「つまらん世の中になったもんだ」 そう言うと老人はグラスをあおった。 午後9時――。娼館にとってはまだ宵の口である。だが、夜が早い老人は小夜啼の部屋に来てかれこれ小一時間になる。老人も小夜啼も衣服の襟を乱す事なく、寝台の上にあぐらをかいて酒を酌み交わしていた。 「何がどうつまらなくなったんだよ」 小夜啼は、老人の干されたグラスに果実酒を注ぐとそう尋ねた。 「昔は男も女もおおらかで世間も性に寛容だった。ひとつの村の中じゃ後家が若者を食ったり食われたり、金持ちの屋敷じゃ下男と下女が相手構わず楽しんでたものさ」 「俺が生まれるうんと昔の話だろ?」 「まあ、若いお前に言ったところでわからんか……。それにしても、ここ数年で世の中はすっかり清く正しくなっちまったもんだ。身体を売るなんてけしからん、娼婦は可哀相な生き物だ、娼館なんて潰してしまえ、とな」 老人は、やれやれと頭を振ると再びグラスに口を付けた。 世の移ろいを嘆くこの老人はイヴォンといった。昔は大農園を営み、街の中心地に広範囲で土地を所有している大地主である。今は高齢になり商売のすべてから手を引いているが、死ぬまで使い切れないほどの金を持っているため、こうして頻繁に娼館遊びをしている道楽老人だ。 イヴォンは客には違いなかった。だが小夜啼を抱くわけではない。高齢のため、小夜啼に出会う以前からイヴォンは男性としての機能を失くしていた。性交は出来ずともイヴォンは小夜啼の古い顧客だった。顧客以前に、赤ん坊だった小夜啼を知る数少ない人間の一人でもある。 イヴォン老人はこうしていつも早い時間にやって来て、一緒に甘い酒を舐めながら昔話をし、愚痴を言い、男の粋について講釈を垂れ、小夜啼に説教をする。時にはチェスやカードに興じる事もある。そして最後には小夜啼に口淫をして精液を飲み、日付けが変わる前に帰って行く。 変なジジイ、と小夜啼はいつも思った。金を払って会いに来て、小夜啼を吐精させて望みの精液を得るのだから客ではあるが、同時に家族のような暖かさも感じる。イヴォンと過ごす時間は小夜啼にとって居心地がよかった。 「爺ちゃんの場合、少しは清く正しくなった方がいい。もう充分遊んだだろう?」 そんな憎まれ口を叩けるのもこの老人と過ごす楽しみのひとつでもある。 「馬鹿言え、わしから娼館遊びを取ったら何が残る」 「何も残らないだろうな」 「そうだろう?もうわしがお前の所に来なくなってもいいのか?」 「そうしたら俺が会いに行ってやる」 小夜啼が何気なく言った言葉に、イヴォンは面白いものでも見るように目を見開いた。 「可愛い事を言うじゃないか。年寄りはイチコロだ。そんな話術も公爵から教わったのか?」 からかうように顔を覗き込んでくる老人に、小夜啼は嫌そうに顔をしかめた。 「そんなわけあるか。ひねくれた事ばかり言ってるとそのうち俺に嫌われるぞ?」 「そりゃ困る、お前に嫌われたらわしはもう生きていけんよ」 少しも困った風でもなく、イヴォンは笑い声を上げた。 「ところで小夜啼、お前いくつになった?」 「何だよ、急に」 笑うのを止めた老人に唐突に問われて、小夜啼は不審げに眉をひそめる。そして溜め息混じりに仕方なく19、と答えた。 「19か……早いもんだな。赤ん坊のお前が娼婦たちにあやされていたのがついこの間の事に思える」 「俺が赤ん坊の頃の話をするのは反則だろ?こっちは覚えてないんだから。そういう爺ちゃんはいくつなんだよ」 「100歳だ」 「……去年もおととしも100歳って言った」 たぶん100歳ではあるまい。それでも90近いかもしれない、と小夜啼は思っていた。いずれにせよ、高齢である事はたしかである。 イヴォンはいつも元気そうに見えた。杖も使わず腰も曲がってはいない。酒も飲むし煙草もたしなむ。何より、性機能の衰えは仕方ないにしても、こうして頻繁に娼館に通ってくる熱意はとても老人とは思えない。 だが、人はいつか必ず死ぬ。自称100歳の老人はどう足掻いても残り少ない人生だろう。