アクセルが初めて父親の供で翠鳴楼を訪れたのは、11歳の夏の初めだった。
 供と言っても翠鳴楼はついでであって、帰りに街に連れて言ってやる、という言葉に釣られて付いて来たにすぎない。父親にしてみれば、仕事に追われてなかなか子供と遊んでやる時間もない、精一杯の罪滅ぼしのつもりだったのだろう。
 注文の酒を館内に搬入した後、女将と話があるからと外で待たされた。父親としては子供を娼館の中に入れたくなかったのだという事はわかっていたし、アクセル自身大人の娯楽場に興味はなかった。
 晴天の、汗ばむほどの陽気だった。車で待っていても暑いだけなので外に出る。街に行ったら何を食べようか、そんな事を考えながら待ちきれない思いで娼館の庭を歩いた。
 遠くで庭師が芝刈り機の手入れをしていた。手入れの行き届いた芝生にスプリンクラーの水が舞う。そこを渡って来る風が涼やかだった。
 庭から翠鳴楼を眺め、此処は金持ちが来る所なんだな、とアクセルは思った。
 貧富の差が激しい世の中とはいえ、父親の商売のおかげでさほど不自由ない暮らしが出来た。それもひとえに翠鳴楼が父親の店に酒の納品をすべて任せてくれるおかげである。父親は翠鳴楼との取引きをことのほか大切にしていた。
 建物の角を回って裏庭に足を踏み入れた時だった。
――こども?
 空色のゴムボールで、サッカーの真似事をして遊んでいる子供が居た。
 年はアクセルよりいくつも幼いようだ。長めの金髪と細い身体で、少女のようにも見えたが男の子だろう。一人で楽しそうにボールを追っていた。
 娼館に何故子供が居るんだろう、とアクセルは不思議に思った。娼館とはどういう所か知ってはいた。買われてきたのだろうかとも思ったが、この子はあまりにも無邪気で楽しげで悲壮感の欠片もない。では、此処の娼婦が生んだ子供だろうか……。
 その時、ボールがアクセルの方に向かって転がってきた。それを追ってその子供が走って来る。彼はボールを拾い上げ、その時初めてアクセルに気が付いたようだ。少しも警戒する様子もなく歩み寄って来た。
 近くにやって来た子供の顔を見て、アクセルは驚いた。
――何て綺麗な子なんだろう……!
 透き通るような白い肌にほんのり薄桃色に染まった頬。黄金かと見紛うような金髪。目は深いブルーで、澄んだ瞳は真っ直ぐアクセルを見上げてくる。小さめの口はきりりと引き結ばれて意志の強さを感じた。
 初夏の眩しい光のパウダーが降り注ぎ、その子の持つ淡い色彩が光に溶け輪郭を失う。夢を見ているようだった……。
 じっと見つめられて顔が熱くなった。恥ずかしいとアクセルが思った時、その子が言った。
「遊ぶ?」
 たった一言、物おじしない邪気のない誘い。だが、アクセルの胸は早鐘のように激しく打ち始めた。
――遊びたい、話したい、髪に触ってみたい。でも恥ずかしい。俺が触ってはいけないんじゃないだろうか……。どうしよう……。
 辛抱強く返事を待つ子供に、ようやくアクセルが言った。
「……父さんを待ってるから」
 すると、その子は気を悪くした様子も悲しむ風でもなく、小首を傾げて少し不思議そうな顔をした。
 その時、子供の後ろで大人の男が彼を呼んだ。途端に彼は弾けるような笑顔になる。その子は声の方に駈け出そうとしたが、何故か再びアクセルの方に向き直った。
 ズボンのポケットに手を入れ、ごそごそ探った後その手を出した。
「はいこれ」
 開いた手のひらの中にはピンクのセロハンに包まった飴。
「爺ちゃんに貰ったの。あげる」
 アクセルがそれを摘まみ上げ、ありがとうと小さな声で言うと子供は男の方に駈け出した。
