季節は9月に入り、日中はまだ汗ばむほどの陽気が続いていたが宵の風はめっきり涼しくなっていた。賑やかだった季節も少しずつ落ち着きを取り戻し、遠慮がちにそっと忍び込むように秋の気配が漂う。
 この夜もアクセルは翠鳴楼に向かっていた。小夜啼の元へ客として訪れるのももう三度目になる。娼館通いなど自分には身分不相応な遊びだと承知していたが、今のアクセルには小夜啼に会うための他の手段は思い付かなかった。

 ステファン・モンティエ公爵――。あの日店に現れた中年紳士の事を、アクセルは早速調べ驚愕した。巨大企業“モンティエ貿易”の名を知らない者は居ない。まさかそこの社長だったとは、思いもよらない事だった。
 そして翠鳴楼に関わりの深い人物だったという事も、アクセルは厨房の料理人からの話で初めて知る。
『公爵は女将の古い友人で昔から翠鳴楼を支えてきた一人だよ。まだちっちゃかった小夜啼を花魁まで育てたのもあの方さ。小夜啼の後見人、なのかなあ。その辺はよくわからないけどね。何だい、知らなかったのかい?』
 ステファン・モンティエ公爵と小夜啼の関係について、翠鳴楼で働く人間は古参も新人も皆が知っている事であった。
『彼が愛しているのは私だけだ』
 あの日、警告に現れたモンティエ公爵の言葉に、アクセルは血の気が引く思いだった。真実かどうかはわからない。小夜啼の口から公爵の話が出た事はなく、彼の気持ちは確認してはいない。だが、きっとそうなのだろうとアクセルは思う。
 そして、ひとつだけ確かな事がある。小夜啼は一人の青年であると同時に翠鳴楼の財産なのだ。多くの人間が彼のために動き、その存在が人々の生活を支えている。小夜啼と接する事は二人だけの問題ではない。
 小夜啼は自分の都合で好き勝手に扱ってはならない人物なのだと、アクセルは思った。彼を取り巻く人々に迷惑をかけてはならない。自分の振る舞い次第で小夜啼の立場をも悪くする可能性があった。翠鳴楼に何年も出入りしていながら、娼婦や男娼と直接関わらなかった頃は考えてもなかった事である。
 人目を忍んでこそこそする事なく堂々と小夜啼と会うには、まっとうな手続きを経て客として会いに行くしかない。そうアクセルは結論付けた。だが、会ってその先、自分は彼をどうすればいいのか、アクセル自身わからなかった。


「“小夜啼”という男娼は人が作った幻影にすぎない」
 当の小夜啼のそんな言葉にアクセルは驚き、グラスから顔を上げた。聞き流せないような話に、その意味を訊ねた。
「男娼専門の娼館はたくさんあるが、名門娼館の翠鳴楼で唯一の男娼とくれば人々は注目も期待もする。ジーラはそんな人の心理を上手く利用して小夜啼を売り出した……」
 小夜啼は、まるで映画のあらすじを解説するように淡々と言葉を続ける。
「最初から敷居を高くして客を選び、徹底した高級感を付加した。神殿の奥に祀られた神聖な存在というイメージを植え付けたんだ。……そうなると人は面白いもので、どうしても手に入れたくなるらしい。我も我もと皆がその高級男娼を求め、小夜啼を買う事はある種のステータスになった。やがて美しいだの気高いだの、噂に尾ひれが付いてどんどん評判になる。小夜啼はますます高嶺の花になっていき、いつか伝説の男娼と言われるまでになった」
 そこまで言うと小夜啼は煙管を咥えて、ここまでくると滑稽だろ?と言って笑みを浮かべた。
 アクセルはこんな話をし始めた彼の真意を考える。
 今まで小夜啼は聞き役に回る方が多かった。仕事の話は進んで語る事はなく、またアクセルも訊き出そうとはしない。客として来るようになってから、彼は以前のようなのんびりした感じはなく、何かを抱え込んでいるような表情をする事があった。
「それじゃあ、今俺の目の前に居るのは何者?」