そう遠くはない将来この優しい老人が居なくなる、そう考えると小夜啼は胸が痛かった。 「そんな顔しなさんな」 小夜啼の考えを見透かしたように、イヴォンが彼の頭を撫でながら言った。 「わしは好き放題生きてきた。やりたい事もやり尽くして一片の悔いもない。いつお迎えが来ても笑って死んでいくだろうよ――老い先短いわしより、大切なのはお前のような若い者の未来だ」 「俺の未来……?」 「可愛い小夜啼や、よくお聞き」 俯く小夜啼の頬に手をやり、顔を上げさせると老人は言葉を続けた。 「若いって事はそれだけで素晴らしい。まだたった19年しか生きてないお前は可能性の塊だ。この先お前は何にでも望むものになれる」 「……一体何の話だ?」 「さっきの話の続きさ。もし世の中から娼館が消えてなくなっても、お前の生き方は男娼以外にいくらでもあるって事だ」 時折、イヴォン老人の話は小夜啼にとってぼんやりとしかわからない時がある。イヴォンと自分とでは視野が違うのだろう。だが、今の生き方以外の自分を想像するのは困難だった。 「他の生き方なんて想像が出来ない」 「そうか。いつかそれを教えてくれるいい人が現れたらいいんだがな」 イヴォンはそう言うと、酒とつまみが乗った盆を寝台の上からテーブルに移動させた。 「すっかり話しこんじまったな。さあ、若いエキスを頂いて帰るとするか」 「爺ちゃんは好々爺なのかエロジジイなのかわからないな」 小夜啼は笑いながら打掛を脱ぐとイヴォンに脚を向けて身体を横たえた。イヴォンが小夜啼の単衣の帯を解き、前を開く。そして彼の脚を開かせるとその間へと上体を進めた。枯れ枝のような指が小夜啼自身を捕え、ゆっくり扱き始める。 「わしのような変態ジジイの相手をしてくれるのはお前しかおらんよ」 「……若い奴は嫌いだ」 「ジジイの方がいいとは、風変わりな男娼だな」 「俺は、爺ちゃんが好きだよ……」 「優しい子だ……」 性器が老人の口に含まれる。舌の動きで急速に熱が高まっていく。息が乱れてしまう前に、小夜啼は小さな声で呟いた。 「長生きしろよ?……イヴォン爺ちゃん……」 イヴォン老人が帰って、今夜の小夜啼の仕事はこれで終わった事になる。本来夜明けまで小夜啼を独占出来るところ、イヴォンはいつも2〜3時間で切り上げて帰っていく。年寄りはもう眠いから、とイヴォンは言う。だが、売れっ子男娼である小夜啼をたまには一人でゆっくり休ませてやろう、という気遣いである事を小夜啼自身はわかっていた。 時刻はまだ10時前である。貴重な一人の夜をどう過ごそうか、残りの果実酒を飲みながら小夜啼は考えていた。 その時ドアが小さくノックされた。この時間、此処に他の誰かが訪れるなど考えられない事である。 ――今頃、誰だ? イヴォン老人が忘れ物でもして戻ったのだろうかと思いドアを開けた。だが、そこに立っていたのは意外な人物だった。 「やあ、小夜啼……」 優しげな目で自分を見下ろす、スーツ姿の長身の男。小夜啼は驚きに目を見開く。 「ステファン、どうしたんだ?今夜来るなんて聞いてなかった」 それに男は答えず、まずは、と腕を広げる。小夜啼はその中に一歩身体を進めると男は両腕で彼の身体を包み込んだ。 「久しぶりだな、会いたかったよ」 「『久しぶりだな』じゃないだろ、もう2ヶ月も顔を出してないじゃないか」 「すまない、ずっと仕事に追われていた。……元気だったか?よく顔を見せてくれ」 胸にもたれる顔を仰向けさせ、髪を撫でつけるように男の手が頭を撫でる。 「少し痩せたか?」 「前から変わらない」 「……そうか。ちゃんと食べてるのか?君は食が細すぎる」 男のスーツが外気に冷やされて気持ちよかった。春とはいえ朝晩はまだ寒さが残る事を小夜啼は知る。 「それにしても驚いた。どうしてこの時間突然に?」 小夜啼は腕から離れ、男の前に立って部屋の奥へと導きながらそう尋ねる。 「女将に用があって寄ったんだ。ちょうど帰ろうとしていた老公に会って君が今一人で部屋に居ると聞いた」 ステファン・モンティエ公爵は、翠鳴楼に自由に出入り出来る稀な客だった。