 飛び付く勢いでやって来たその子を、男は後ろから脇を抱え上げる。そしてメリーゴーランドのように2周ほど回すと、子供は悲鳴混じりの高い声で笑った。男はボールを子供の代わりに持ってやり、やがて手を繋いで歩きだした。
 アクセルが二人の後ろ姿を見送っているとその子は振り返り、アクセルに向かって“バイバイ”と手を振った。

 二人の姿が見えなくなった後もアクセルはその場を動かなかった。
『遊ぶ?』
 かけてくれた言葉、向けてくれた眼差し、伸べてくれた手……。
 周りの景色がぶわぶわと揺れ始める。
――この気持ちをどう言えばいいのだろうか……。
 アクセルは自分が今、何かとてつもなく尊いものに触れた気がした。それは優しくあたたかい何かで、それを大切だと思った瞬間、涙が頬を伝った。
 初恋、と一言で片づけるには、その子はあまりにも厳かな存在だった。
 あの子を迎えに来た男は、あの時何と呼びかけたのだろう。たしか名前を呼んだのだ。だが、上手く聞きとれなかった。聞きなれない名前だったのだ。短い、語尾が流れる語感である事だけはわかった。
 アクセルはそれ以上その子供について知る機会はなかった。翠鳴楼で男の子に会った事を、彼は誰にも話さなかった。口に出すと思い出が消えてしまいそうで怖かったのだ。あの日の“奇跡”を彼は心の中に大切に仕舞った。
 バイバイと手を振るその背中に、アクセルはたしかに白い羽根を見たのだ。

 それから何年も月日が流れ、成長するにしたがってアクセルはあの男の子を思い出す事が少なくなった。
 思春期を迎えた頃、母親を亡くした。初めて味わう喪失感。それを機に、アクセルは父親に反抗するようになった。10代半ばには悪い仲間と付き合い始めた。酒も煙草も覚え、女も知った。悪い遊びには何でも手を出した。とにかく、家も学校もつまらない。真面目に働く事もくだらない。
 自分の居場所は何処にもないと思った。だが、居場所を遠ざけているのは自分自身だという事を、頭の何処かではわかっていた。そして、深夜の街を仲間たちと徘徊し笑いながら、実は少しも楽しいとは思っていなかったのだ。
 そんな荒んだ日々に、ある日転機が訪れる。
 アクセルが18歳の時、父親が心臓の病で倒れた。病院に駆け付けたアクセルが見たのは、ベッドに横たわる痩せた父親の姿……。
 父が憎いわけではなかったのだ……。恵まれた生活をしている事で貧しい友人たちから疎外されるのが怖かった。非力なくせに世間と戦っているふりをして粋がっていた。だがそんなものはこじつけにすぎない。母を失った寂しさを紛らわせたかっただけ……。
 家族のために働いて、今、病と闘う父親の姿を見て、アクセルは自分の甘えにやっと気が付いた。
 医者は今度発作が起きたら最後だと通告する。父親の心臓はもう労働には耐えられないほど弱っていたのだ。心身ともに安静が必要だった。
 働けない身体になった父親が静かに呟く。
「ああ、世話になった翠鳴楼に迷惑がかかるな……」
 翠鳴楼――。その名を聞いた途端、アクセルの記憶の扉が開いた。
 夏の庭、降り注ぐ光、黄金の髪、小さな手のひら、最後に見た背中の羽根……。優しくてあたたかくて眩しい、そして愛おしい思い出。
 結局、あの子供が何者なのかは未だにわからない。もう一度会いたかった。翠鳴楼に行けばいつか会えるかもしれない……。
 その娼館は父親が信頼関係を積み上げて今まで大切にしてきた得意先。そして、あの子と出会った場所……。
 迷いは一切なかった。酒屋を継げと言われた事はただの一度もなかったが、もう働けない父親に代わって商売を引き継ごうとアクセルは決意する。