 その問いは、初めて小夜啼の心の中を覗き込む最初の一歩だろう。
「言っただろ、幻影だって」
「幻影なんかじゃねえよ、あんたは俺と同じ生身の人間だろ」
 アクセルの反論に小夜啼は目を細めて微笑む。
「俺はな、夢なんだよ」
「……どういう事?」
 聞くか?と問われてアクセルは頷いた。小夜啼が本当に話したい事が何なのか、今を逃せばもう彼は何も語らなくなってしまう、そんな予感がした。
「此処にはいろんな客が来る。俺に癒しを求める客も居るが、支配したがる奴も多い。支配するには娼婦よりも同性の男娼の方がより優越感があるんだ」
「金持ちでも高貴な身分でも日頃不満や鬱憤を抱え込んでいるのか……」
「彼らは彼らなりのストレスを抱えている。おかげで男娼なんてのは娼婦よりも結構手荒に扱われる。実際、サディスティックな客も居れば二人で来る客も居るしな」
 サディスティック、二人……。“仕事中”の小夜啼の姿が頭に浮かんでアクセルは顔が熱くなった。この凛とした青年が毎夜男の欲望を受け止めているなど、わかっているつもりでも本人の口から直接聞くと何とも落ち着かない気持ちになった。
「あんたほどの格の高い男娼なら何でもかんでも許す事ねえだろ……」
「何のために?」
「何のためって……」
 戸惑うアクセルとは対照的に、小夜啼は悠然と笑って煙草の煙を吐き出し、言った。
「翠鳴楼が許可し、金を払ってこの部屋まで来た客だ。ルールさえ守れば俺は一切拒まない。どんなセリフも言えと言われれば言ってやるし、卑猥な行為も受け入れるさ」
「小夜啼は天下の花魁だろ?逆に客を跪かせても良さそうなのに」
 アクセルは不満げにそう呟いたものの、男の心理に気付いた。普段高飛車な相手であるほど屈服させた時の悦びは大きい。単純な男の本能を上手く操る術を小夜啼は知っていた。彼は尊大と従順のギャップで男を魅了する。結局、客たちは小夜啼の手の中に在った。
「男なんて、どんな立場であれ現実は満たされないものばかりだ。客は大金と引き換えに性欲と優越感を求め、俺はそれに応える。でも客はそれが一夜の夢である事をわかっている。だから彼らの現実の中に俺は居ないんだ」
 頑なまでにプロ気質の男娼にアクセルは言葉を返せない。
「アクセル、もう此処には来るな」
 灰皿に灰を落とし、彼は唐突に言った。
「以前お前は言ったよな?金を貯めていつかバーをやりたいって……。此処に来るのは無駄遣いだ。お前はお前の夢のために金を使え」
 厳しいながらも、それは小夜啼なりの思いやりだとアクセルは思う。だが、聞くのがつらい言葉でもあった。
「……どう言えば、あんたにわかってもらえるだろうな……」
「友だちを作りたいなら他所へ行け」
「そんなんじゃねえよ……!」
「じゃあ俺を抱いたらどうだ!」
 小夜啼は言葉を荒げて立ち上がり、アクセルを壁に追い詰めた。
「俺との時間は買うが俺の身体は買わない……、正直言って俺にはお前の言う理屈は理解出来ない。たしかに俺をどう扱おうが客であるお前の勝手だ。だが、お前の言っている事は俺を根本から否定する事なんだ!」
 小夜啼の言葉は厳しかった。今まで見た事のない彼の荒々しい態度にアクセルは声も出せないほど驚き、目の前に詰め寄る美しい男娼に目を見張った。
「うわべの言葉など俺は信じない。綺麗事など俺には通用しない。お前は男相手に出来ないだろ?こういう事が……!」
 小夜啼はアクセルの右手をしっかり掴むと、その手を単衣の懐へと潜り込ませた。ハッとしたアクセルが咄嗟に手を引こうとしても彼は手首を離さず、ゆっくり自分の胸を撫でさせる。――長い時間共に過ごしながら、アクセルが小夜啼に触れた、それが最初だった。
