最近アクセルが姿を見せない。 今まで一週間と空けずこの窓の下にやって来たというのに、最後に会ってからもう二週間以上。それからぱたりと来なくなった。 一体何があったのか、小夜啼は考える。 病気になったのだろうか、と心配になった。そうなれば酒の納品にも来られないだろう。だが、酒屋が来ないために翠鳴楼の酒が品薄になっているという話は聞こえてこない。これまでの納品ペースから考えると、この娼館の酒蔵は二週間も経たず底をついてしまうはずだ。 では、アクセルは自分に愛想を尽かしたか。だが、最後に会った時を思い出してみてもそれらしい素振りは感じられなかった。自分の知らない所でこのままではいけないと、思う事があったのかもしれない。それについては何とも言えなかった。 いつもアクセルが呼ぶ東の窓から外を見る。だがこの時間そこに誰かが居るはずもなく、辺りは漆黒の闇が広がるばかりだった。 『おーい!小夜啼ー!いるー?』 自分を呼ぶ、弾むようなあの声はもう二度と聞こえてくる事はないのだろうか……。 「小夜啼!」 ふいに名を呼ばれ、小夜啼は驚いて顔を上げた。窓ガラスの中で、背後で椅子にかけたステファンと目が合った。 「さっきから呼んでいるのにどうした?」 「……ああ、何でもない。ぼんやり外を眺めていただけだ」 今夜ステファンは翠鳴楼の門が開くと早々にやって来た。山のような書類を持ち込んで、まるで小夜啼の存在を忘れたかのように仕事をしていた。 他の客は高い金を払った分、一刻も無駄にしないようにと部屋に入る早々小夜啼の身体に手を伸ばす。だが、ステファンは男娼を買いに来たというより一緒の時間を過ごすために来て、当たり前のように自分の用事をこなしていた。 まるで長年連れ添った夫婦みたいだと小夜啼は思う。ステファンが口も利かず仕事をしている間、小夜啼は寝転んで雑誌をめくったり爪の手入れをしたりと、勝手気ままに過ごした。ステファンが疲れている時、何もせず一緒に眠って帰る事もあった。焦らず急がず、安心して傍に居る。そんな空気が小夜啼は好きだった。 どうやら仕事はひと段落ついたらしい。ステファンは書類をまとめ鞄に入れると小夜啼の方に歩み寄って来た。 「外を眺めたって真っ暗で何も見えないだろう。嘘をついて、悪い子だ」 そう言いながら、ステファンは後ろから小夜啼の身体を抱き込んで首筋に口付けてきた。 「もう仕事は終わったのか?」 「終わったよ。寂しかったかい?」 「そんな事はない」 小夜啼は苦笑って振り向くと、それを待っていたようにステファンの唇が降りてきた。口付けを深くしながら単衣の襟を掴み、強引に肩から引き下ろすと晒された胸の先を指で捏ねまわす。もう一方の手が単衣の裾から忍び込み、小夜啼自身を直に握り込んだ。 「ンン……ッ!」 突然与えられる刺激に喉の奥で呻きが漏れる。自分を握り込む手を押さえて動きを阻止しようとしたが、激しく扱かれて抵抗する力が抜けた。 「正直に言いたまえ、誰の事を考えていた……?」 ステファンは小夜啼の唇を解放し、そのまま耳に唇を這わせそっと囁く。 「誰の事も……考えてなど……。ステファン、ベッドに……」 「たまにはいいだろう?こういう場所でも」 「外から……見える……」 「こんな時間、外に人は居ない。もし居るのならそいつに見せつけてやればいい」 ステファンが身体の前で結ばれた帯の端を引くと、それは簡単に解け、軽い衣擦れの音を伴って単衣が滑り落ちた。 男に裸にされるのは毎夜の事で、それが仕事だ。だが寝台を離れて、しかも未だアクセルの影を残すこの窓辺で、行為に及ぶのは堪らなく抵抗があった。 「嫌だ……此処じゃ嫌だ!ステファン!」 身をよじる小夜啼の身体をステファンは強い力で押さえ付ける。いつもの甘やかす優しい師の姿はそこにはない。 「見なさい」 小夜啼の顎を掴んで正面を向かせ、ステファンは囁いた。 