 それからの5年間、アクセルは身を粉にして働いた。父親が何十年もかかって育ててきたものを壊すわけにはいかないと思った。
 取引き先を回るうちに接客の楽しさを知った。もっと酒の事を知りたくて勉強するたびに酒の奥深さに惹かれた。
 春まだ浅い3月のある日、父親は傍らにアクセルを呼んで言う。
「お前が人生の目標を見つけて幸せだと思えたのなら、俺の役目はもう終わりだ。これからお前の時代が来る。自分が思うように生きろ」
 それが最後の言葉になった。その夜、父親は穏やかに逝った。
 父親の葬儀も終わり身辺が落ち着いた頃、アクセルはあらためて翠鳴楼を訪れた。正式に父親から後継し、その挨拶のためである。
 そこでついに“彼”に会った――。
 あの夏の日から12年が経っていた。男の子はすっかり大きくなっていたが見間違えるはずはない。
 細い身体、優美な身のこなし、白い着物を着て打掛を羽織り、裸足で歩いていた。人というより、まるで白鷺の化身のようだと思った。息を飲むほどの美しい姿にアクセルはもう一度恋に落ちた。
 そのいでたちから彼が男娼である事は間違いない。この5年間、頻繁に出入りしていながらどうりで会えなかったわけだ。昼間の娼館の、しかも厨房前を男娼がうろついているなど滅多にない事であろう。
 目が合っても彼はアクセルを覚えていないようだった。それでも構わないとアクセルは思った。再び会えた事が嬉しくて堪らなかった。
 その後、樹上から初めて言葉を交わした時、もっと嬉しくて、教えてもらった名前を帰ってから何度も呟いてみた。再会して初めて彼が笑った時、もっともっと嬉しくて叫びたい気持ちだった。そしてそんな風に笑えるという事は決して不幸なわけではないのだろう、と思うとホッとした。
 思えば、記憶の中に常にあの男の子が居続け、自分がそれに導かれて歩いて来たような気がする。その子がくれたあたたかな光を、今度は少しでも彼自身に返したいとアクセルは思った。
 成長した彼の背にはやはり羽根があった。

  

 窓越しの逢瀬はそれから何度も続いた。  アクセルは翠鳴楼に仕事で訪れるたび、厨房の帰りには必ず東の庭に寄っていく。小夜啼は、昼間は本当に暇らしく、下から声をかけると必ずバルコニーに出てきた。 「いつも昼間は暇なの?」 「そんな事はない。美容師や医者やマッサージ師が来る事もあるし着物屋が来る時もある」 「いつもタイミングがいいだけ?俺」 「そうなんだろうな」  小夜啼はそう言うが、もしかしたら自分が訪れるようになって諸々の予定を調整してくれているのではないだろうか、とアクセルは思う。  そう考えるのは自惚れなのかもしれない。だが部屋に誰かが居る時、そうとは知らず自分が下から名前を呼んではまずいだろう。小夜啼が配慮していると考えた方が自然だ。  それに、小夜啼はナンバーワンの売れっ子男娼である事を、アクセルは最近人から聞いて知った。営業時間外に客でもない男が木に登って、翠鳴楼の大事な男娼の部屋の窓辺に現れるなど、いくらなんでも怪し過ぎる。  本当は毎日顔を見に寄りたかったが、仕事で来た時だけというルールを自分に課す。それでもアクセルは一週間と空ける事なく通っていた。  いつもたわいもない話をした。小夜啼の仕事の事は何も訊かない。アクセルの日常の事や街での出来事、最近世間で流行っている娯楽について、仕事で行った外国の街の話。ほとんどアクセルが一方的に話し、小夜啼は聞き役に回る。  取るに足らない話題ばかりだが、外の世界を知らない小夜啼にとってどれもこれも珍しい話らしい。