 引きしまった筋肉を覆う肌は滑らかで、女のような膨らみはないものの肌理の細かい手触りに、アクセルは抗う事を忘れた。まるで大理石で出来た像のようだが、適度な弾力と温かな体温でそれが命ある存在だと実感出来る。
 やがて掴まれた手は下へと導かれ、指先が他より一層柔らかなものに触れた。それが乳首だと知った途端、アクセルの中で激しい欲望が目覚めた。
 導かれずとも自分の意思で指を動かすと、先端の粒が硬く自己主張し始める。自分で気付かぬうちに息が荒くなっていった。そこを摘まみ捏ねるとますます硬くなり、アクセルは憑かれたように手のひら全体で激しくまさぐる。身体の中心に熱が集まって、堪らなく疼いた。
 凶暴な肉欲は猛烈な勢いで理性を凌駕していく。もう自分を止められない!と思ったその時――、小夜啼のもう一方の手がアクセルの股間に押し付けられた。いつの間にかすっかり勃ち上がっていたところへ加えられる刺激に、身体が跳ね上がりそうになった。
「綺麗事言ったって……身体は反応してるじゃないか……!」
 小夜啼は鋭い眼光で“この嘘つきめ!”となじるようにアクセルを見上げる。
「よ……せっ……!」
 アクセルは、なけなしの理性を総動員させ、渾身の力で小夜啼の身体を突き飛ばした。
 崩れ落ちそうな身体を壁に預けてようやく立っていた。全身が心臓になったように鼓動が身体を突き上げ、息をするのも苦しい。壁にもたれ荒い息で小夜啼を見ると、彼はきつい眼差しをアクセルから逸らさぬまま肩で息をしていた。
「抱きたくないわけ……ねえだろ……」
 声が裏返りそうになりながら、アクセルは弱々しく呟いた。
「死ぬほど抱きたいに決まってるじゃねえか、あんたの事……好きなんだから……」
 その言葉に小夜啼の瞳が揺れる。
「夜も昼も、あんたを抱く想像ばっかりしているさ……。毎日でも会いたくて、会うには此処に来るしかなくて……。でも、この部屋であんたに指一本でも触れたら自分のタガが外れそうで怖かった……」
 泣きそうな情けない顔を小夜啼に見られたくないと、アクセルは片手で顔を覆う。額に食い込むほど指に力が入っていた。
「でも此処であんたを抱いちまったら、あんたは金で買われた事になる。俺はあんたを金で思い通りにした事になる。そうしたらどんなに俺が愛してるって言っても、あんたは信じないだろ?俺はただの客でしかないだろ?それに……」
 覆っていた手を離し、顔を上げ、真っ直ぐ小夜啼を見た。
「それに……あんたが好きなのは……!本当に好きなのは……!」
 その時突然、小夜啼が手を伸ばし揃えた指先でアクセルの唇を押さえた。思いがけない行動に、アクセルは驚いて後に続く言葉を飲み込む。だが、本当に驚いたのは……。
 小夜啼は口をしっかり引き結び、目は相変わらず厳しい眼光を湛え、冷徹とも言える表情だった。だが、アクセルの言葉を遮った指先が激しく震えていた。
 冷静を努めた小夜啼の、隠しきれなかった感情。避けられ続けた問題の核にアクセルを導き、彼は引導を渡そうとすらした。その間、彼は恐怖を堪えていたのだろう。
 アクセルは、未だ震える小夜啼の手を両手で受け取り恭しく口付けると、拒絶されない事を祈りながら彼を静かに抱き寄せた。
「ごめん……。ごめんよ、小夜啼……。あんたを傷付けるつもりはなかったんだ。俺、このままじゃいけないってわかっていながら逃げていた。あんたじゃなく俺がちゃんと考える事だったのに……。本当にごめん……」
 自分より数倍も男らしい年下の男娼……。アクセルがその頭を胸に預けさせると、小夜啼はようやく厳しかった目を閉じた。


 二人はカウチに並んで座っていた。
 酒もつまみも煙管も、今は二人の間にはない。世間話も必要ない。ただ、ずっと抱き合っていた。欲望に火が点く事を恐れて小夜啼に指一本すら触れる事も出来なかった。だが、今はそんな事が嘘のように、彼を抱き寄せるアクセルの心は穏やかだった。