「何が見える?」 すぐ近くに張り出しているはずの太い枝すら見えないそんな深い闇は、代わりに明るい室内の様子を窓ガラスに映し出していた。 後ろからステファンに抱き込まれている全裸の自分がありありと映っていて、小夜啼は愕然とする。背後の男のワイシャツと同じくらいに白い身体。そこに映える硬く勃たされた乳首。そして股間の昂りが嫌でも目に入る。それはすでにしとどに濡れていた。それらから目を逸らしたくても何故か目が離せなくなった。 「さあ、何が見えるか言ってみなさい」 「……ステファンと……俺……」 さらなる問いかけに小夜啼は小さく答え、震える唇を噛む。羞恥でめまいがした。 「嫌だって?ちょっと扱かれただけで此処をこんなに硬くしてか?」 窓ガラスの中で小夜啼と視線を合わせながら、ステファンは彼自身の先端に指先を食い込ませる。滲み出ていた粘液が溢れて伝い落ちていく。 「――興奮しているのか?こんな事をされている自分の姿を見て。だが、君はこれだけじゃ物足りないはずだ。此処に……欲しいんだろう?」 そう言うなり、ステファンはいきなり粘液でぬるついた指を後孔に突き入れた。小夜啼は思わず呻いて仰け反る。咄嗟に逃れようとつま先立ちになったが身体にまわされた腕に押し戻された。 弱い部分を執拗に捏ねまわされて、小夜啼はもう抗えなかった。そこでの快楽を教え込んだのは他でもない、この男なのだ。もっともっと!と、あさましく内璧がうねる。窓に映る自分の顔が快楽に蕩けていく。 「もしもその木の枝に誰かが居たとして、今の君を見たら……どう思うだろうね」 何処か楽しそうなその言葉にステファンの苛立ちを感じた。何に対してなのかはわからない。だが自分は罰を受けているのだと小夜啼は思った。そして、ステファンがそうするのなら、どんな罰をも受け入れなければならない。 「窓に手を付いて足を開け」 たとえ嫌だと言ってもステファンは聞き入れないだろう。小夜啼は言われる通りにし、命じられなくても進んで腰を突き出した。何をされるのか、恐れつつも同時に期待している自分が居る。後孔のヒクつきは抑えられない。 開いた足の後方でステファンが跪くのがガラスに映って見えた。尻に両手がかかり、そこを開かれたと思った途端、奥まった部分に熱く濡れたものが触れた。 「……っ……ぁあ……!」 無遠慮に、少しもためらわず、ステファンの舌が小夜啼の後ろを犯す。やがてそこに指が一本、二本と加わる。唾液によって聞くに堪えない卑猥な水音が鳴り始めた。小夜啼の内腿をあたたかな滴が一筋流れる。 ガラスに映るステファンの激しい腕の動きに煽られる。そして足を開き、尻を差し出して愛撫を施されている、雌のような自分の姿……。直接受ける快楽と視覚的な興奮が混ざり合い、腰を中心に大きな快感の波が押し寄せてきた。 「ステ……ファン……!や……ああぁ……」 「大きな声を出すがいい。いっそ、この窓を開けようか?君の声が誰かに届くかもしれないぞ?」 意地でも声を出すまいと目を閉じて耐えていると、後ろの男が立ち上がる気配がした。そしてベルトを外す金属音。腰を掴まれ、蕩けきった秘部に熱い塊が押しつけられた次の瞬間、一気に奥まで貫かれた。 堪え切れず悲鳴を上げながら、小夜啼は窓に向かって精を放った。 時折、ステファンは手酷いやり方で小夜啼を抱く。 そんな時はたとえどんなに拒絶しても力ずくでねじ伏せられた。小夜啼の気持ちを思いやる事はなく、ある時は言葉や行為で辱め、またある時は一言も口を利かず黙々と犯す。強引なあまり、痛みを与えられる事もあった。 普段優しいステファンが残酷になる、はっきりとした理由は小夜啼にはわからない。だがそんな時のステファンは何かに悩んでいるようにも、不安がっているようにも、怯えているようにも見えた。口では何も言わない分、セックスで感情を吐き出す。 