女将のジーラとは親友の間柄で、その付き合いは20年以上に及ぶ。彼は部外者でありながら、支配人や経理担当者よりもジーラに近しい存在だった。 「朝まで居られるのか?」 「いや、ゆっくりは出来ない。顔を見に来ただけだ。外に車を待たせてある」 その言葉に、新たなグラスに酒を注ごうとした手が止まった。 「これから仕事、なのか……?」 落胆に顔をくもらせる小夜啼の手を握り、ステファンは彼を肘掛椅子にかけさせた。 「隣国で大事な商談がいくつかあるんだ。これから発つ」 「どのくらい?」 「約2週間だ」 「そんなに?」 「2週間なんてすぐだよ」 「……」 それきり押し黙って目も合わせようとしない小夜啼にステファンは困惑していた。 「どうか怒らないでくれ、小夜啼……。君にそんな顔をされると私はどうしていいのかわからなくなる」 「……怒ってなどいない。いつも働き詰めのステファンが心配なだけだ」 「そうか……君は優しいな」 小夜啼の言葉が嘘である事をステファンは知っていた。そしてステファンが騙されたふりをしている事を小夜啼もまたわかっていた。お互いの嘘を暴くのはお互いのためにならないと、いつからか二人とも理解している。 「君に土産を買ってこよう。何か欲しい物はあるか?」 「何もない……」 「よし、何か珍しい物を探してこよう」 「何もないって言ってるのに」 呆れて苦笑した小夜啼にステファンは少しほっとした顔をする。 「もう行くよ。今夜、君の顔が見られてよかった」 ステファンの手が小夜啼の頬を包み、顔を上げさせる。小夜啼は目を閉じて唇が下りて来るのを待ったが、その手は頬を撫でただけで離れていった。目を開けた時には、ステファンはもう立ち上がって戸口に居た。 「戻ったら真っ先に会いに来る」 「もう来なくていいぞ」 小夜啼が精一杯の悪態をつくと、何故かステファンは嬉しそうに笑った。 「いえいえ、来ますとも。嫌だと言われてもね。埋め合わせはその時たっぷりさせてもらいますよ」 おどけた言葉を残してドアは閉められた。 「……キスする暇もなしかよ」 静かになった部屋で、そう呟いてみる。 傍らのテーブルにあったグラスを取り、底に残っていた酒を一気にあおった。ふと、空になったグラスをドアに向かって投げつけたい衝動にかられる。だが思いとどまり、代わりにテーブルに叩きつけるように置いた。 ――苛つく自分が嫌だった。一人の男の一挙一動で簡単に心乱される自分が大嫌いだった。惨めで女々しい、我儘で弱い自分を思い知る。 一緒に居てほしいと言ったところで、抱いてほしいと言ったところで、今夜その望みは叶えられるはずはなく、また言うつもりもない。ジリジリとしたこんな想いは自分だけであって、ステファンの心は決して波立つ事がない。 抑えきれない苛立ちをさらりと往なされる。所詮、大人と子供なのだ。すべてが彼の手の中にある事が悔しくて堪らなかった。 ステファンは特別な客だった。小夜啼の初めての男で初めての客。いや、客である前に男娼としての小夜啼を育てた師であった。 小夜啼が物心ついた時から、ステファン・モンティエ公爵は彼の傍に居た。 赤ん坊の頃から娼館で育った小夜啼にとって、翠鳴楼が家だった。ジーラや娼館のスタッフに抱かれ、娼婦たちにあやされ、翠鳴楼の古くからの客にも可愛がられた。イヴォン老人からは訪れるたびに飴やオモチャを貰い、またよく遊んでもらった。 そんな、優しい育ての親たちと、娼婦たちのおしろいの匂い。活気ある娼館の空気。小夜啼の中の原風景。そんな中にステファンも居た。 モンティエ公爵家は、ステファンの父の代から貿易会社を営む商人の家でもあった。 政治家や軍人の中にいくつものコネと太いパイプを持つ。おかげで会社は発展し、今では経済界の重鎮に位置する名門家である。 小夜啼が赤ん坊の頃、ステファンはまだ20代の若者だったが、父である社長の片腕としてすでに経営の才覚をあらわしていた。