「……ねえ、あんたの名前教えてよ」
 その言葉に小夜啼は怪訝そうに眉をひそめる。
「……もう知ってるじゃないか」
「いや、そうじゃなくてさ。“小夜啼”は男娼としての名だろ?本当の名前は何ての?」
 それから長い沈黙が続いた。質問を無視したのではなくためらっているのだと信じて、アクセルは辛抱強く返事を待つ。そして小夜啼がようやく答えた。
「ハリーだ……」
 アクセルの脳裏に遠い日のあの夏庭が蘇る――。空色のボール、ピンク色の飴、光の中で揺れる黄金の髪、そして白い羽根。優しい色彩に囲まれ、男の腕の中で笑う男の子。
『ハリー、おいで』
 あの時、大人の男はたしかに男の子をそう呼んだ。語尾が流れるような語感の、短いが聞きなれない……。それもそのはずだ、その名はこの国のものではないのだ。
「ハリーか……。綺麗な名前だな。外国人なの?」
「……さあ、知らない」
「知らないって……」
「俺は捨て子だったんだ」
 その告白にアクセルは驚いて、思わず身を起こし小夜啼の顔を覗き込んだ。
「……ちょうど今くらいの季節だったらしい。俺は籐の籠に入れられて翠鳴楼の正面玄関前に置かれていた。まだ首も据わってなかったそうだ」
 親に捨てられた男娼の顔には不幸の翳りは微塵もない。むしろ楽しい思い出を語るように微笑んでいた。アクセルは黙って彼の声に耳を傾ける。
「ある日突然やって来た赤ん坊に翠鳴楼はてんてこ舞い。ジーラは一生独身を通していて子供に縁がないし、娼婦たちもみんな子供を産んだ事はないし、一番の頼りは現役で母親をやっている女中たちだ。とにかく男も女も全員が赤ん坊の面倒を見た。俺は翠鳴楼のみんなに育てられたんだ」
「俺、あんたは貧しい家の生まれで、小さい頃に売られてきたんだと思ってた。それか、此処で生まれたか……」
 貧しいが故という事。ほとんどの娼婦がそうであって、それがこの世界の構造でもある。娼婦が客の子を身籠って産むという事もあるが、翠鳴楼では今まで一度も娼婦が身籠った事がない。
 ジーラは娼婦の避妊について相当神経を使っていた。客層が上流階級の者ばかりだったからである。貴族や名門家、財閥の家長の子を宿したともなれば、後継者問題や遺産相続などの混乱を巻き起こしてしまう。
「俺は稀なケースだろうな。いずれにしても翠鳴楼が俺の家だ」
 そう言う小夜啼の顔を見てアクセルはホッとしていた。親に捨てられたという事は不幸な事には違いない。だが、代わりに彼はたくさんの親を得た。それは小夜啼にとって幸せな事なのだろう。思い出を語る彼の表情はこの上もなく優しかった。
「ハリーかぁ……」
 名前を教えてくれた事がアクセルは嬉しかった。だが、小夜啼はしっかりアクセルの目を見ながらあらたまって言う。
「その名では呼ばないでほしい」
「どうして?」
「この娼館では俺は飽くまで“小夜啼”という男娼だ。他のみんなもそう呼ぶ」
 小夜啼の、この職業意識にアクセルは疑問を感じた。何故、彼はこうまで男娼である事にこだわるのだろうか。男娼である事でしか自分を認めたくないのだとしたら、それは何故か。
「でも、一生この仕事やるわけじゃないだろ?あんたは男娼である前に普通の男なんだよ?」
「……わかっている」
「いつかこの娼館を出る時が来たら、どうするの?」
 それに対して小夜啼は何も答えなかった。
「ね、怒らないで聞いて。今あんたが居る場所はすごく狭い。鳥籠みたいなもんだ。娼館の外の世界を見てみろよ。そこはもっともっと……」
 そこまで言って、アクセルはハッと思い出した。どうして今まで忘れていたのか……。
――客と男娼という以外に会えるもうひとつの方法があったじゃないか!
