは諸君、食堂に集まってくれたまえ。最後の作戦会議をしようじゃないか」 ステファンが全員に告げた。