そしてアクセルは何とか小夜啼を笑わせようとした。  訪れるたび、アクセルは必ず手土産を持ってきた。子供が小遣いで買えるような駄菓子や炭酸入りのジュース。だが、普段高級店の贅沢な菓子ばかりを口にしている小夜啼にとって、そんな安っぽい駄菓子は珍しくてしかたないらしい。 「……どう?美味しい?」 「……まあまあ、ってとこだな」  興味ないふりをしながら未知なる菓子を口に入れ、素っ気ない言葉とは裏腹に目を輝かせる小夜啼の反応が可愛いと思った。  常に数メートル離れた距離で、指一本触れる事が出来ない逢瀬だったが、アクセルには幸せな時間だった。小夜啼が自分の話に笑ってくれた時、その笑顔は何物にも代えられない宝物だと思った。  だが、そんな窓越しの逢引きにある日変化が訪れる。  その日も厨房への用事を終えたアクセルはいつものように東の庭に回ると、バルコニーに居る小夜啼を見つけた。  自分が来るのを待っていてくれたんだろうか、と驚きながらも嬉しく思い、声をかけようとしたその時――。 「来るな」  ぴしゃりと厳しい口調が返ってきてアクセルは困惑した。小夜啼に拒絶されたのは初めてである。  急遽来客の予定でも入ったのだろうか。まさか嫌われた?とりあえず理由を知りたい。 「どうかしたー?」 「……すがある。登ってくるな」 「はあ?す?」  言っている意味がわからず訊き返すと、小夜啼は身を屈め少し語気を強めて言った。 「小鳥がこの木に巣を作った。だから来るな」  なるほど、と胸を撫で下ろす。来客があるわけでも小夜啼に嫌われたわけでもない事にアクセルはホッとしたが、喜んでもいられない。  小鳥が卵を産み、ヒナが孵り、巣立つまで小夜啼きに近付く事が出来ない、という事だ。小鳥に木を明け渡してもらえるのはいつになるのか……。 「じゃあどうするの?」 「……」 「それまであんたに近寄れないの?」 「……」  そして思いきってアクセルは提案した。 「こっち、下りて来ねえ?」  それでも小夜啼は相変わらず黙って考え込んでいる。その姿があまりに真剣だったため、アクセルは急かす事なく固唾を飲んで彼の判断を待った。 「よし、そこで待っていろ」  そう言って部屋の奥に引っ込んだ小夜啼は、数分後、庭にやって来た。 「来てくれたんだ……」  ついに目の前に現れた小夜啼にアクセルは感激するが、当の小夜啼は笑顔どころか顔をしかめてどこか落ち着かない。 「玄関付近ですれ違った女中たちが俺を見て唖然としていた……。だから慣れない事するのは嫌なんだ」  そう言う小夜啼は目の前の男より周囲の人の目が気になるらしく、しきりに辺りに視線を走らせる。 「そりゃあ、滅多に表に出ないヤツに会ったらびっくりもするだろうさ」  外に出て来るだけで周囲の人間に驚かれる引き籠りってどうよ……という言葉は飲み込み、アクセルは小夜啼を木の下へと誘った。  午後の日差しが強い時間帯だ。二人は建物に背を向けるように並んで木にもたれる。直射日光にさえ当たらなければ木陰を渡る風は心地よかった。 ――あ、いい匂い……。  肩が触れ合うほどの距離で、彼の身体から仄かに香が香る。それは何という名の香か、アクセルは知らない。どこか優しい香りだが甘さは感じず、セックスを連想するものではなかった。男娼でありながらそれは少々意外に思える。  思えば、こんなに近くに小夜啼が居るのは初めてだ。バルコニー越しではわからなかった匂い、そして体温。自分より幾分身長が低いのも、着物越しに見てとれる身体つきが遠目で見るより華奢であるのも、この距離だから初めてわかる事。 ――まつ毛、長いんだな……。  