だが、小夜啼はそうされる事に喜びを感じた。その時だけは、普段一切の本音を漏らさないステファンの、自分を求める気持ちをはっきりと信じる事が出来たのだ。 どんなに理不尽な行為をされても、自分という人間が望まれている実感があるからこそ痛みも快楽も震えるほどの悦びになる。凌辱する事でしか感情をぶつけられないのなら、もっと酷く犯せばいいと小夜啼は願った。 それが刹那的な幸せなのだと知ってはいても。 部屋にぬめった空気と情事の臭いが漂う。嬌声も悲鳴も懇願の声も今は止み、荒い息使いだけが静かに空気を震わせる。 窓辺で達した小夜啼はそれだけで許されず、寝台に運ばれた後、手足を拘束された。右側の手首と足首、左側の手首と足首、単衣の帯とベルトを使ってそれぞれ縛られる。腕を内側にしてあるため足を閉じる事も、また膝を伸ばす事も出来ない。 うつ伏せになっても仰向けになっても晒される後孔を、体位を変えながら延々責められた。幾度も押し寄せる絶頂に、小夜啼はただ泣き叫ぶしか術はなかった。 屈辱、ではない。何故なら凌辱しているはずのステファンが最も苦しんでいるように思えるからだ。 大きな手のひらが小夜啼の頬に伸びて涙を拭った。そしてようやく手足を戒めていた帯とベルトが解かれる。手足が力なくシーツに崩れると、体内に放たれた欲望の残滓が溢れ出た。 ステファンは拘束を解いた小夜啼の手首を持ち上げ撫でると、慈しみを込めてそこに口付ける。同じ事をもう一方の手にも。 そしてひとり言のように小さく呟いた。 「君は何を待っているんだ……?」 その日の夕刻、小夜啼はテオから今夜の客が初顔である事を聞いた。誰かの紹介なのだろう。初めての客というのは気にならないとして、小夜啼が眉をひそめたのはその客が若い男だという事だ。 彼の顧客はほとんどが40代から50代の中年だった。30代で若い方である。客の年齢が高いのは経済力の表れだ。小夜啼を買うには若年層では無理があった。 小夜啼は若い男が苦手だった。20代の若い客も何人か居た。大体が大金持ちの御曹司で苦労知らず、親の金で男娼を買う事に何のためらいもない連中ばかりだ。そして彼らは総じて身の程をわきまえない不躾な振る舞いをした。 今、目の前に居る男も、まさにそんなタイプに見えた。 「へえ、あんたがナンバーワンの売れっ子か」 男はカウチにどっかりと腰を下ろすと小夜啼をじろじろと眺めまわした。 「男の淫売なんてどんな気色悪い奴かと思ったけど、結構な美人じゃないか」 年は20を少し超えたくらいの若さで、大柄な身体に纏うのは軍服だった。黒い髪がアクセルを思い出させる。だが顔はアクセルではなく別の誰かに似ていた。 「合格点を貰えたのなら幸いだ」 小夜啼は薄く笑い、男に向かって煙管の煙を吐き出した。 ひとつわかった事……。この客は自分を抱きたくて此処に来たわけではないらしい。言葉にも態度にも悪意が感じられた。では、何をしに来たのか。 小夜啼はグラスにブランデーを注いで男に渡しながら相手の出方を窺った。 「海軍少尉か」 軍服の襟に付いた階級章が目に入り小夜啼が言うと男は面白そうに微笑んだ。 「よくわかったな。軍隊の階級章なんて似たようなデザインばかりなのに、ひと目でわかるとは、さすが軍隊にファンが多い小夜啼鳥だ」 褒め言葉ではなく嫌味だというのは“ファン”に大げさなアクセントを付けた事でわかった。 「あんたとヤった事のある軍のお偉いさん、たくさん知ってるぜ?あんた、今まで何人くらい軍人のモノを咥え込んだ?」 「……さあな、たくさん居るからいちいち覚えてない」 「男にケツ掘られるのってそんなに気持ちいいのか?」 「そうだな、悪くない。……試してみたいのか?」 小夜啼がそう言うと男は初めて慌てた。 「冗談じゃない!俺は女にされるなんざゴメンだ!」 