 思わず小夜啼の肩を両手で掴み声を張り上げた。
「そうだ、しあさって翠鳴楼、休みだろ?」
 何やら嬉しそうなアクセルの様子を訝しく思いながらも、小夜啼は頷く。
「その日、ちょうど秋祭りなんだ。行こう!」
「ああ?」
「あんたを宵宮の縁日に連れてってやるよ!てゆーか、連れて行かれてくれ!」
「おい、俺は人混みなんざ……」
「休みの日は自由に出掛けてもいいんだろ?それに約束したよな?」
 案の定、拒否しようとする小夜啼に、アクセルは顔を寄せて詰め寄った。
「外国なんて無理だけど街の様子を覗くくらいならいいって。小夜啼は俺に約束してくれたよな?」
「……そうだった、な……」
 結局アクセルの押しに負け、小夜啼は外出を承諾した。
 この娼館の向こうに広がる風景に目を向けるだけでも構わない。その上にある空が広いのだと知るだけでもいい。
 小夜啼に出会って自分が救われたように、自分が彼に何が出来るか、アクセルは思った。


 空が白み始めた頃、アクセルは小夜啼の部屋を後にした。
 時間いっぱいまでアクセルは小夜啼を腕に抱いていた。夜が明けても離れがたく、部屋を出るのが遅くなった。窓からいつもより明るくなった景色を見ながら階段を下りる。
 一階のラウンジに来た所で彼は足を止めた。ソファに一人の男が座っている。
 上質であろうサマーウールのスーツ、肩幅が広く細身の背中、栗色の髪。男は背中を向けていたが、アクセルはその後ろ姿に見覚えがあった。
「……やあ、おはよう」
 アクセルに気付き、男が振り返って言う。
「君を待っていたんだ。よかったら掛けないか?」
 見下ろすと灰皿の中に吸殻が10本以上入っていた。男はいつから此処に居たのか――考えながらアクセルは言われた通り向かいの椅子に腰を下ろした。
「アクセル君……だね?」
「アクセルでいいです。モンティエ公爵」
「私を知っているようだね」
「俺も少し調べさせてもらいましたから」
 アクセルは、“俺も”にアクセントを置いた。ステファン・モンティエが自分の身元を調べ上げているだろうという確信があったからだ。アクセルの言葉を受けてステファンは、いい心掛けだ、と言って微笑んだ。
「彼と庭で会うのはやめたようだね。それもいい心掛けだ。規則は守らなければならない。客として此処に来るのは昨夜で三度目、か」
 途端にアクセルの顔が強張ったのを見て、ステファンは笑って言葉を続けた。
「誤解しないでくれたまえ、君の後をつけているわけじゃない。小夜啼の予約データを見ただけだ」
「でも、あなたは一応部外者じゃないんですか?」
「私は例外的に小夜啼に関する情報を知る権利を持っているんだ。決して翠鳴楼の情報管理が甘いとか私が盗み見ているわけではないよ」
 女将もステファンも政財界の深部まで知り尽くしている。紳士もけだものに豹変する娼館の密室で、ナンバーワン男娼が思わぬトラブルに巻き込まれぬよう、二人は小夜啼の客を厳しくチェックしていた。
「それはそうと、彼はどうだったかね」
「……どういう意味です?」
「セックスだよ。小夜啼を抱いてみてどうだった?」
「俺は……抱いてませんよ。一度も」
 アクセルがそう言うとステファンの顔に初めて動揺の影が差した。
「……何を言っているのかね、君は」
「本当です」
「小夜啼は花魁なんだぞ?君は彼のプライドを傷付けるつもりか!」
「傷付けるつもりはないけど、たしかに彼を傷付ける事かもしれません。でも、俺には出来ない」
 ステファンは乗り出していた身体をソファの背もたれに預け、静かに言った。
「何故だ……?」
 アクセルは目を閉じた。“俺を抱いたらどうだ!”と自分に詰め寄った先程の小夜啼が脳裏に浮かんだ。
「前にあなたは『彼が愛しているのは私だけだ』と言った。たしかに小夜啼はあなたを愛しているんだと思います。でも、俺の事も想い始めているんだと思う。公爵、俺は小夜啼の身体が欲しいんじゃない、彼の愛が欲しいんです。その時が来るのを俺は待ちたい」
 突然、ステファンが声を上げて笑い出した。だが、笑い声の裏側に何処か虚ろな響きをアクセルは感じた。