空を見上げる横顔を盗み見る。まつ毛が長く綺麗なカーブを描いていた。 「おい、此処はだめだ」  小夜啼が唐突に顔を向けてそう言う。横顔に見惚れていたためまともに視線がぶつかって、アクセルはうろたえた。 「え?え?だめって?」 「頭の上で親鳥が騒いでいる。巣の真下に俺たちが居るから怒ってるんだ」  小夜啼が指差す頭上を見上げれば、小鳥が一羽、盛大に鳴きながら木の上を旋回していた。 「……くそー、あっちに行けってかよ。後から割り込んで来たくせに、ひでェな」 「鳥に文句言ってもしょうがないだろ。あいつらも必死なんだ」  俺だって必死だよ……というアクセルの呟きは小夜啼の耳には届いておらず、彼は先に立って庭の奥へと歩いて行った  新たに移った場所は静かな所だった。うっそうと茂る木立が涼しげな陰を作る。二人は芝と茂みを区切る柵に並んで座った。 「そうだ、今日のお土産……。こんなの食った事ある?」  アクセルが手にした紙袋を開けると小夜啼が中を覗き込んだ。 「食べ物なのか?ボタンかビーズみたいだ……」  白、水色、紫の、擦りガラスのようなたくさんの粒。  小夜啼はひとつ摘んで恐る恐る口に入れ、神妙な顔で咀嚼すると顔を上げた。 「砂糖だ……」 「金平糖っていうんだ。凄く『美味い!』ってほどじゃないけど、綺麗だろ?」 「こうして見ると紫陽花の花に似ている」  小夜啼は紙袋に手を入れて一握り掴み取り、手のひらの金平糖を眺める。 「お前はいつも珍しい物を持ってきてくれるな」  金平糖を見つめる横顔がそっと微笑む。その綺麗な笑顔にアクセルは胸が苦しくなった。  あれから何年も経って大人になって、立場も環境も変わって、たとえ小夜啼が自分の事を覚えていなくても、彼から感じるあたたかさは少しも変わらない。  小夜啼は何故かあまり感情を表に出さない。出会った時もアクセルに対してにこりともしなかったのだ。それは小夜啼の性分で、気持ちを伝えるのが下手なのだろうとアクセルは思う。  だとすれば尚の事、そんな彼の仄かな感情表現を大切にしたいと思った。こんなちっぽけな菓子や自分の話に彼が笑ってくれるなら……。 「街に出れば珍しい物やびっくりするような事はたくさんあるよ。この国の外に出ればもっともっとたくさんある。……あんたにも見せてやりてぇな」  小夜啼は、金平糖を口に入れてふっと笑った。 「街も外国も広過ぎる。俺にはこの庭くらいがちょうどいいんだ」 「引き籠り」 「何とでも」 「面倒臭がりや」 「お前はちょこまかし過ぎ」  憎まれ口の応酬。その数秒後、二人顔を見合わせて吹き出す。だが笑った後、アクセルが寂しげな微笑みを浮かべて言った。 「――あんたと、もっとたくさん会いてぇよ……」  会話が途切れて、間を繋ぐようにそよ風が吹いた。二人ともしばらく無言でぼんやり庭を眺めていると、ひとつ咳払いをして小夜啼が言った。 「……考えておく」  思わぬ言葉にアクセルが驚いて振り返った。 「マジ?」 「ただし、外国なんて無理だからな。ちょっと街の様子を覗くだけだ」 「いいよ!そうか、やった!よしっ!」  何度も拳を握り締めて“やった!”を繰り返し言うアクセルに、小夜啼は苦笑した。  数日後の夜。アクセルは閉店の準備をしていた。  最近酒を買いに来る客が増えている。この日も客足が絶えなかった。こんな小さな飾り気のない酒屋で、それは今までなかった事である。  現政権に対抗する改革推進派から禁酒令法案が上がっていた。酒税が上がる、入手困難になる、いずれ完全にこの国から酒がなくなる。そんな噂があちこちで囁かれ、買い占めておこうとする人々が現れ始めていた。  