もうひとつわかった事……。男は酷く緊張していた。怯えていると言ってもいいかもしれない。部屋に一歩入った瞬間から小夜啼の迫力に気押されたのだ。何とか優位に立とうと虚勢を張っているようだった。 狼狽する男の顔を見て小夜啼はそっと笑った。 「じゃあ何をしに此処に来たんだ?」 「決まってるだろ、俺はあんたを買った。ヤりに来たんだよ」 「……お前、男を抱いた事ないだろ」 唐突な指摘に男は一瞬黙り込む。そして溜め息混じりに笑ってみせた。 「ああ、ないさ。何だよ、未経験者お断りなのか?手慣れてないと痛いから嫌とでも言うのか?」 「別に初めてだろうが構わない」 「だったらいいだろ。じゃ、そろそろ脱いでもらおうか」 「断る」 「何だと?」 思いもよらない小夜啼の拒絶に男は思わずカウチから立ち上がった。 「噂と違うぞ!翠鳴楼の男娼は何をしても嫌と言わないって聞いた!」 「言わないさ。客の要求は店のルールに反しない限り受ける主義だ」 「じゃあ何で……!」 「お前は客ではない」 どういう事だと言いたげな男は、突っ立ったまま言葉を失っている。 「お前は俺を抱きたいなんて思ってないはずだ……。もう一度訊く。何しに此処へ来た?」 「……」 互いに見つめ合ったまま沈黙が続く。やがて男が息を吐いて引きつった笑いを浮かべ、まいったな、と言いながらカウチに腰を下ろした。 「……わかったよ。じゃああらためて自己紹介しておく」 男は背筋を伸ばし、きちんと向かい合った上で口を開いた。 「俺の名はジュリアンだ。ジュリアン・フランシス・ラサルという」 そう名乗った男の顔を、小夜啼は見つめた。驚きはしない。ひと目見た時から似ていると思ったのだ。 「ラサル提督の息子か……」 「そうだ。親父が世話になっているそうだな」 ラサル提督は他の客同様、家庭の話はほとんどしない。彼は地位の高い軍人で50を過ぎている。当然妻も子も居る。男の自分を相手にするバイセクシャルの提督が父親という事に、小夜啼は不思議な気分になった。 「親父はあんたに夢中だよ。昔から女癖が悪いのはおふくろも俺も知っていた。だけど、こんなに一人の人間に惚れ込むなんて事はなかった。通っているのが女の家じゃなく娼館だと知って、玄人相手なら後腐れない遊びだからいいと思ったんだ。けど……」 膝の上で握られた手に力が入って小刻みに震えていた。 「調べてみたら、親父が夢中になっているのは娼婦じゃなくて男娼だった。しかも、息子の俺より年若い男だったとはな……。まったく、笑える……」 さっきの精一杯の虚勢はすっかり鳴りをひそめ、ジュリアンは俯いてクククッと自虐的に笑った。 「……それで、俺にどうしろと言うんだ?」 煙管に煙草の葉を詰めながら小夜啼が訊いた。 「……親父からあんたを奪ってやりたい」 火を灯していた小夜啼は驚いて顔を上げる。思わず声を上げて笑い出してしまった。 「父親に対する復讐か?男娼と寝る事が?やめとけ、そんな事をしても誰も喜びも悲しみもしない。自分が惨めになるだけだ」 「今だって充分惨めだ!子供の頃から家庭を顧みない親父だった。父親らしい事をしてくれた記憶なんか何もない。そんな親父の興味の対象が息子みたいな年の男の淫売なんだからな!実の息子がありながら若い男とセックスしたがる親父なんて、俺は信じられない!」 立ち上がって声を張り上げるジュリアンを見上げ、小夜啼は静かに言った。 「そういう話は直接父親に言え。親子の問題を此処に持ち込んでも俺がしてやれる事は何もない」 「どんな顔して親父にそんな話をしろって言うんだよ!」 「ジュリアン、俺は提督のものではないし、勿論お前のものになるつもりもない。俺は誰のものでもない。お前の父親はその辺をわきまえている」 それにジュリアンが反論しようと口を開いたが、その前に小夜啼がぴしゃりと言い放つ。 「とにかく、此処はお前が来るような所じゃない。