「身の程知らずもいい加減にしたまえ、アクセル」
 笑うのをやめたステファンの顔は険しかった。
「小夜啼は地位の高い男娼だ。顧客には大臣も将軍も居る。外国からわざわざ会いに来る高官も居るんだ。彼は君の恋愛ごっこに付き合うような安っぽい街娼ではない」
「恋愛ごっこなんかじゃ……!」
「それに、こんな事を言っては失礼だと思うが、君の父上が遺してくれた財産を娼館通いで使っていいのかね?今の君は亡くなったご両親に対して胸を張れるか?」
 アクセルは唇を噛んで目を伏せた。悔しいがステファンに何も言い返す事が出来なかった。財産を食いつぶすほど翠鳴楼に使っているわけではないが、酒屋は親から継いだものには違いない。
「何もしてこない客など小夜啼も初めてだろう。たしかに、彼に自分を印象付ける事にはなるだろうな……。君もなかなかの策士じゃないか」
「そんなんじゃない!俺は小夜啼の気持ちを尊重したいだけだ!」
 アクセルは腹黒いと言われている気がして思わず声を荒げた。だがすぐに、落ち着けと自分に言い聞かせ、深呼吸する。
「……彼をどうする気だ」
「……どうにも。どうするかは小夜啼が選ぶ事でしょう?」
 ステファンはそれに答えず、内ポケットからシガレットケースを取り出した。彼が煙草に火を点ける間沈黙が続く。やがて顔を上げ、傍らにあった新聞を取り上げた。
「甘ったるい恋愛にうつつを抜かしていないで自分の足元を見たらどうだ?」
 そう言うとアクセルの前に新聞を放る。一面の隅の見出しが目に留まった。
『禁酒令法案、各地で支持集める』
 現政府に対抗する改革推進派が打ち出した法案は次第に支持され始めていた。
「動きがいよいよ活発になってきた。この国から酒も酒屋もなくなるぞ」
「……知ってます。あなたの会社も無関係ではありませんね」
 モンティエ貿易の酒類輸入部門はどれほどの打撃を受けるだろうか、とアクセルは考える。これほどの大手ともなれば一部門で簡単には傾きはしないだろう。だが、アクセルのような小さな酒屋は廃業を余儀なくされるに違いない。
 自分の小ささに打ちのめされそうになったその時、厳しくて優しい先程の小夜啼を思い出した。腕の中の細い肩……。何かが胸の中いっぱいに膨らむ。アクセルは顔を上げた。
「政治が変わって社会が変わって、酒屋も娼館もなくなって、あなたも俺も小夜啼も流されていく。その時、あなたこそ小夜啼をどうするんですか?また鳥籠に彼を閉じ込めますか?」
 アクセルの言葉にステファンの顔色が変わった。驚愕とも怒りともつかない目でアクセルを見る。
「何故、小夜啼が男娼である事にこだわるのか不思議でした。そしてやっとわかった……」
 言いながらアクセルは立ち上がる。
「あなたが居るからです、公爵。小夜啼はあなたを愛する理由が欲しくて、男娼でいる事であなたと繋がっていたかったんです」
 アクセルが席を立ってもステファンの視線は彼を追わなかった。何もない目の前の空を無言で見つめていた。
「――そろそろ、彼を自由にしてあげたらどうです」
 失礼します、と言い残してアクセルはステファンに背を向けて歩き出した。最後に視界の隅に映った男は、頭をしっかり起こしたまま目を閉じていた。

 ステファン・モンティエ公爵の本心に気付いている者は居るだろうか。彼自身、自分の気持ちを誤魔化し、人々も彼のうわべを信じているのだろう。高貴で自信家で常に冷静な花魁の後見人。だがその内面は、愛に迷って不安に揺れる不器用なただの男だ。
 ステファンを憎いとは少しも思わない。尊大な言動の裏にある小夜啼への愛情は深かった。果たして小夜啼は彼の胸の内に気付いているだろうか。
 歩きながらアクセルは自分の唇に触れた。
『あんたが本当に好きなのは……!』
 厳しい顔で、続く言葉を制した小夜啼の震える指を思い出した。今は口にするなと、彼がそう言うなら、その時が来るまでいつまでも待っていようとアクセルは思う。
 空の広さも知らず、飛ぶ事を恐れる小夜啼……。愛という鳥籠の中で夜に啼く可哀相な小鳥を想った。
 自分の唇が震えるのも、視界が霞んでいるのも、彼は早朝の冷たい外気のせいにした。