そんな売上急伸の理由はあまり喜べない。アクセルが溜め息をつきながら在庫のチェックをしていると、客が一人入って来た。 「いらっしゃいませ」  仕立てのいい服を着た、上品な物腰の中年男性だった。  おそらく今日最後の客になるであろう。アクセルはレジ横の棚をチェックしながら客の動きを横目で伺った。  客はゆっくりとした足取りで棚を見て歩き、ワインの棚の前で足を止めると一本一本ボトルを手に取っている。 「ワインをお探しですか?」  助言を求めているかもしれない、と客に声をかけてみた。 「ああ、口当たりの良い果実酒をね。恋人へのプレゼントにしたいのだが……。おすすめはあるかね」  それなら、とアクセルは棚の一画からボトルを一本取り出す。 「この木イチゴ酒はどうです?これは先週買い付けてきたばかりで、国産の物だけど今年は凄く出来がいいんですよ。優しくフルーティでありながら力強い後味です」 「……なるほど、見た目も綺麗な色だ。これなら喜んでくれるかもしれない。一本でも配達はしてもらえるかね」 「いいですよ。じゃ、こちらで記入をお願いします」  アクセルは客をレジまで案内し、ペンと紙を差し出した。 「リボンをかけてくれるか?」 「はい。誕生日ですか?」  客はペンを走らせながらその質問に笑みを浮かべた。 「いや、恋人が最近“心此処にあらず”でね。私と会っている時も他の男の事を考えているような気がしてならないんだ。つまりご機嫌伺いのプレゼントだよ。若く美しい恋人を持つと私のようなつまらない中年は気苦労が絶えない」  つまらないどころか、客は女が放っておかないような美男子だ。ユーモアと教養も感じる。おまけに、ただの金持ちではなく相当身分が高い人物であると、アクセルは咄嗟に思った。 「そうですか。そういうプレゼントだったら酒はうってつけですよ」  にっこりと微笑んで、だが記入された紙片に目を落とした時、アクセルは凍りついた。 『511番地、翠鳴楼。――小夜啼』  ハッとしてアクセルが目を上げると、客は手にしたボトルを見つめながら穏やかに微笑んでいた。 「本当は本人に直接届けてもらいたいところだが、部外者が営業時間外に娼婦や男娼に勝手に会う事は禁じられているのでね。敷地内とはいえ館外に連れ出すなどもってのほか。たとえ指一本触れなかったとしても、だ」  その途端、心臓が激しく打ち始める。汗が背中を流れ、指先が冷たくなっていく。 ――全部知られている……。 「私は彼の恋人であり、保護者であり、師だ。彼が一時の気の迷いを起こしても、私と彼の絆は血よりも濃く、強い。なにより私の傍に在る事を、彼自身が望んでいる」  そして客が顔を上げ、正面からアクセルを見据えた時、その目はもう笑ってはいなかった。 「彼が愛しているのは私だけだ」 ――だから近付くな、と……。 「ああ失敬、つまらない話を聞かせた。……木イチゴ酒か。プロの君が選んでくれた酒だ、きっと彼も気に入るだろう」  一瞬前の厳しい眼差しがまるで見間違いだったかのように、客は人当たりのいい笑みを浮かべた。 「閉店間際で申し訳なかった。それではよろしく頼む」  客はそう言い残すと店から出ていった。  正面に横付けされた黒塗りの車から運転手が降りて来る。運転手が後部座席のドアを開けると客は車内に身体を滑り込ませた。  走り去る車を見送り、アクセルは固く握りしめた手が汗でじっとり濡れている事に気付いた。 ――何者なんだ……!  客が書いていった支払いのサインに目を留める。警告者の名がそこに書かれてあった。 『サー・ステファン・モンティエ』