帰れ」 「俺はちゃんと金を払った客なんだぞ!」 いきり立ったジュリアンが小夜啼の胸倉を掴み、椅子から引き起こした。 「くそ!娼館なんかなくなればいいんだ!」 「此処で騒ぎを起こさない方がいい」 少しも怯む事なく小夜啼が淡々と言う。 「部屋の外に男たちが居たろう?あれはこの娼館で雇っている用心棒だ。俺が大きな声を出せば彼らがこの部屋に踏み込んでくる。いざという時荒っぽい事もする連中だ。今夜は金を返すから、怪我をする前に出て行け」 しばらく燃えるような怒りの目で小夜啼を睨んでいたジュリアンは、やがて目を伏せ、単衣の襟を離した。 「自分の親父だけじゃなく、男娼からも相手にされないとはな。俺は一体何なんだ……」 「たとえ一晩とはいえ、金で人一人買うにはそれ相応の覚悟と責任が必要なんだ。お前はそのどちらも欠けている。此処は大人が来る所だ。お前にはまだ早い」 俯いていたジュリアンはそれを聞いてクスクスと笑い出した。 「俺より年下のくせに生意気な男娼だな」 「お前は年上のくせにガキだ」 「あんた、金で買われる立場のくせに、何でそんなに態度がでかいんだ?」 そう問われて小夜啼は呆れ果て、顔をしかめて答えた。 「当たり前だ。金を払った時点で客は立場が弱いんだよ。上位に立ちたかったら俺に“金はいらないから抱いてくれ”と言わせるんだな」 すっかり気をそがれたジュリアンは声を上げて笑った。 「そうだな。この説教くさい生意気な男娼にそう言わせてみたいよ」 きっとまた来る、という言葉を残しジュリアンが出て行った後、小夜啼は深々と椅子にかけ、考えた。 ジュリアンが悪いわけではないのだ。父の愛情に飢え、自分と同世代の男に父を取られた悔しさは、わからないわけではない。取った行動は間違っているが、それほど思いつめるものがあったのだろう。 ラサル提督は人として器は大きい。だが、家庭人としては最低かもしれない。ジュリアンは父が自分に夢中だと言ったが、提督は家庭を捨てて一人の男娼を我がものにしようなどとは考えてはいないだろう。 そうかと言って、自分が罪深いかと言えばそれも違う。だがたしかに言えるのは、娼館の存在に、自分をはじめ娼婦たちの存在に、悲しむ人間が居るという事だ。 客の恋愛沙汰に巻き込まれた事は今までなかったが、今夜こうして客の家族に迫られて、初めて外部の人々の気持ちを知った。街角で娼館閉鎖を唱える人々以外に、国情も経済も貧富の差も関係なく傷付く人間は昔から居たはずだ。それを思うと、小夜啼は何とも苦い気持ちになった。 「だから若い男は嫌いなんだよ……」 敢えてジュリアンに苛立ちの矛先を向けた。卑怯だと、頭ではわかっていた。 「誰か好きな人は居ないの?小夜啼」 目の前の美しい娼婦の言葉に、小夜啼は驚いて顔を上げた。 「突然何だい、藪から棒に」 ティーポットに湯を注ぐセイレーンは湯気の向こうで、ふふふと笑った。 同じフロアに居るこの上級娼婦は、時々小夜啼を午後の茶に招いた。彼女は小夜啼より2歳年上で、15歳の時この翠鳴楼にやって来た。セイレーンの家は貧しく、兄弟姉妹が多い事もあり、ジーラはかなりの高額でセイレーンを買い取った。 セイレーンはその額に見合う娼婦になった。今では小夜啼に次ぐ翠鳴楼の稼ぎ頭である。それでも買い取られた金額には及ばず、まだ年季は明けていない。 中級以下の娼婦たちは上級の者に滅多に近寄っては来ない。嫌っているのではなく畏れ多くて近寄りがたいと思われているのだ。小夜啼のような花魁ともなればなおさらである。小夜啼とセイレーンは上級同士、お互い仕事の苦労がわかりあえるいい話し相手だった。 「俺は居ないよ、そんな人。それよりセイレーンは居るんだろ?恋人」 「小夜啼ったら、知らん顔しているくせにちゃんと見ているのね」 セイレーンは休日の外出のたびに恋人と会っていた。