よく仕事をする反面よく娼館にも通い、ジーラから公私にわたり信頼されている人物。 『この子をあなたに任せたいの』 10歳の時、ジーラに手を繋がれ、彼女がステファンに言ったこの言葉を小夜啼は今でも覚えている。 ステファンは娼婦も男娼も買うバイセクシャルだった。少年の身体に関して扱い慣れ、性戯に長けている。小夜啼もステファンに懐き、何より彼は誠実な人柄であった。これ以上の適任者はなかろうとジーラは見込んでいたのだ。 『ステファンは俺のお客さんになるの?』 まだ声変わりもしていない小夜啼があどけなく問いかけると、ステファンは彼の目の高さに屈み、言った。 『どうやら私は君の先生になるらしい』 それがジーラからの依頼に対する答えとなった。 男娼の道を選んだのは小夜啼の意思だった。 娼館で育ち娼婦やそのお客たちを見てきた小夜啼にとって、自分もいつか客を取る仕事をするのだと、幼い頃からごく自然に思っていた。子供ながらもその決心は一度も揺らぐ事なく今日に至っている。 たくさんお客を取ってたくさん稼いで、我が家である翠鳴楼と育ててくれたジーラの役に立ちたかったのだ。 ジーラは最初小夜啼のそんな決意に反対していた。普通の子供として育てようと思っていたのだ。しかし、幼い頃から綺麗な子供であった小夜啼は成長するにつれどんどん美しい少年になっていく。何より本人の意志が固かった。 ジーラは小夜啼を“初物”として客に出す事は避けた。そもそも女とは違い男の身体は受け入れるように出来ておらず、小夜啼の未成熟な身体と心が傷付く事が心配だった。 そこで本格的に店に出す前に、小夜啼を最も信頼するステファンに委ねる事にしたのである。 小夜啼は、男娼としてのすべてをステファンから教わった。 男とはどういう生き物か、どうすれば男は悦ぶか、自分も快楽を得るにはどうすればいいか。そして、男娼としての作法、毎日の身体の手入れ、自分の身体の守り方。 素直で飲み込みの早い小夜啼に、ステファンの教え方はいつも優しかった。初めてステファンに身体を開かれた時の痛みも恥ずかしさも、小夜啼は耐えた。ただ、初めて後ろだけで女のように達した時、強過ぎる快感に恐怖して、彼は激しく泣いた。 男に抱かれる悦びを知った小夜啼は、やがて正式に店に出る事になる。その時彼は12歳。“小夜啼”という源氏名はステファンから与えられた名前である。 男娼としての初仕事の日、昨日まで教え子だった小夜啼を、大金を積んでステファンは買った。初めての男である他に“初めての客”として自分を刻みたかったのだろうと、小夜啼は思う。 快楽は悪くなかった。客に身体を売る事には何の疑問もためらいもない。八百屋が野菜を売るように、花屋が花を売るように、男娼は男に身体を売る。それは自分の職業である。 ステファンは今も小夜啼の元に通い続けている。だが、いつの頃からか、自分の中で何かが変化している事に小夜啼は気付いていた。 きっかけなどはない。7年の時をかけて少しずつ少しずつ、自分だけが変わっていく。ステファンにとって小夜啼は変わらず教え子のままだ。 客としてステファンは要求し、男娼として小夜啼がそれに応える。その関係でしか求められはしない。彼が欲しいのはそれだけ。ステファンはいつも優しい。だが、決して本音では向き合ってはくれない。 当然だ、と小夜啼は思った。ステファン・モンティエ公爵は高貴な身分で、いずれ妻を娶り世継ぎを儲けなければならない立場だ。娼館遊びは貴族のたしなみだ。彼が育てた男娼は大出世して最高位の花魁となった。自分はいわば彼の自慢の“作品”なのだろうと。 だから、彼のすべてが欲しいという凶暴な欲望は、口にも態度にも決して出すまいと、小夜啼は自分を戒めた。 『この先お前は何にでも望むものになれる』 イヴォン老人の言葉が蘇る。 「無理だよ、爺ちゃん。俺は何を望んだらいいのかさえわからないんだ……」 自分が何者になっても、この先もステファンへの想いに囚われて生きるのだろうと、小夜啼は思った。