小夜啼に確信があったわけではない。嬉しそうにそわそわとした彼女を見て、恋をしているのだと思っていた。 「どんな男なの?セイレーンの恋人って」 ガラスのティーポットの中では茶葉がゆっくり開いていく。それはひとつの大きな花の塊で花茶と言うのだとセイレーンが説明していた。珍しい茶が手に入るとセイレーンはよく小夜啼を自室に招いていた。 この花茶のように、美しい娼婦の顔が柔和にほころぶ。 「どんな人……そうね、優しい人よ。お金持ちではないけど、たくさんの愛情をくれるわ」 「将来一緒になる約束でもしているのか?」 「先日プロポーズされたわ……」 「プロポーズ?よかったじゃないか」 喜ばしいと小夜啼は思った。だが、セイレーンは静かに微笑むだけだった。 セイレーンがティーポットの茶をそれぞれのカップに注ぐ。ここ数日暑い日が続き、娼館は冷房を入れ始めた。心地よい温度に保たれた室内で、花茶は芳しい香りを放つ。明るく居心地のいい部屋、優しい女と美味い茶に小夜啼は心が和んだ。 「……身請けの話が来ているの」 ぽつり、とセイレーンは穏やかな声で言う。小夜啼はハッと顔を上げた。 「とある伯爵さまなの。その方は奥さまがいらっしゃるけど、お子さまが出来ないらしくて、ぜひ跡取りを産んでほしいと言われたわ。奥さまも同意してらっしゃるそうよ……。私を正式な妻には出来ないけど、生活には何不自由なく……」 「セイレーン!」 小夜啼は最後まで言わせず声を上げた。 「君はそれでいいのか?」 「よくはないわ。でも考えている」 「好きな人が居るんだろ?何故?」 「私が伯爵さまの所に行けば親兄弟にも援助が出来るわ……」 「でも……!」 ――やめろ、と言えるのだろうか、この自分が……。 その思いが小夜啼を口籠らせる。家族の幸せと自分の幸せ、天秤にかけなければならないつらさはセイレーンのものである。本当に好きな男と添い遂げたいだろう。だが、それを差し押さえて考えなければならないほど、彼女は自分の家族の幸せを願っているのだ。 「恋人には何て……」 「彼にはまだ話してないの。伯爵さまにも返事を待ってもらっているわ」 まだ迷い続けているセイレーン。たおやかでおっとりとした彼女の胸の内ではどんなに葛藤しているだろう、と小夜啼は思った。 「ありがとう、小夜啼……」 「俺は、礼を言われる事は何もしてないよ」 セイレーンは悲痛な顔をした小夜啼の手を握って、逆に励まそうとしていた。彼女は、言葉に出来なかった小夜啼の気持ちを充分理解しているのだ。 「モンティエ公爵の事はどう思っているの?」 話の矛先が自分に戻って来て小夜啼は苦笑した。 「ステファンとはそんな間柄じゃない。向こうも俺の事を生徒だと思っているよ」 「そうかしら……。私が知る限り、公爵はあなた以外の娼婦の所へは行ってないわよ?お互い近過ぎて相手の事がよく見えてないんじゃないのかしら?」 近過ぎる存在。セイレーンに言われるまで、小夜啼はそんな風に考えた事はなかった。ステファンへの想いが何であろうと、これは執着なのだろうと小夜啼は思う。そして、身体を重ねる事でしか自分をぶつけてこないステファンも同様かもしれない。 セイレーンと彼女の恋人と身請けを申し出た伯爵、ラサル提督とジュリアン親子、そして自分……。想いは交錯する。人々は執着し合い、誰もがそれに囚われて足掻いている。 「ねえ小夜啼、公爵でもこれから出会う人でもいい、あなたは幸せな恋をしてちょうだい」 優しくも力強くセイレーンは言った。 「私たちは娼婦や男娼である前に一人の人間なのよ」 小夜啼はふと、最近姿を見せないあの黒髪の男を思い出した。 強烈な夏の日差しのように、目を閉じてもあの笑顔が目の奥に焼き付いている。忘れていると思っていたのに、本当は常に頭から離れていなかったのだと、小夜啼は気が付いた。